2023/11/10
「知能の定義」の定義
「知能」が、ある情報について定義を行う働きを持つ機能であると考えると、
その機能の定義自体もどこかの時点で獲得する必要がある。
基本的に情報を得る事は受動的な機能であるはずなのだが、
定義を行う事自体は知能の働きとしては能動的である。
そして、
刺激を受容するという情報を得る機能以外に、
得た情報から新たな定義を作り出す事ができるという機能について考えて、
知能において、定義を行う事は、情報を得る事であるとともに、
知能としての思考という機能を持つに至ったと考えると、
能動的に情報を作り出すという機能としても扱うことが出来る事になる。
つまり、
知能の元となる器官は、
元々の機能として受動的な情報の定義を行う機能の器官として存在し、
その情報を利用していたはずなのだが、
どこかの時点で、独自に能動的な定義を行う事ができるような機能を持ったという事になる。
実際、遺伝情報としては個体のどの細胞も同じ遺伝子を持っているが、
その細胞分裂の分化の際に、役割毎の機能を発現する事になる。
これは、これまでの考えの中でも度々登場したエピジェネティクスの考え方で、
遺伝子やその周囲のヒストンタンパク質のメチル化やアセチル化によって遺伝子の発現する機能が選択される
という事なのだが、この定義は、もしかしたらそれ以外にも複数あるかもしれないが、
その知能が能動的に定義を行うという機能を持たせた定義の1つとして考えられるのではないか。
つまり、
現在、神経細胞ネットワークの神経細胞として働いている細胞のそれぞれが、
刺激に対して励起しながら関連していくという働きで、先天的定義を読み出し、
刺激に情報としての意味付けを行っているが、その機能そのものは、
遺伝情報に含まれた、その遺伝子の機能的な定義として、
その遺伝子に関連して定義されているのではないかという事になる。
そして、エピジェネティクス的に、
情報を受容して反応するだけであった機能に、
意識的な働きが備わったのではないかという事である。
実際は、遺伝子内に含まれる情報の再現による機能であるのか、
遺伝子という機能の性質として元々持っている機能であるのかは分からないが、
同じ遺伝子で異なる性質を持つ細胞として、
機能を変化させるには、それ相応の定義が存在する事になる。
上記の遺伝子の発現機能の選択のようにである。
人間の脳に限らず、器官としての脳を持つ生命においては、
その知能の機能として高低の機能の差はあるが、
遺伝的な情報として遺伝子が持ちうる情報と、
その発現する機能を選択するという機能・定義においては、
どの生命においても同じ様に、それぞれの定義が存在している事になる。
例えば、
ミラーテストを経て自己を認識していると考えられる魚が存在したり、
より人間に近い動物や、もちろん人間においての自己認識力にとって、
実際に自己を定義しているのかどうかは分からないが、
ある対象について後天的定義ができるというという機能は、
脳において単に刺激を認識するだけという機能だけではない、
能動的な機能が脳に備わっている事になる。
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2023/11/13
つまり、
単に刺激としての情報に対して、特定の決まった反応を示すような
反射や本能といった機能をエピジェネティクに獲得する事ではなく、
生命としての誕生後に、その個体が経験した変化としての情報に対して、
後天的に獲得可能な機能として、「知能」を得た種が存在する事になる。
少し分かりづらいが、
つまり、
古く、生命においては、
環境や自己の変化において、その適応、対応として、
遺伝のみを通して、その適応の情報を継承していた。
これはエピジェネティクスとしての範疇に留まる。
ただ、
ある時点で、つまり、今でいう神経細胞を獲得した個体が、
適応や対応を必要とする環境や個体の変化に対して、
その情報を生存中に後天的に留める能力を持ったという事になる。
つまり、
今日新たに考えていた事なのだが、
知能の定義において、
「記憶としての定義」も知能の構築には必要な事であると考えた。
つまり、生命の機能として、本能やエピジェネティクに継承されるような半自動的に
変化に対する適応や反応を起こす事ではなく、
自らが後天的に獲得した情報・変化を用いて、
今、これから起こるかもしれない変化に対して適応・対応しようとする機能という事である。
その働きの元になるのは、意識の存在という事になる。
