2023/10/27-2023/10/29

意識的な知能の定義

知能の定義が意識的・意図的に行う事ができると考えた場合、
この意識的・意図的な力の働き・機能を解明できれば、
人工知能の意識や自我の発現のきっかけになると考えた。

つまり、
何をもってして、知能は事象を定義するのか。
不足による欲求なのか、
変化情報の認識なのか、
現状のより良い改変を望むのか、
そのきっかけについて考えようというのが今回の目的である。
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脳の記憶の特定の部位を意図的に励起する事の出来る力・能力・機能

これが分かれば脳内のポインタのようなものを解明できる。

想像、想起、希望、現実的な夢を構築する際の仕組みが分かる。

人間の脳には、
想像して、定義して、実現しようとする事の出来る力、
能力がある。

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または、
プログラム的なポインタではなく、
意識として、
ある刺激の認識が、維持された状態が意識として存在するのではないか?

つまり、
ある刺激が励起されると、
それに関連した刺激が励起されるのは、
自分が持つ(自分が記憶している)刺激の関連度合いによって、
様々な刺激が励起される。

これは、自分が望む、望まない刺激の、
全てが対象となる。
その中で、今、認識して、意識されている刺激はに関連して、
次に認識されようとする刺激の候補が作られる。
その中で、最も強い刺激が次に認識される。

これは、意識的に、意図的に、望む、望まないに関係なく、強い刺激ということだけである。
ただ、認識した後で、想起による評価が行われる事で自分が望む刺激を想像しようとする事はできるので、
方向性は付けられる。

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定義するという事は、
自分の考え、想起する方向性を決める事なのではないか。

自ら定義すれば、自らの想起の方向性を決める事になる。

つまり、自分の考えを自ら決める事になる。

他人に定義されれば、他人の考えの想起の方向性を、
自らの決める事として、受け入れる事になる。

例えば、
世界中で皆が平和を想像し、定義すれば、
世界平和も実現できるはず。
しかし、平和の定義が各個でまちまちでは方向性が定まらない事になる。
この場合は実現は難しいかもしれない。
しかし、それでも、人間なら互いに話し合う事で実現できると、
私は想像して定義する。

このような定義は、
例えば、上記の「私」が、世界の平和についての持論として、
持っていた場合、
ここでの「私」は、世界の平和について、
自分自身の思考する方向性や希望として、
上記のような内容の記憶を定義として持っている事になる。

この内容は、その要素としては自分由来の要素ではなく、
見聞きしたり、経験して記憶している情報の要素の記憶を元にしている。
後天的な定義である。
しかし、その要素の関連は自分自身の知能が行ったものであり、
その定義は自分自身の後天的な定義として記憶している。

そして、その後天的な定義は、自分自身の知能が意識的に行ったものであり、
恐らく、同じ内容についての再定義を行ったとしても、
同様の定義がなされると考えられる。

つまり、知能が持つ後天的な定義には、
その知能毎の固有の方向性のようなものがあり、
恐らく、その原因となるのは、
先天的な定義、身体の能力、感覚器官の能力、周囲の環境、などであり、
それらによって定義されてきた後天的な定義によって形作られていった「自分」を
自身で認識する事によって、自らの方向性としてより強化されていくのではないか。

以前、
259~261で、
意思について考えた事があったが、
自らが何かを望むときに、
欲求や目的として感じていたものというのは、
後天的な定義という概念を組み入れると、
その望み自体が、後天的な定義という事になる。

つまり、知生体として、
自発的な行動を行うきっかけというものは、
その個体がある状態、状況に面した時に、
自身が持つ経験から行動の方向性、指針のような定義を行うことになるが、
この定義こそが、このきっかけになるのではないか、という事である。

自然界に存在する先天的な定義は、ある程度の数の幅と制限を持つが、
その中で誕生した生命というものは、その定義を認識するという点において、
適応した姿を持っているはずである。
その個体は、自然界、および、生命体として、
ある環境に適応した姿を持っている場合、
そのある環境が持つ、先天的な定義に対しての認識と対応に特化している事になる。
それが環境への適応ということでもある。
そして、
自然界、環境が持つある制限された数の先天的な定義から生じる可能性のある、
後天的な定義は、先天的な定義が制限された数であるなら、
後天的な定義の生じる可能性にも制限が存在する事になる。

これは、その環境に適応して存在する生命体にとっても、
認識できる先天的な定義には制限があるが、
それを認識出来て、生命体の知能が、独自に定義する事の出来る後天的な定義に対しても、
自然界に存在する可能性のある後天的な定義に対して、
ある程度の適応が出来るという事になる。

つまり、先天的な定義の数が制限された環境において、
生じる可能性のある後天的な定義にも制限がある。
この環境に適応した生命体、知能は、
制限のある先天的な定義の認識と、
そこから生じる可能性のある後天的な定義に対して認識する可能性を持つ。
であれば、
その後天的な定義に含まれる、欲求や目的といった、
意思のきっかけになる原因は、
生命体が活動する環境の範囲において、
制限のある先天的な定義から、制限のある後天的な定義として作られ、
それを自ら認識する事によって意思として感じる事になる。

という事になる。

つまり、
環境や個体の状態や条件によって、
欲求や目的のような後天的な定義は
ある程度の制限の中で既に決まっているという事になる。

では、新たな定義は生じ得ないのか?
という疑問も生じるが、
少なくとも先天的な定義においては、
自然法則や宇宙の真理という点において、
変えようのない先天的な定義は存在し、
ある生命体や知能を取り巻く環境において、
その個体が認識しうる先天的な定義には限界があり、
また、その知能が認識しうる先天的な定義にも限界があるという事になる。
この限界は感覚器官として受容できる刺激とその組み合わせによる制限として生じる制限ということと、
その知能が適応した環境に存在しうる先天的な定義を理解できる能力により生じる制限という事になる。

