2023/10/24

人間の知能と定義する能力

人工知能との兼ね合いで、
将棋界で藤井竜王名人が8冠になったというニュースに対して少し興味が沸き、
将棋AIの評価がどのような仕組みなのか少し知りたいなと思ったのだが、
それと同時に、藤井竜王名人には何が見えているのかなという興味も沸いた。
将棋AIはあくまでプログラムされたある評価基準に従って、
ある駒の状況に対して評価を行い、次以降の手に対して評価を行う事で、
最善手を探し出すという事を繰り返す、という仕組みであると思うのだが、
将棋AIであっても、人間であっても、この仕組みについては、
大きな違いはないと考えられる。
現状の認識と先の予想という形である。
将棋が強いという事は、その評価や予想において、
将棋で勝つ、相手の王を取れるという状況にいかに盤面の駒を動かすか、
という事に尽きる。

将棋には対戦相手がいるため、
相手がどのように手を進めるかという事についても自分で考える必要がある。
しかし、駒の動かし方などはきちんとしたルールに従っているので、
ある程度の制限は存在する。
明らかに評価対象にならないような駒の動かし方は別として、
何らかの意図ある操作については、その勝負の予想として、
駒を動かした後の評価を予想や思考としてする事になる。

相手より強くあるためには、現状の駒の状態から、
勝負に勝つための状況、盤面の状況を自分が有利になると考えられる操作をしようと、
予想・評価するという思考をする事になる。

人間の知能が、自然界の他の種の動物の知能と異なるのは、
人間以外の種が、その知能を自然界の理に対して、ほとんどが受動的であるのに対し、
人間は人間以外の種に無い能力として、
自分、自らの都合の良いように能動的に状況を作り変えようとすることが出来るという事である。

つまり、これが他の種の知能と違う、
人間の知能であるという事になる。

つまり、理(ことわり)を定義して理解することが出来る能力。
定義=理解・認識
という事になる。

一応、人間以外の動物であっても、
巣を作るために穴を掘ったり、ビーバーが川を堰き止めたりなど、
自然界に対して自発的で意図的な操作を行う、ということはあるが、
別の目的の為に、例えば経済的な仕事として他人の家を建てる、
というような自然に対する操作をするのは、人間だけである。

つまり、人間以外の動物の知能は、
現状に対する評価と、本能として持っている、その自然界に現れる可能性のある状況に対して、
評価ができる事と、その対応ができるという事、
そこまでの知能の働かせる場面への適応の限界があるという事。

それに対して人間の知能は、

ある与えられた状況に対して、評価と理解をする事。
その現状に対して、その先にある自分に対して良い状況を想像、予想し評価する事。
それができるという事、
それが人間の知能の特に優れた能力という事になる。

理解というのは、定義して認識するということになり、
予想においても、定義して認識するという事になるので、
いずれにしても、人間の知能はある状況に対して定義する能力に優れているという事になる。

そして、認識は記憶に直結する為、
その認識毎に、経験としての記憶が増えるという事になる。

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しかし、自然災害などによって、事後対応をするなど、
人間でも先が見通せない場合もある。

先の事まで考えていなくて(考えられなくて)
能力的に先が完全には見えていなくて、
後で困ったことになったりもする。

先の事まで定義できていない
→先が見えていない
という事になる。
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定義する能力:

情報の定義というものは、
これまで考えてきたが、
情報の要素についての意味合いといった内容を、
先天的な定義が持つ刺激という表現によって、
その内容を構築するという事になる。

つまり、ある情報について、
知能が認識可能なモノにするために、
先天的な定義が持つ、
刺激としての表現方法で、その情報を要素に分け、
それを1つのまとまりとして関連させて刺激として、
それを認識するという事である。

定義自体は、先天的で持つ遺伝的な定義を基本的な定義として、
生命としての誕生後に、実際に経験することになる状況を、
後天的な定義として定義し、認識し、記憶し、
また別の定義の元とする事になる。

ある状況が心地よいとか、嫌な感じがするとか、
直接的に暑い寒い、気持ちいい、痛い、苦しい、楽しい、哀しいなど、
状況は様々であるが、それを認識する際には、
それを知能が刺激として認識できるだけの情報の要素の定義が存在する事になる。

逆に、定義の存在しない情報は、その知能にとっては情報として存在しえない。

定義は理解や認識と同義であると上記で書いたが、
認識の際にも、想像や予想に際しても、
知能がある情報の1単位を扱う際のまとまりは、
この定義によって存在する事になる。

つまり、これまでの考え方で言えば、
刺激集合という事になる。

つまり、刺激集合の定義を知能が扱う事が、
認識であり、想像であり、予想であり、思考であるという事になる。

情報を刺激の要素で定義する事というのは、
その情報が持つ意味合いとしての要素を、
自身が持つ刺激の種類に分解し、
その要素毎に、刺激が持つ先天的な定義を割り当て、
再びその情報を、元の要素の集合体として、刺激を互いに関連付け、
認識可能な刺激の姿にする事という事になる。

つまり、
ある未知なる情報を、
手持ちの刺激の感覚器官で受容し、
その得られた刺激について、知能が理解する為の意味付けをして、
それを未知なる情報と対になる1つのまとまりとする事。
この事により、
知能は、

未知なる情報=手持ちの刺激で認識したと感じる情報の集合体

として知る、認識する、理解することが出来る。
という事になる。

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人間の知能は、
過去に対しての認識や、未来に対しての予想も、間違う事もあるが、
特にその定義する能力に優れた知能を持っているという事になる。

人工知能に対しては、
現在の人間の知能を超える、または人間と共存するには、
いかにしてその定義の能力を与えるかという事になる。

人間の知能とは異なる形を持つが、
現時点でも、感覚器官と定義能力を与えれば、
知能らしき機能を持った器官は作ることが出来ると考えられる。

その先の予想はまた次にするとして、
今日はこの辺で。


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