これまで意識は、連続する刺激の認識の維持によって生じると考えてきた。
つまり、刺激を認識し続ける存在を、自己と定義する事という事になる。
意識的な存在が生じれば、その自己は、
自ら持つ記憶としての情報に対して、
想起という手段を用いて情報を引き出すことが出来る。
これまで考えてきた、思考や創造も想起がもとになっているという考えから、
意識としての自己が自身の記憶にアクセスできれば、
そこに知能としての機能が発現するという事になる。
つまり、
本能や反射のような自動的な機能ではなく、
機能自体に対する確認する存在の誕生に、その秘密があるという事になる。
となれば、上記の様に、
「連続する刺激の認識の維持」によって、その存在が誕生する事になるが、
そこにもう1つ足りない存在があることが想像できる。
つまり、自己を自己として認識する、
その正体である。
連続して刺激を受容するだけでは、
その存在にはならない。
それは、今、自分が感じている連続する刺激においても分かる。
そこから、ふと自分の存在について考えた時、
そこに自己の認識と、自分自身の存在を感じる、認識する事になる。
となると、「自己の定義」が存在すれば、
それが再現できるという事になる。
おそらく、「自己の定義」は、
外部から定義されたものではないということが考えられる。
与えられた定義は刺激や情報として得る事は出来るが、
それ自身を自ら認識する存在にはなれない。
であれば、「自己の定義」は、
自らの内から定義されたものという事になる。
そして、それが先天的であるとすれば、
突然沸いた様に、「自己の定義」ができる存在が誕生した事になり、
それが後天的であるとすれば、
保有する刺激の記憶から誕生した事になる。
そして、
自己の定義を行う存在について考えた時に、
ミラーテストをクリアする生物の存在について考えて、
それほど知性として優れていない生命においても、
自己の存在についての認識が行えることを考えると、
知能にとっての自己の定義というものは、
その程度こそあれ、それほど高い知能、高い能力は必要ないのではないかと考えた。
そして、
自己を認識する際に、これまで、自己は他己との違い、
つまり刺激として扱うなら、自分と他人の差をもって情報とするということになる。
つまり、自分を知るには他人を知らないとならないということであり、
その差を持って刺激として認識しているという事になる。
そして、
であれば、ミラーテストをクリアするような生命は、
その生活する環境において、他との共存をする存在、
または、社会性を有するのではないかと考えられる。
自己について遺伝的な先天的な定義を有する可能性が低い事、
形状や能力については先天的に与えられるものであるが、
その後に構成される要素としての定義を考えると、
自己の定義は、後天的であると考えられる。
そして、
自己の定義をする存在について考えていた時に、
自己を定義する存在が、自己、自分自身であると考えた時に、
外部から与えられない定義であるとすると、
その定義は自己から生じる事になるが、
認識における自分の存在と、自分自身で行う自分の定義の間を取り持つ存在について考えた時に、
自発的に自分を認識せざるを得ない刺激が思いついた。
最初に思いついたのは「欲求」である。
つまり、欲求による刺激である。
生体が欲求によって何かを欲した時に、
何を欲したかという事と同時に、誰がそれを欲しているかという情報が存在する事になる。
つまり、欲求においては、その欲求を感じた存在を自ずと知ることになるという事である。
それを刺激として、情報として受容すれば、
その生命においては、「自分」が、不足に対して充足するための欲求を感じたという事になる。
そして、それ以外にも同じような刺激は存在しないか考えると、
自分の生体に関する刺激において、
自己の体について得られた刺激については、
欲求と同様に、自分の存在の情報も必要ということを思いついた。
つまり、五感や感覚であれば、触覚、痛覚、快感、などは該当する。
体の表面または内部にあって、自己の体に関する情報を刺激として受け取る感覚である。
その刺激、情報の発生源は自己の身体表面または内部である。
そのため、
視覚、嗅覚、聴覚、味覚については基本的に、その情報の対象は外部、環境から得るものであるので、
自己が受容するという刺激であり、自己の存在を関連させる事はあるが、
その情報自体に自己の情報は含まれず、よって、この刺激の情報から「自己」を構成する事にはならないことになる。
そして、
この自己の情報を含む刺激から、自己の存在の定義を行うには?
