2023/10/8

自分という刺激の存在

最近考えていた情報の要素や定義について、
自分や自我という観点に当てはめて考えてみた場合、
自分や自我という認識を行うための刺激は、
その意味する対象の情報の刺激の発生において、
自分自身に対する位相差の存在が必要になるという事になる。

つまり、自分という対象が何らかの情報や意味を持って存在するには、
自分という対象において、2つの状態の差が生じる必要があるという事になる。

つまり、認識する対象であれば、刺激が存在する必要があり、
それならば、自分という刺激の存在においても、
同じことが言えるはずであるという事になる。

生命としての実体における存在を刺激として認識する場合は、
自分自身が持つ感覚器官において、その実態、つまり、
体の部分や各器官を刺激として認識出来れば良いという事になる。
視覚で見たり、触覚で触れたりすれば良いというわけである。

では知能における自分や自我という存在についてはどうかと考えると、
実体のない自分や自我という存在は、
生命としての誕生直後には存在せず、
その後の成長過程で作り出されることになるのだが、
その認識においては、その刺激の出所は想起による刺激である。

情報の定義として先天的に持つ定義ではないと考えられるため、
後天的な定義としての情報として作られるモノであるという事は予想できる。

つまり、生命としての誕生後に、
後天的に定義される刺激として、
自分や自我というものは存在する事になる。
そして、その刺激は想起によって確定するのだが、
刺激が2つの状態の差に起因するものであると考えられるため、
自分や自我という存在ともう1つの存在の差において、
自分が自我が発現することが出来る事になる。

これまで考えてきた中では、
自分や自我は他の多くの「他人・他我」の中から「自分・個人・自我」を分けて自分としている、
という考え方が最も近いものであるが、
それであれば、後天的に定義したいくつかの個人という存在、刺激の中から、
自分という定義を行うという事になり、
その自分の変化を刺激として「自分」を認識することになる。
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2023/10/10

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刺激を受けた事による反応を自分であると認識する。

刺激を認識した存在の認識。
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自分という存在は生命としての誕生後に認識されるものであるため、
先天的に自分を持っているという事にはならない。
また、
後天的定義が先天的定義から生じるものであるため、
自分という存在は先天的定義を元にしているが、
遺伝的に自分を持っているという事にはならない。

ただし、先天的定義は生命としての誕生時点で既に遺伝して保有しているため、
その個体が何らかの刺激を受けた際の情報の意味付けにおいては、
先天的に既に決まっているという事になる。

であれば、自分を構成する場合の刺激に対する経験として、
先天的定義による情報の意味を認識することになるため、
自分の構成要素として先天的定義は関係している事になる。

人間以外の動物において、人間と同様の刺激の感覚器官を持つ種もいるが、
自分や自我という認識において人間と同等の能力を持つ種がいないのは、
その脳の後天的定義の扱いにおいて、多くの要素が関連した事象において、
人間と同等に認識できないからという事になる。
つまり、刺激などは同じ様に受け、情報を得る事はできるが、
その刺激を他の情報の要素に関連付けて認識、記憶できる能力を持たないか、不足しているからという事になる。
実質的には、生命としての適応に際して、その必要がなかったために、その能力を備えなかったという事になる。
結果的に、自分として想起される要素や要因、関連が足りないために、自分の認識に至らないという事になる。

ただし、逆に考えると、認識される刺激において、
自分という要素の定義に関連する刺激を認識できる種があれば、
その種は自分を認識することが出来るという事になる。
これは、人間の様にという複雑な自分の認識ではなく、
他ではない自分という認識が出来る程度の認識においては、
それほど複雑な刺激や関連を認識したり記憶する能力が無くてもできるという事になる。

つまり、人工知能においても、
他と異なる自分という定義の情報や認識、記憶という点においては、
それほど複雑な定義を行わなくてもできるという事になる。

確か、比較的知能が高いと考えられる種にミラーテストという、
鏡に映った自分の姿を自分として認識できるかという判断を行うテストがあったと思ったが、
その鏡に映った自分の姿が自分の個体としての体の映像であるという認識は、
人間以外の種でも多数ができるという事を見た事がある。
これらの種では、その鏡に映った対象が自分の姿であり、
その姿が自分に所属する個体としての姿であるという認識が出来ている事になる。
しかし、その鏡に映った自分という存在に対して、
自らを自分として認識できたり、自分について考えたりできたりするのは、
現時点では人間だけであろうという事になる。
つまり、自分という個体の姿を自分に所属する情報であると認識できたとしても、
自分の存在自体を認識はできていないだろうという事である。

