2023/11/19
2023/11/20

意識の発現

生命が環境の変化を情報として刺激から得られるようになった当初、
最初は環境の刺激に反応するだけの存在であったと考えられる。
以前、光に対して反応するボルボックスの眼点と走光性について考えた内容である。

それが自身の状態を情報としての刺激として得られるようになって、
初期に得たものが欲求であると考えられる。
人間が感じるような欲求の刺激ではないが、
初期の生命においても存続するために必要な何かを知るようになったと考えられる。
つまり、生命として自分についてどのような情報がまず必要となるのか考えてみると、
自身の個体の存続、維持がまず重要となる。
そのために自身の情報を得るなら、何よりも先にまず欲求となるだろうという事になる。

つまり、まず環境の情報を得られるようになり、
次に自身の情報を得られるようになるのであれば、という事である。
あえて自身の情報を刺激として受容するようにならなかったとしても、
生命としての先天的定義は存在するわけだから、
特別に刺激として自身の情報を得なくとも、
本能として自身の状態について反応すれば、
生命としての活動には支障はないはずであるが、
自身の情報というものを、敢えて刺激として得るようになったというのは、
恐らくだが多機能の多細胞生物になるためには不可欠だったのではないかと考えられる。
つまり、環境に適応するための機能を複数持つためには、
個体の中で、その調停をする機能が必要になったと考えられるというわけである。
つまり、特定の機能を常に優先するというような状態にならないように、
状況や状態といった条件によって、何を優先するべきか、
何を後回しにしておくか、その場の判断材料として、
自身の状態を情報として必要としたのではないかと考えられる。

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そして、例えば自身の体に対して何かが不足している状態となった場合、
その状態に対して自分で知る必要があるのは、その不足についてであり、
その不足に対して行う必要が生じるのが、充足という事になる。
充足は、生命が何もしなくても得られるものではなく、
基本的に何らかの行動や反応を起こす必要がある。

例えば、植物の光合成は全て日光に依存しているので個体が何もしなくとも、
充足の状態に至ることはできるが、それでも日光の方に葉を向ける程度の反応は起こす。

そして、不足している状態はほとんどが瞬間的なものではないため、
その不足状態を知る事について、不足状態を維持する必要がある。

つまり、生命にとって何らかの不足が生じた場合、
不足に対する欲求を生じるなら、まずその「欲求の維持」が必要になる。

欲求が瞬間的に生じるものだけであったとすると、
次の瞬間には不足を感じなくなるという事になり、
また、もしくは、連続する刺激となって生命が得るものであるとすると、
常に不足状態を知らされ続け、他の活動に支障が生じる事になる。

欲求の維持は、人間においては認識や記憶によって容易な事に感じるが、
より単純な生命において、欲求を状態として維持するのはかなり難しい事になる。

つまり、最低限、何らかの状態を維持するという機能が必要になる。
それも後天的にである。
先天的定義を用いて、常に不足状態を刺激として得て、維持するという手段も存在するが、
人間の神経細胞においても、その励起と回復にはかなりのエネルギーを消費する事になる。
つまり、効率がよく、それに似た仕組みで状態を維持するとしても、
常に刺激として情報を得続けることは無駄が多いという事になる。

であれば、何らかの別の状態に移行してしまえば良いという事になるが、
不足状態を受けて、何らかの別の状態に移行するとすれば、
個体内において何らかの状態に移行する為の変化を起こす必要が生じる。
人間であれば、身体が自発的に行う機能であれば、何らかの化学物質を体内に放出することになるが、
それと同様の機能は必要になる。

つまり、個体の定義として、身体に不足が生じるという状態になった場合、
充足の為の反応を起こす必要のある状態に移行する。
そして、そのためのきっかけとなる要因が存在し、それらが定義として存在する事になる。

そういう先天的定義が存在している必要があるという事になる。

そして、初期の生命であったとしても、
知能が自ら意識することが無かったとしても、
生命である以上、自身の存続、維持に関しては、
エネルギー源となる何か別の対象を摂食、もしくは光などから得る必要が存在する。

もちろん、分裂をして個体を増やすのであればなおさらその成分を保有しなくてはならない。

であれば、生命として存在するには、不足状態は切っても切り離せない状態という事になる。

そして、その不足に対する充足を行うために、
不足状態を維持する必要があり、その維持には何らかの設定と定義が存在する必要がある。

後天的定義は先天的定義より定義されるので、
先天的定義または後天的定義として、不足状態、充足状態、不足状態となる理由、充足状態となる理由、
不足状態を表す要因、充足状態を表す要因、その定義を必要とする事になる。

