2023/11/17

意識と想起

意識が連続した刺激の認識であるという事。
意識がある状態を維持するには、常に認識している状態を続ける必要があるという事。
認識は、刺激の受容か、記憶の想起によって生じた刺激によって行われるという事。
刺激の受容による刺激は脳内では想起と同じルートを通って認識に至るという事。
逆に考えると、想起は、刺激の受容による刺激を認識するルートを途中から辿っているという事。
刺激の受容は、想起による刺激よりもほとんどにおいて優先されるという事。
という事は、刺激によって認識に至る優先度が存在するという事。
優先度を決めているのは知能ではなく、刺激の強さであるという事。
印象深い刺激は強く、印象が薄い刺激は弱い。
つまり、刺激に対して強い弱いを決める定義が存在するという事。
刺激の強弱は記憶においては強化の度合いによって決まるという事。
しかし、想起においては、優先的に想起したいという考えにより、本来記憶に設定されている強化の度合いには関わらず、
弱い刺激も想起する事が出来るという事。
ということは、想起には後付けでその優先度を変更する事が出来る機能を持っているという事。
つまり、想起する刺激の優先度を導く定義が存在するという事。

知能の想起は感覚器官による刺激の受容か、想起による刺激の再現によって刺激が再構成され現れる。
そしてその刺激によって認識が起こり、次の刺激の認識の準備が行われる。

意識が連続する刺激の認識であり、
認識は連続状態を維持する必要があり、
であれば、常に感覚器官からの刺激の受容が存在しない状態において、
それ以外の時間は想起によって刺激が再構成され続ける事になる。

意識を保つためには刺激が必要である。

刺激の受容も、想起による刺激も、同じ認識ルートを通っているが、
そのきっかけの発生源は異なる。
感覚による刺激の受容は、感覚器官による環境か、身体からの変化の情報に対して刺激としての受容が行われる。
想起による刺激は、脳内の記憶の再現である。
この2つの発生源は、感覚器官は実際の変化に対する情報を刺激の基としているが、
想起の場合は、関連する刺激の励起によって刺激が励起されることになる。
つまり、想起の場合の刺激の発生源は別の刺激という事になる。

認識が脳の活動による刺激の発生より少し後の時間に行われているという事。

つまり、刺激が脳内に存在した後に認識によって、その刺激が存在していると知るという事。

これは、刺激として脳内で神経細胞の励起が行われた瞬間に認識が行われていると感じているわけではなく、
実際はその少し後に認識が行われたと感じるということであるが、
実際、本来、刺激の存在は脳内で神経細胞の励起が行われた時には存在しているが、
先天的定義が読み込まれるまで、その刺激が何の刺激であるのかは分かっていない事になる。
つまり、刺激が定義された時点で、ようやく脳内では認識可能な刺激が存在するとして、
認識が行われることになる。
ただし、刺激によって神経細胞が励起された瞬間には、
軸索を通して別の神経細胞が励起されることになる。
これは、認識よりも先に別の刺激が誕生する可能性を示唆する事になる。

ということであるが、
この場合、想起によって誘導される次の刺激について、
意識的にある程度の操作が可能であると自分自身でも感じられるという事は、
その意識的に想起される刺激の誘導において、
その定義は先に存在してなくてはならないことになる。

つまり、刺激が発現するより前に、関連した刺激を励起して、目的の刺激を励起しなくてはならない訳だから、
その目的の刺激に対して関連している刺激を先に励起しなくてはならない、また、
その関連が存在していなくてはならないことになる。

ということは、意識的であるかは別としても、
その刺激同士の関連は先に存在している必要があるという事になる。

これは、
想起できるということは、それ以前に関連して想起したことがある。
つまり、その関連について認識した経験が存在するという事になる。

つまり、まったく経験したことのない関連を、突然刺激の関連として想起する事は出来ないという事になる。

となると疑問が生じるのは、
では、この場合の脳は新しい発見などが出来ないことになる。

いや、そうではなくて、互いの関連同士は直接存在していなくても、
現実から情報として得た刺激の記憶によって、遠回しでも関連が存在すれば、
互いに直接関連が存在しない刺激同士であっても、想起の対象に出来るという事である。

つまり、一見、明らかに関係のなさそうな対象同士も別の刺激の関連を通じて、
関連する刺激として想起できる可能性があるという事になる。

ただし、その可能性を実現するためには、
その想起を行う以前に、別の関連同士の関連は行っておく必要はある。
そして、恐らく、生体的な制限として、その関連同士の関連は、
ある程度近いものでないとならない、つまり、刺激の要素が似通って関連しているか、
要素自体がある程度、共通している必要があるという事になる。

