2023/11/14

想起のきっかけ

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前回の319の補足として、
自分に関する要素を含む刺激の発生において、
触覚や痛覚、快楽や欲求などの要素において、
単にその刺激によって自分が生じるものではないという事。

触っている、触れているから自分を感じるという事ではなく、
その刺激の要素として自分の存在の定義が含まれているという事である。

それらの刺激を認識し、記憶する事で、
自分についての情報の要素が増えていき、
それらの関連において、単独の「自己の定義」が行えるようになるという事である。
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自己の定義が後天的な定義であり、
想起によって自己の存在が発現するのであれば、
刺激として受容し、記憶した情報や定義が想起される際、
そのきっかけが分かれば、知能が自己を認識する仕組みが理解できる事になる。

であれば、
「想起のきっかけ」が分かれば、
知能の全てが解明できる事になる。

想起によって自発的な欲求が生じているのではないか?

想起=欲求の保留の再現なのではないか?

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保留した欲求の再現について考えた時に思い至ったのは睡眠時の夢である。

よく夢には自分の欲求が現れるとか言われるが、
夢で想起されるのは欲求だけではない。
夢に見る対象となる可能性は自分の記憶された情報全てが持っている。
そして、
夢を見ている際は、自我の意識が働いていない為、
理解しやすい事になる。

私が季節によって良く見る悪夢の中で、
春先に冬の布団が暑くて、夢の中で自分が何か苦しい状態になっているという夢を見るというものがある。
これまで同じような事を何度も繰り返しているし、
再現したくはないが恐らくこの悪夢については再現がしやすいし、
悪夢を見るのが分かっていながら、また来年の春先に何度か経験することになると思われる。

悪夢自体は私が欲した欲求の再現ということではないが、
夢の中で想起される内容が、
他の刺激をきっかけとして想起されるものであり、
それは、そのまま、
夢の中の想起のきっかけが、実際の刺激をきっかけとして再現されている事になる。

夢において、
寝ている環境の悪化で悪夢を見るのは、
その環境から受ける刺激に対して、
関連した刺激の認識が起こるからということになる。

つまり、
夢に見るための記憶を励起しているその始まりの刺激は、
感覚器官による刺激の受容であり、
環境から受けた刺激に対して、想起が起こっている事になる。

夢の中の想起であり、意識的な選択で想起が行われていないので、
その関連として他の要素は考えにくい。

想起が保留した欲求の再現であるなら、
夢で行われる想起は、
保留した欲求の再現=関連した刺激の認識

つまり、
想起は、関連した刺激の認識をきっかけとしている。
という事になる。

そのきっかけは、外部から得た脳の(環境又は体内からの)刺激という事になる。
つまり、想起は刺激を元にして発現している。
つまり、自発的に想起をしているわけではない。
つまり、意識的に想起をしているわけではない。
という事になる。

ということは、想起のきっかけが、その想起の対象となる刺激に対して、
何らかの関連を持つ刺激を認識する事という事になるが、
であれば、その想起の前の刺激の認識のきっかけは何になるかという事になる。

これは、今回の内容と、これまでの考え通りであれば、
想起の前の刺激の発現のきっかけは、
その刺激に関連する別の刺激の認識、
または、
外部から、つまり、周囲の環境か、体内から生じた刺激の認識を元にしている事になる。

関連する刺激の認識

関連する刺激の認識

想起

または、

外部から生じた刺激の認識

関連する刺激の認識

想起

この2つが考えられる事になる。

であれば、全ての発端となるのは、
「外部から生じた刺激の認識」となる。

これによって関連する刺激としての想起が行われ、
以降の想起も関連して行われることになる。

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あれをしよう、これをしようという記憶。
それを実行したいと思う欲求は、
もちろん記憶の中に存在していて、
記憶の中に欲求として保持・保留されている事になる。
それを想起によって認識・意識するきっかけとなるのは、
その欲求に関連する何らかの刺激の認識という事になる。

つまり、
自分が意識的に欲求を想起して認識・意識しているのではなく、
その欲求に関連した何らかの刺激を認識した後に、
その刺激に欲求が関連していたために、その欲求を想起、認識、意識したという事になる。

もちろん、その欲求に対して刺激を関連させている定義、
その定義自体は後天的であれば、自身の知能が行っている定義という事になる。

ただし、その欲求を欲求として定義する事、きっかけとなる刺激を、
欲求に関連しているものとして定義する事、
それらの定義は全て、外部から生じた刺激の認識を元にしているという事になる。