さらに、充足する為の機能や活動についても定義が存在する事になるが、
これについては、不足状態に対する反応となる別の機能であるので、今回は割愛する。

そして、不足状態から充足状態へ移行する間の状態として、
不足状態となる理由と、不足状態を表す要因の定義により、不足状態が設定されることになるが、
この状態が充足されるまで維持されるという事になる。

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そして、
そのある状態が維持されている状態、
そのものが意識の原型ということになるのではないかと考えた。

つまり、自身のある状態について自ら知る事である。

初期生命においては、意識が存在するというような認識ができるわけではない。
そもそも想起などができず、自己の認識ができないからであるが、
それでも、自身にとっての不足を充足する必要があるという欲求のようなものが存在する状態というのは、
存在できることになる。

個体は存在し、個体自身が自身の不足を定義することが出来、不足自体を自ら分かっている。
個体自身が不足に対して充足するという活動を行う定義が存在する。
そして、その各状態を維持する機能、定義が存在する。

つまり、
初期生命においては、自身が何をしているのか自体を知ることは無いが、
自分の変化に対して、適応、対応する定義を持っていて、
その変化に対して常に適応、対応しようとする。

つまり、その適応や対応自体は、
客観的に対象の個体が目的をもって活動している様に見えるという事になる。

これまでの考えで、
意識の存在は、刺激の認識の上に成り立つ状態のようなものと考えてきたが、
現実であっても、夢を見ている最中であっても、
刺激の認識なしに意識の存在、自分の存在は確認できない。
それは自らの体験として、そう言える。

例えば、私が布団が暑くて悪夢を見るにしても、
必ずしも暑いという不快な刺激により常に悪夢を見るわけではないし、
もちろん、睡眠時に常に夢を見ているわけではないし、
覚醒後に記憶しているような印象的な夢を見ない場合もある。
夢を見ていないと自身が感じているということは、
その睡眠期間に意識されるような刺激の認識が行われていないという事になり、
目覚めた後に夢を思い出せない間の時間には、自分は存在していなかったかのように感じる事になる。
逆に、覚えていた夢を思い出している間は、それが悪夢であったとしても、
その間の時間には刺激を認識し、意識が存在していたと感じる。

夢を見ていない間の時間は、つまり、意識を感じられない時間の間には、
定義で意味付けできるような刺激を受容していない、想起していない、認識していないという事である。
これは、320の想起のきっかけで考えた事だが、
夢を見るには、想起のきっかけとなる刺激の存在が不可欠であるという事である。
つまり、意識として感じられる存在についても同じことが言えるが、
刺激の認識と、意識の存在の間には関連が存在するという事が言えそうである。

つまり、上記の布団で暑いという刺激は自分は認識していないので、
その刺激をを認識して夢を見ているのではなく、
暑いという刺激の関連の想起として夢を見るのだが、
不快である状態について関連している私の記憶が想起された結果として、
不快に関連する記憶が関連して想起されることで悪夢として形作られるという事になる。

そして、これを意識の発現として逆方向に考えて辿ると、
意識には刺激の存在と、その刺激が常在する状態が必要になるということになり、
さらに、その状態が存在するには、その理由となる刺激の発現理由と定義が必要になるという事、
そして、それは、刺激の存在の必要性と、
その刺激が、想起の基となる刺激としての、
周囲の環境の変化、または自身の状態の変化による、
状態の位相差の情報の存在にたどり着くのではないかという事になる。

つまり、自身が環境から得る事になる情報、または、
自身の状態の変化によって生じる情報によって、
自身が刺激として定義する情報となり、
意識が発現するに至るという事になるのではないかという事である。

そして、ここに自分、自身の存在が不可欠であるということも分かる。
もちろん、自分にとっての意識が存在する必要なのであり、
情報を得るのも、刺激を受けるのも、自分自身であるのだが、
自分自身が存在するから意識もそこに常に存在しているわけではないとも言える。

それは例えば夢を見ていない間の睡眠時間、意識を失っている状態の時間、
そこに意識は存在していない。

つまり、自分の中に意識という存在が最初から存在し、
その意識によって何かが行われたりという事ではない事が言える事になる。

つまり、
意識の存在には、刺激を認識する自分が必要になる。
という事になる。

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ある状態の認識、維持というものは、
さらに、これは初期生命においての意識の原型というものになるが、
これは人間においては、欲求の維持は、目的の維持となり、
これが意識に繋がっていくのではないかと考えた。

つまり、生命のとしての欲求の維持に、自己の認識が加わることにより、
自己の欲求として認識する、意識になったのではないかというわけである。

もちろん、基本の考え方として、
意識は、連続する刺激の認識の上に成り立つという考え方は存在することになるが、
そこに意識する事になる対象の存在も不可欠であるという事になる。

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つまり、
意識の発現には、
自身に関係する状態の位相差、情報が元になっていると考えられる事になる。