という事を考える必要が出てくる。
自己が外部に存在せず、自己内から生じるものであるという事。
自己内から生じる事の出来る存在は、想起によるという事。
想起は記憶された刺激が対象であるという事。
想起によって何らかの新しい定義を行う場合には、刺激の新たな関連が必要になるという事。
自己の情報は、自分の体が持つ感覚による、特に触覚、痛覚、欲求、などの、
自分の体に関する刺激に含まれている情報を元にしているという事。
つまり、
自分に関する刺激について受容し、たとえ生命誕生の初期状態で認識を行わなかったとしても、
その刺激を記憶し、想起ができるなら、そこに自分という存在の情報が誕生していることになる。
そして、その想起は、「他」という情報を刺激として受容する事で、
つまり、「他」を生じるには、情報の位相差を必要とするため、
比較するための対象である「自」の存在が生じるという事になる。
ここで上記の、
自己の存在には、生命における社会性や共存の必要性があるのではという考えにつながることになる。
そして、自己の発生においては、
環境や体内ではない、記憶に存在する情報より、
自分という個体に対して関連付けられた刺激の想起により、
自己が発生する事になる。
つまり、想起する能力を持つ知能である事と、
自己に関する刺激を受容できる能力を有する事、
これがあれば最低限、自己の認識が出来る知能であるという事になる。
もう少し上位の内容を付け足すと、
自己に関する刺激に対して、記憶する能力と、
その記憶する際の刺激の情報に対して、要素毎の定義が後天的にできる必要はある。
つまり、素養として、
自分に関する情報を含む刺激を受容てきて、さらにそれを記憶出来て、
その記憶を元にして、想起した対象を再構成(=定義)できる能力を持つ事。
つまり、刺激の作成・認識系統を2つ持つ事のできる知能ということになる。
感覚器官
↓
認識
または、
想起
↓
認識
そして、特に想起において、
他人を感覚器官で認識する際に、その位相差として、
自分を関連・定義できる知能の能力を持つ事。
これだけの知能であれば、自己の認識ができると考えられる。
人工知能においてでもである。
意識における刺激の認識系統の切り替えは、
基本的に自己の関連を含む感覚器官からの刺激の認識が優先され、
それが継続される。
そして、特に認識される刺激が存在しない場合、その次に想起が優位になる。
想起される内容は後天的定義により、行うべき想起の優先度により対象が想起される。
つまり、自己に関する刺激を優先的に連続して認識するということになる。
だから痛み、快楽、欲求などの自身の個体に対する刺激が優先されるという事になる。
それ以外の、感覚器官からの刺激の割り込みに対しては都度、
優先度の比較をもって認識系統を決める事になる。
認識が維持される時間は、脳内において、対象の刺激を再構築する間の時間であり、
再構築直後に認識したと感じた際には、
実際の認識しているという感覚が後付けで今認識しいると感じている時間として認識される。
つまり、意識があるという状態において、
ある刺激を認識したと感じた際には、その刺激の励起によって、
次の瞬間の認識用に関連する刺激が準備されているという状態が継続しているという事になる。
つまり、連続して意識を持っている状態を維持するには、
連続して認識している状態を維持する必要があるという事になる。
一瞬でも認識していない時間を生じてはならないという事になる。
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少々気になる点としては「想起のきっかけ」がある。
それについてはまた今度という事で。
今回はこの辺で。
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