人間でさえ画像で見えた体の映像と実際の体の実体の感覚を錯覚する場合もある。

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さて、改めて自分という刺激の認識であるが、
現時点で自分で感じている自分の刺激の出所としては、
先天的な刺激の定義における、刺激に対する反応する部分ではないかと考えている。

つまり、ある刺激を受けた際に、自分はどのように感じるかという事である。
ある刺激に対する先天的な定義は、その刺激に対する情報の意味付けという点で、
自分を構築する前の個体の状態でも存在する。
そして、その先天的な定義によって、その刺激がどのようなものであるかという情報は定義される。
そして、その情報を認識する自分自身も個体として存在していて、
その認識によって自分という個体がその情報に対して認識した際に、
自分がその刺激を受けたと感じ、
その刺激に対して励起される事になる、関連した様々な要素が想起されることになる。

この一連の活動の中で、自分という存在が生じる可能性があるのは、
認識後の様々な関連する記憶の想起の時点という事になる。

自分が先天的に持ち合わせていない定義であるという事からも、
それは当然の様に考えられるのだが、
先天的定義からその個体が受け取る刺激の意味付けによって、
その個体の後天的定義が生じるのであれば、
後天的定義の1つである自分という存在は、
先天的定義の中にその構成パーツが存在する事になる。

その辺りの考えは、個体差として生じる個人の定義であるので、
これも当然であるが、各人間がそれぞれ持っている共通する自分という定義については、
その存在は個体差の中には存在していない。

在るとすれば、「他と異なる自」という認識の差において自発的に生じる自分に対する関連という事になる。
この場合は、各個がそれぞれ異なる自分の後天的定義を持つ事になるため、
他の個体との共有は出来ないか難しい事になる。

では、皆が持つ共通の「自分」は社会から得る?という事も思いつく。
人間以外でも社会性のある動物、他の種との関係を持つ種というのは存在する。

そういった種では遺伝的に他の特定の種や個体との関係が定義されていて、
個体として誕生した後には既にその認識ができる事になる。
群れを作ったり、有益な種に対して攻撃的にならず共存することが出来るというような定義である。

ただ、この場合、人間における自分という認識と比較した場合、
それらの種における自分という認識は、
他の中に在る自という認識だけで、
自分が何らかの定義を促したり、自分についての表現や変化について、
自発的に行われることは無い。

つまり、自己認識はできていても、
その自分について自己の何かを関連して考える事は無いということである。
実際にはその脳の認識や記憶の能力が足りないという事になる。
恐らく先天的定義も足りておらず、後天的定義を記憶する余裕がないと考えられる。

そして、人間においてはどうかという事になるが、
他の種と異なる人間においては、社会における個人の影響が強く働くという点がまず異なる。
群れを作る動物はいるし、リーダーの様な存在を設ける場合もあるが、
人間のように各個がその社会という後天的な定義の中で、
自分の存在を決めたり、決められたり、という社会構造を持つ個体は他にない。

多くの後天的定義の中で、
自己や他己に対して多様な定義をするのは人間だけであるし、
人間だけがそれだけの知能の能力を持っている。

そして、
自分というのはこういう存在であるという定義を自ら決めるのは人間だけだという事になる。

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自分という刺激の存在:

自分という刺激が存在するためには、
自分という刺激の位相差が生じ、
その差を刺激として認識する必要がある。
人間の知能においては、自分は想起の中に存在するのであれば、
想起される自分という存在の刺激の中に差が生じれば良いことになる。

想起対象の差というものは、
つまりは、ある刺激を受けた際の先天的定義による情報の認識において、
自分らしさという情報の関連を持つ事ではないかという事になる。
つまり、自分はどうするのか、自分はどのように感じるのか、
自分はどのように思うのか、そういった後天的に得た自分という定義において、
その後の刺激による認識に関連付けて想起される事。

そこに自分が持つ先天的定義の意味付けと、
後天的に得た自分の定義の関連が出来る事、
それが自分という刺激となって、認識されることになるのではないかという事になる。