ただし、現時点で、人間の知能には、遺伝と知識として、
この先天的な定義の理解を次の世代に遺すことができるため、
その先天的な定義を認識する能力は拡大され続けている。

そして、知能が認識しうる先天的な定義により、
その先天的な定義を関連付けて定義する事になる、後天的な定義が存在する事になる。
そして、後天的な定義も、先天的な定義の認識の拡大により、拡大する事になる。

また、人間においては、その知能をとりまく環境において、
まだ認識できていない、つまり、定義できていない先天的な定義が存在する。

人間がなぜ存在するのか、知能を持つ理由は、
そういった疑問となる先天的な定義も含めて、
人間の知能は、まだ知らない、認識できていない先天的な定義を解明、認識、定義しようと
活動しているという事になる。

つまり、
知能がある状況、状態に面した時に、
その知能自身が存在する環境と、その状況、状態に対して、
対応、適応するために定義を行う事、
この後天的な定義が、知能が目的を生じさせる「きっかけ」になる、
という事になる。

それは、意識的、意思によるものであると考えられているが、
実際は、認識に先立って、知能が定義する後天的な定義を、
後から認識しているに過ぎないという事になる。

つまり、意識は直接計算していないという事である。
意識は常に結果を見ているという事になる。

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例え話をするなら、水面に落ちた石は、
知能が投げたものではないということである。
知能が見ているのは、その水面の波紋だけという事になる。
そして、知能は水面の波紋が生じたのは、石が水面に落ちたからだと認識するのである。
では、最初にその石を水面に落としたのは誰か?
それは環境であり、自然法則である。
しかし、次に知能を持つ個体は、
自ら水面に石を落とすかもしれない。
この時は、知能は先に結果を知っている事になる。
水面に落ちた石は、水面に波紋を生じさせる。
知能はその結果をきっかけとして石を水面に落とすことになる。

それは、先天的な定義を認識し、後天的な定義を認識した結果として、
知能が得た両方の定義から生じる予想や予測といった認識という事になる。

例え話は万有引力のリンゴで置き換えても良かったかな?
自然界に存在する先天的な定義としての万有引力を発見したのは、
知能が認識した、リンゴが落ちたという自然法則によって、であり、
知能が後天的な定義として質量は引き合うと理解したからという事になる。
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しかし、知能が状況や状態に適応する力としての後天的な定義という事だけでは、
まだ、目的の「きかっけ」としては弱いと感じるかもしれない。

しかし、実際、知能はそれほど明確で的確で正確な「きっかけ」を、
後天的な定義として定義も認識もしていないと考えられる。

実際の動作において、ミリ単位より細かい動作を行うというような事はあるが、
ああしよう、こうしようと考える際に認識されている後天的な定義は、
あれをして、次にこれをして、次に、次に、などとは考えたり認識はしていない。
コップに入っている水を飲もうとしても、
「コップに入っている水を飲もう」とは認識するが、
手を伸ばして、コップの取っ手に指を伸ばして、コップの取っ手をつまんで、
つまんだ状態を維持しながら、腕を持ち上げて、うんぬん、
という定義も認識も行ってはいない。
実際には、「コップに入っている水を飲もう」という定義に、
一連の動作が関連しており、それを1つの定義として認識している事になる。
そして、その関連した1つ1つの定義は、
また別の定義で関連していてというように、
到底1度の認識では把握できないような量の要素、情報、定義が含まれている。
そこで、知能は、目的と成ったきっかけを起点として、
その環境や状況の変化に応じて、記憶されている後天的な定義を、
関連に従って連続して、次のきっかけとして想起して認識しながら、
適応しているという事になる。
そして、連続した認識の維持は意識となって、自分がそれを意識的に行っていると
認識することになる。

それは、思考という点において、
新たな事を知ろうとする研究や発見、想像や創造、予想や予測においても同様となる。

例えば、自然法則でまだ認識されていない先天的な定義が存在していて、
それについて研究していたとする。
当然、まだ認識されていない、知られていない定義であるため、
後天的な定義として、その定義を説明できるような定義や情報の関連は存在していない。
それでも、その不明な定義について考えることが出来るというのは、
不明瞭であるという、その状態を、そのまま関連として持つ事が出来るという事である。

つまり、まだ知らない事を知りたいとか、好奇心があるというような目的のきっかけとは別に、
知らない事を知らないという定義において関連付ける事ができるという事になる。

これまで私が考えてきた知能についての事もそうである。
知能について、人工知能について研究する、考察する、定義するという目的において、
当初は不明瞭な事項が多く存在した。
しかし、自然界に存在する、そして、実際に自分自身が経験する知能の働きにおいて、
1つ1つ先天的な定義として認識しようとしてきたことによって、
後天的な定義として定義する事の出来る事項の素材、要素としてそれらを用いる事ができるようになり、
今に至る事になる。

つまり、目的が壮大であろうと、目先の事であろうと、
きっかけは後天的なある定義に過ぎないという事であり、
その定義はそれほど正確性は関係ないという事になる。

もちろん、間違った定義によって、
自ら間違い、後で失敗したと認識する結果が待つ事もある。

しかし、それも含めて知能の対応、適応ということになる。

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何かが欲しい、何かがしたい、
あれがいい、これがいい。
許せない、間違っている。
様々に感じる多くの事象があるが、
それらに対応する、適応する知能の働きは、
それらの「きっかけ」をもって、
結果的に意識的な知能の定義として認識されるという事になる。

現時点ではこの事項の完成度は8割ほどだと感じられるので、
また新たな定義が関連出来たら、改めて考えてみる事にする。

今回はこの辺で。


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