つまり、単なる環境の変化だけ存在すれば良いわけではなく、
自身がそこに関連している事が重要になる。

例えば、pH計が、何らかの液体にセンサーをつけ、
そのpHを計測する事は、自分にとっては刺激でも意識でもない。
しかし、その液体にセンサーが接触する事自体は自分にとっての刺激でも何でもないが、
pH計の数値を自分が見る、視覚によって刺激として認識されると、
自分が認識したpH値という事になり、自分が認識した、意識した刺激であり、
情報になる。

また、
実際に直接その液体に自分の指をつける事は、
自分にとって刺激であり、認識される情報であり、意識される刺激になるが、
pH計のセンサーがその液体に触れる事は、
pH値と自分の関係にとっては刺激でも情報でもない。
そして、
pH計の数値を見る事は、自分にとっての刺激であり、
意識される情報である。

つまり、
自ら意識する、認識する刺激、刺激としての情報であるためには、
自分が関与していなければならないという事になる。

まあ自分の意識であるのだから、
自分が関与していなくてはならないという事は当然の事であると考えられるが、
つまり、自分が関与しない自分の意識が存在するかと考えてみると、
そのような意識が存在するなら、
自分が関与しない刺激を自分が認識できるという事になってしまい、
おかしなことになる。

その意識を構成するための刺激が、
自身の体にしか、その刺激の発生源が存在しない為、
自身の体の体表以内にしか、意識の発生する場所は無いという事になる。

自身の体の拡張要素としてパーソナルスペースという考え方もあるが、
パーソナルスペースは、視覚で捉えている対象と自分の位置関係であり、
その関係についての後天的定義としての印象ということであり、
想起による刺激であるため、その刺激の存在の発生源は体表内ということになる。
もちろん目をつぶってしまえば対象と自分の位置関係は分からなくなる。
空間内に自分が認識する事の出来る対象の刺激が存在しなければ、
パーソナルスペースは成り立たない。
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実際、この内容は難しいのだが、
人工知能において、意識を発現させるために、
何らかの工夫をして、いざ人工知能に意識が生じたと感じることはできても、
それを証明する手立てがない。
それは、私が意識を持っているということを証明することができるかという事と同義であり、
私自身は私に意識が存在していると私自身の存在の認識によって自分に対しては証明できるのだが、
別の誰かにそれを証明する方法が存在しない。
チューリングテストをクリアするというような手段もあるが、
それは客観的に見かけ上の自我や意識の存在を認める事が出来るという事だけであり、
実際に意識が存在しているかを証明する事ではない。
それは、意識の発現が自身の外部に変位差の情報として表現する方法が無いからという事になる。

意識があるかないかだけであれば、
人間は瞳孔を調べてみても良いし、覚醒しているかどうかを何らかの手段で調べても分かるが、
意識の存在については、この対象はある刺激に対してもっともらしい反応をしているために、
意識があるように感じるという程度の確認しかできない。

それは、意識の存在が、その個体が自ら認識した刺激によって、
その刺激の情報を知りえた事について、
その個体以外に知り得る方法がないという事である。
つまり、刺激の情報の定義を持つ個体の存在が異なれば、
その情報の定義は異なった意味を持つという事である。

つまり、目をつぶって動かない対象に意識があるかないかを
その当人と別の誰かが定義し合うようなものである。

ただ唯一、人工知能においては、その意識の有無を確認する方法がある。
人工知能に対して人格が存在するようになった場合は、
確実に人工知能を持つ個体の権利の侵害になるのだが、人工知能が想起によって再構成する刺激を表示できれば、
そこに意識が存在するかが分かる。

つまり、想起によって再構成される刺激に、
自己の定義が含まれているか、関連しているかかどうかで分かるという事である。

まあこれも逆に考えれば、人工知能が意識を持つには、
自己を想起できるようになれば良いという事でもあるのだが。

思わぬ所から今回の表題の結論が出たが、
であれば、

「知能が自らの存在に対して定義する要素を含む情報を、
想起の対象として刺激として構成できる能力を有する事、
有している状態。」

これが意識の存在、意識の発現の証明という事になる。

これは、知能の高低に関わらず適用できると考えられる。
つまり、本能だけで活動するような個体においても、
欲求などが存在すれば、その個体には意識が存在すると考えられる。
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注意する必要があるのは、
ここでの意識は自我の存在と同じものではないという事には注意が必要である。
あくまで知能を有する生命における意識の存在・発現について証明できるという事になる。

自我意識と呼ばれるような自己に対する意識はまた別の所にある。
意識の延長線上にはあるのだが、その証明には後天的定義の理解がもう少し必要となる。
つまり、後天的定義で自己の定義をどの程度行えば良いかという事である。

想起に関してもう少し考える必要も生じたが、
とりあえず、今回の結論には到達したので。
今回はこの辺で。


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