つまり、先天的に持っている定義としての欲求や、
後天的に得る事になる定義を含め、それを想起対象とするきっかけとなる刺激を、
関連付けて定義されるのは、また別の刺激という事になる。

少々複雑だが、
つまり、先天的であれ、後天的であれ、
ある刺激を想起するためのきっかけは、また別の刺激の認識によるという事である。

2023/11/18

そして、
最初の想起のきっかけとなるのは、
外部から生じた刺激の認識によるものという事になる。

後天的定義は、先天的定義を利用して定義していると考えているが、
であれば、本来先天的定義として保有している定義、
つまり、基本的な刺激に対しての定義、
つまり、想起のきっかけとなる外部から生じた刺激の認識というのは、
先天的定義をその大本として構成されている定義の全ての想起のきっかけになっている、
という事になるのではないか。

つまり、
感覚器官による刺激の受容から始まる認識や意識の構成において、
想起はその終端で行われる記憶においての横のつながりの活動になるという事なのではないか。

環境

情報

位相差

感覚器官

刺激

認識(→意識)

先天的定義

後天的定義
↓ ↑
想起←→想起

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つまり、
想起としてのきっかけとして刺激を受容し、
その刺激は定義の大本である先天的定義によって意味付けされる。

脳においては、この状態の後、認識できるようになるが、
この状態において励起されている神経細胞は、
その時点で別の神経細胞と軸索で関連を持っているはずである。
その後は、後天的定義として記憶された事象として認識に至るが、
この間の働きの中で、想起のきっかけとなりうるのは、
先天的定義として定義された刺激をきっかけとするか、
後天的定義の認識に至る神経細胞の励起による刺激をきっかけとするしか、
現時点では考えられないという事になる。

そして、それは、意識的に何かを想起することが出来ていると自分でも感じているのだが、
それを想起するに至る過程、つまり、これまでの経験として、
その道筋が既にできているのではないかという事を今回の考えで見つけた事になる。
実際、自分でも変な感じはするのだが、
自然界に存在するあらゆる定義は、自然法則として存在していて、
人間が定義していると考えている定義は、自然法則を人間の知能なりに定義しなおした内容でしかない。
そして、人間が新たに発見したと感じている事象についても、
それは自然界に突然現れた新しい定義ではありえない。
存在していないものを人間は認識できないはずである。
つまり、自然法則に存在していた情報を生命が刺激として認識できるようになっているのに、
人間だけが、自然界に存在しない何かを発見する事はできるのか?
という事になる。もし、これができるとすると、
人間は自然法則の定義に新たな定義を加える事が出来るという事になる。

そして、それは、
人間の刺激の認識や意識においても、同じ事が言えるはずであり、
意識が刺激の認識の上で成り立っているはずであるのに、
意識だけの働きで、自発的な選択による想起は出来るのか?
という事になる。
もちろん、意識であっても、自己の脳が保有する記憶の刺激の範囲でしか選択肢はないし、
保留している欲求などを対象として選択できるようにも自分でも感じているが、
それらは、意識として選択することになるのだろうかという疑問となる。
人間が、もちろん私自身も、この日には、この時間には、
あれをしなくては、これをしなくてはならないという事がたくさんある。
年齢や日にち、時間、時期、
様々な定義の上にスケジュールされている行わなくてはならない事、
そして、自ら定義したやりたい事、やらなくてはならない事、
そういった実行を保留している活動に対して、
意識は果たして選択によって、その対象を選んでいると言えるのか。
そして、それは、思考においても同じであり、
思考の材料、文献、資料、実験結果、学習や、思考自体も、
記憶として保留された刺激であると考える事もできる。
であれば、意識的に思考していると感じている自分自身においても、
それは、意識的に選択して思考していると言えるのだろうか?

刺激の、記憶の、関連として、自分が意識的に何かを行っていると、
感じているのは、脳が持っている関連を辿って認識しているだけなのではないか?

そして、想起も知能も、
結果的に刺激を増やすきっかけとなる刺激の受容に行き着くのではないかという事になる。

ただ、もし、そうだとしても、
別に全てが決められていると悲観する必要はなく、
既に環境が整っており、自分という個体の機能や能力、先天的定義が決まっていたとしても、
自分の感じ方、考え方は、その環境から得られる刺激を通して、
その刺激に対する定義を行う事には可塑分が残されている。
つまり、それを分かった上で、何を選び、何を良い物と考え、選択する事は、
完全に自由ではないが、まだ自由が残されているということになる。

今回はこの辺で。


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