2023/11/16

意識や自分について

脳内で意識のある状態で、
自分を感じるというのは、
連続する刺激の認識の中で、
その刺激を感じている存在として
自分が存在するように感じているからである。

つまり、
確定的な自分が存在するというわけではなく、
意識として連続する刺激の再構成が行われている際に、
それを見ていると感じている、
つまり、
それらの刺激を再構成している存在として、
自分が存在するように感じているだけという事になる。

つまり、
どこからか生じた自分が存在しているのではなく、
その刺激を刺激として認識している存在が、
そのまま自分として感じられるということになる。

その存在は、自分としての「個体」そのものであるが、
その個体が刺激を受容し、認識する事自体が、
自分の存在そのものになるという事になる。

だから、
人間だけが特別に自分を持ち、
その自分が存在するために、自ら何かを決めているわけではなく、
人間が、自分となる個体を持ち、
知能を持ち、刺激を認識しているから、
その個体は、その知能にとっての自分になるというわけである。

つまり、知能があらゆる事象に対して定義するという観点からすると、
人間の個体が知能を持つという事に対して、
知能は、その能力の程度によって、
どこかの時点で自分を定義するようになることは、
予想できる事だという事になる。

つまり、自身の個体が受容する刺激を認識するような知能は、
いづれ、自分という個体を定義するようになると考えられるという事である。

ただし、条件として319で考えたような環境や能力は必要になるが、
それさえ整えた知能であれば、逆に自分を認識しないという事も考えられないという事になる。

つまり、
自分を認識しなくても良い知能であったとすると、
その知能にとって、個体は存在してはならないことになる。

数学ではないが「背理法」の考え方を応用して使うと、
知能が事象を情報として変化を受容する存在であり、
ある情報の対象となりうる事象が、実際に存在し、
知能が有する感覚で情報として受容する能力を有するのであれば、
その知能にとって、その対象は実際に存在し、知る、認識できることになる。
もし、知能が自分を認識できるのであれば、その対象となる自分は感覚で捉えられる存在でなくてはならないことになる。
もし、個体が存在しなくても自分の存在を認識できるのであれば、
知能は個体でない自分の存在を何らかの事象として捉える能力を持っていなければならないことになる。
知能が対象を認識できるのであれば、対象の情報を受容する能力を持っているはずであるし、
知能が対象を認識できないのであれば、対象の情報が存在しないか、
知能が対象の情報を受容する能力を持たないことになる。

となると、
個体が存在しなくても自分が存在すると知能が情報として知る、認識するためには、
知能は、自身の能力で存在しない自分を自ら作り出して定義するか、
どこか別に存在する自分を情報として受容可能な対象として知る、認識する必要がある。

となると、その知能にとっての自分は、知能自身は自分の対象ではないということになる。
自分を認識しようとしている知能自身が自分ではないということはあり得ない。
という事になる。

簡単に言えば、
知能を有する個体=自分
でないとおかしなことになるいう事である。

実際、自分を持たない知能を知能として成り立つものとして扱っていいものか、
という問題も生じるが、現在の人間が定義する知能においては、
知能には程度の差こそあれ、知的と感じられる存在であれば知能としてひとまとめにしているので、
本来は知能をもう少し詳しく分類する必要はあるはずである。

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少し話が脱線したが、
要するに、「自分」として感じている存在は、
自分という個体そのものであり、
その個体が知能によって感じている刺激に含まれる、
個体に対する情報でもあるという事である。

その個体に対する情報を、知能が、「これが自分である。」
と定義して感じている、認識しているという事になる。

だから、人間の知能が演じることができるというのは、
自分を情報として定義する能力をもっているからと言える。
正確には、実際の自分ではないが、定義した自分を自分らしく振舞う事が出来るという事になる。
これも、逆に考えると、
実際の自分も、自分として振舞っていると言えることにもなる。

つまり、
個体や知能において、
「自分」という存在は唯一の絶対に存在するものではなく、
個体や知能においての、各個においての固有の存在という事になる。

つまり、
生命にとっての命のように唯一で持っているものではなく、
その形状や状態はさまざまであるが、
その個体ごと、知能ごとに、必要な形をして成しているモノという事になる。

逆に抽象的すぎて少々分かりづらいかな。
最初に考え始めた時に感じた感覚としては、
「自分」というモノは「その個体を参考にして、知能が作り上げた自分」というイメージだった。

つまり、
別に確固たる自分が最初から存在していて、
それを知能が自分として見ているのではなく、
知能は、その個体で、その個体の能力で、
もちろん、その個体に収められた知能の能力で、
個体を取り巻く環境や、その個体自身から生じる感覚を元に、
知能が自分を自ら作り出して、「自分」として感じているのだという事。

たまたま私はこういう環境で、こういう能力で、こういう自分を作り上げ、
自分らしく振舞っているが、異なる形の自分にも変化する可能性は持っている。
それらが全て納められているのが、この体、個体なのだなという事である。

個体にしても能力にしても、環境にしても、
与えられた条件というモノが決まっている以上、
そこから生じる結果については、有限で予測は出来るという事になる。
つまり、自分の姿の予想はできる事になる。
ただし、自分は単独で存在していないという点から、
つまり、特に人間においては社会的な生物であるという点から、
各個の自分同士の関係、関連いおいて、その互いの情報の認識などに差が生じるため、
それらの認識において、自身で認識できない、つまり、自身で把握できない、
知能の能力を超えた予想の候補が存在するために、
無限に選択が存在するように感じられている事になる。

逆に社会性の低い生命の種において、
本能に近い定義だけで活動しているような種は、
その活動における自分の存在というモノは、
自身で自分の認識ができる、できないに関わらす互いに似通った形になるとも考えられる。

それを考えると、人工知能にとっての個性は、
社会における個の存在を自ら知るようになれば、
その能力が画一的であったとしても、
個性を有することになるということになる。

お腹が空いて来て、そろそろ昼食にするので
今日はこの辺で。


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