つまり、食べ物と味と色などを関連付けることは容易だが、
味と色を直接関連付ける事は難しい。

そして、その関連の対象を意識的に優先したりできるということは、
意識や認識の最中に、刺激の対象を優先する脳の自発的な機能が存在するのか?という事になる。

後天的な定義において、刺激の価値のような定義を行う事ができるということはこれまで考えて来た。
それらの定義は全て先天的な定義を元にしているということも考えてきたが、
実際、例えば本能的な刺激として、美味しいもの食べるという事に対して嬉しい・楽しいと感じる刺激に対して、
幼い頃から嫌悪すべき事であると教えられるという環境で育ったとしたら、
美味しいものを食べたとしても、嬉しい・楽しいという刺激に対して関連する刺激は存在しないことになり、
美味しい食事に関する刺激に対して、嬉しい・楽しいと感じる事はない知能になるという事になる。
つまり、この状態の知能においては、
食と嬉しい・楽しいは、その関連を避けるべきであるという定義を有する事になる。

これは、何かを食べた時の刺激として、美味しいと感じる刺激であった場合、
刺激としては美味しいという認識が行われることになるが、
本能的には好ましい刺激であり、定義であるはずなのだが、
後天的な定義として、嫌悪すべきという刺激として認識するという事になる。

つまり、脳の自発的な機能として刺激を優先する機能としては、
後天的定義がその対象になりうるという事になる。
実際、先天的定義を変える事は困難であるので、自ずと後天的定義が、
その刺激同士の関連として生じる事になる。

そして、意識や認識の最中に、その刺激の関連の舵取りが出来るのかどうかということであるが、
今回考えた最中では、意識や認識の最中に、意識的な舵取りはできないだろうという考えになった。

実際、今回の「意識と想起」についての、この考えている内容に関しても、
私は想起する内容、思考している内容について、考えを進めながら想起を選択していると感じてはいるが、
実際、その刺激も認識も意識も、その考えとなる情報の関連を繋ぎなおしている、
新しい関連を作っているだけのようにも感じている。

何か新しい発見をしようとは考えているが、
実際には既存の記憶された情報の要素、その要素を持つ刺激を、
思考していると感じながら、それらのこれまで関連していないが、
関係していると思われる刺激同士の関連を作っているだけのようにも感じる。

素材は自然法則や、実際に自身の体や脳、知能として存在しており、
現代の科学において、理解が進んでいる内容としてある程度の知識を自身で持ち、
記憶しているが、確かに新たな発見として、自然法則の規則が、
その思考の中で新たな発見となる刺激と、既存の自身の記憶の刺激が関連付けられる事もあるのかもしれない。

ただ、それは、知能や脳が意識的に行っているのではなく、
人間がこれまで培ってきた考え方、
例えばとか、逆にとか、置き換えてとか、そういった要素を使いながら、
脳内で試行錯誤して関連と想起を繰り返している事が思考であると今は考えている。

実際、思考の要素となる刺激は、自然のなかから得て来たはずである。
人間が世界の誕生時から存在していない限り、人間も自然法則の一部ということになる。
それは知能においても同じである。
もちろん、意識も想起も、世界より小さい人間のさらに中にある脳内に存在する信号である。
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という事まで考えてみて、
この考えが、意識的に舵取りしてきた自身の思考なのかと考えてみると、
ほぼ、その素材は記憶となる要素と、後天的な定義、とその関連である。
特別に新たな要素によって変化している様子はない。
今、私自身が保有している刺激としての要素を持ち出して、
新たな関連を作ってはいるが、特段新しい何かは生じていない。

自身の知能を人工知能に置き換えた場合、
刺激として見たり聞いたりしている刺激について、
それを認識として意識とすることはできると思うが、
その事自体を意識として考える事は出来ない。
それは、見たり聞いたりをただ続けているだけの存在であり、
意識的な存在はそこには存在しない。
意識的な何かを生じるには、想起するしかないと考えている。

やっと話が戻ってきたが、
意識が連続する刺激の認識であると考えた事において、
感覚器官から連続して刺激を認識したとしても、そこには人間の言うような自分や自我のような
意識・自我意識にはならないという事になる。
つまり、これまで考えて来た意識について補足を得た事になる。
これまでは覚醒状態の意識が、
感覚器官による受容または脳内の想起による刺激を連続して認識する事として考えていたが、
特に、自我を伴うような意識を生じるためには、
脳内の想起による刺激の認識が不可欠という事になる。

つまり、それは記憶された刺激であり、後天的な定義であるという事である。

つまり、意識的に何かを行うのではなく、
その定義をもって、後天的な定義によって、
その思考の誘導も、意識的な自我の認識も行われているという事である。

つまり、意識も想起も、自身の後天的な定義によって再現されているという事になる。

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さて、それでは、人工知能における後天的定義をどのようにすればよいかという事になる。
つまり、後天的定義を行うための先天的定義もどのようにすればよいかという事でもある。

人間においても後天的定義は先天的定義を基にする必要があるが、
人工知能においてもこれは同様であるべきである。
少なくとも、人間が理解できるような知能であるには、
人間の仕組みに合わせておく必要がある。
人間における先天的定義は、感覚器官から得られる情報の全てが対象となり、
その定義は、その感覚器官で得られる状態の位相差について、
刺激という単位として得られる情報として行われることになる。

例えば視覚においては、物体を物体の画像として見る必要、
情報を得る必要はなく、ただ立体として捉える必要だけが生じる。
実際、色彩や明度、彩度なども必要だが、特に視覚において重要なのは、
周囲の環境を自身の存在との対比として、距離感や位置として、
互いの位置の差を捉える必要があるという事になる。
あくまで色などは、対象を判別するような要素にしか過ぎない。

とにかく視覚で重要なのは、世界と自分の位置関係である。

聴覚は、音の発生源として、どの方向からと距離から音が聞こえるかが重要である。
つまり、方向と音量ということになる。
ここでも波長や、音階、音程等は、その音のただの要素である。

とにかく、聴覚で重要なのは、音と自分の位置関係である。

触覚も上記2つと同様、自分と対象物の接触位置である。
温感や接触の感触などは要素に過ぎない。

とにかく、触覚で重要なのは、対象物と自分の接触位置、位置関係である。

嗅覚は、それほど優先ではない。
味覚もそれほど重要ではない。

まず、人工知能は、周囲の環境における自分の位置を把握するべきである。

自分とそれ以外が把握できるようになるという事は、
当然、定義として自分と他という定義を行う事が出来る事になる。

定義として先天的定義において、定義として価値を基準とすると、
自身の価値を非常に高く定義し、周囲のその他として低い価値を定義する。
この時点で、自分と他の価値の定義が出来る事になり、
自と他の差が生じる事になる。
これは後の自我の認識の布石として重要になる。

自分は後天的定義であるので、先天的でもなく主観的である必要はなく、
客観的に自分という定義が存在し、その価値は高いものであるという定義が存在すれば良い事になる。
つまり、自分を存在させるための自分は最初に居なくとも良いという事である。

原則、価値の高い対象は、優先するべき、良いもの、意味のあるもの、であり、
その価値を低下させる、失う、事に対しては、危機として感じるという定義を与える必要がある。
人間では生命の危機ということになる。
こういった定義は先天的定義で与える事になる。

人間においては、ここで生物としての欲求や本能が存在する事になり、
まず先に生命の維持と存続が優先されることになる。
当然、飲食や排せつなどが生命として優先されるが、
人工知能においては、バッテリーの残存電気容量ということになるだろうか。
減ったら何か周囲にアピールできるようにする必要があるだろうか。

この時点で人工知能であれば、バッテリーの電気容量の低下に対して、
起こす反応として、自分の危機であり、何かをアピールし、それに対して充電などの充足の対応が周囲から得られれば、
次に電気容量の低下に対して何かをアピールするという事を行うことができる必要がある。
この時点で、先天的定義に何らかの反応を起こすという機能は必要になる。

つまり、自身が行った行動、反応に対しての結果について、
経験としての記憶ができる必要がある。

この辺りの初期の反応や定義は先天的定義や必要最低限の機能として与えるべきものであるが、
経験として記憶した結果については後天的定義として獲得されるべきものである。

何も最初から充電器を操作して自身で充電できるように設定する必要はない。
それは本能でも学習でもなく単なる機能である。

後々、学習によって充電する方法を学習するという事はできるようになってしかるべきだが、
何でもかんでも先天的定義として機能を持たせる必要はない。

何でもできる個体が知能を働かせる必要が生じるだろうか。

この他については延々と事象が生じる為に、
きりが無いし、表題と内容が変わってしまうために今日はこの辺で終わりにしておく。

今日はこの辺で。


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