そして、その後天的定義の自分というものは、
人間の持つ能力と、その人間が構築して個体では遺伝的に、
人間という種としては比喩的に言えば社会的に遺伝した定義によって、
自分が後天的に定義され、
自分とはこういう名前である、自分の家系はこうである、性別は、親兄弟は、社会は、国は、などと、
そういった後天的定義が自分の後天的定義の要素として教えられ、
自分のモノとする事で自分を自ら定義しすることになるというわけである。

そして自分を受け入れるようにして自分を定義する事で、
関連する要素によって変化する自分の姿を、
自分の変位差として認識する事が、
自分という刺激の認識になるのではないか。

これ自体を書いていて、感じたのは、
社会や周囲の環境から決めつけられた個性や個人の人格のようなものに対して、
社会や周囲に対して個人が思うような理不尽さのようなものは、
実際、その周囲から与えられる自分の定義に疑問をもったり、
不満を持ったり、違うのではないかと疑うような場合が生じるのは、
これまで多くの人間が抱えてきた問題や、ジレンマとして存在する要素なのだろう。

周囲から「あなたはこうあるべきである」
そういった期待や押し付けなどのようなものが存在するという事である。
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2023/10/13

自分という刺激について考えていて、
結果的に行き着いたのは、
自分の脳自身が定義した情報や要素が「自分」に所属するという事である。

最初に考えたのは、
上記の様に、自分という刺激が存在するなら、
自分という対象についての刺激の位相差が存在するであろうから、
それはどのような際に生じるのか考えていた。
しかし、想起の際にそれが認識できるとしても、
自分自身に対する刺激を構成する情報や要素について、
その発生源が先天的な定義であるという事しか思いつかなかった。

そこで、もし、自分に関する刺激が存在しない情報や要素は
自分にとって存在するだろうかと考えた時に、
自分の感覚器官がまったく関与しない事象になら、
自分と関係する自分の要素がまったくない事象になると考えた。
そして、これを逆に考え、
であれば、自分に関係する事象は全て自分に関係する要素になるのではないかと考えた。
そして、
その事象の情報を自分が得る方法について考えた時、
後天的な定義がそれに該当すると思いついた。

つまり、「自分」は後天的な定義であり、
「自分」を構成する要素は後天的である。
自分の体を構成する要素として、先天的な定義も存在するが、
それを自分に関する要素であると定義しているのは後天的定義である。
例えば、今見えている風景の視覚刺激について、
自分が見ていると感じているのは、
その視覚刺激から得られた情報を、自分が見ていると定義しているから、
という事になる。
つまり、この視覚情報を自分が見ていない視覚刺激であると定義した場合、
それは自分に関与しない事象の刺激であるという事になるが、
この場合、その風景は自分が見た事にはならない。
自分にとって存在するかもしれない視覚刺激ではあるが、
自分が見ているものではないという事になる。

それは、自分が感覚器官から得たはずの刺激に対しても、
自分が得た刺激であると定義されない場合、
自分には関係ない刺激となり、
自分が得た刺激であると定義して初めて、
自分にとっての刺激であると認識されることになる。

これは、人間であっても人間以外、他の動物や人工知能の知能であっても同様で、
その知能が後天的に自分にとっての刺激であると定義する事で、
その知能にとっての自分にとっての刺激となる事になる。

つまり、例えば人間以外の動物や現在の人工知能の知能が、
自分自身についての認識が人間に劣るのは、
自分自身について行っている後天的定義が少ないからというわけである。

それは、自分が得た刺激に対する反応としても現れる。
つまり、ある刺激を受容し、後天的定義することで認識し、
自分にとっての刺激であると認識された場合、
その刺激に対しての反応も同時に自分に所属するものであると認識されることになる。

これは、基本的な刺激が先天的な定義による意味付けによって、
情報の要素が決められたとしても、その刺激の認識を行うのは、
後天的な定義としての自分の知能が行うという事になる。

つまり、「自分はこのように感じた」という刺激の全ては、
意味付けは先天的な定義であっても、
認識の際は後天的な定義であり、全て自分に関する刺激であるという事になる。

そして、それは、自分を構成する要素の全てでもあり、
逆に考えて、それ以外に自分を構成する要素は無いという事になる。

だから、
自分という存在が想起した刺激の認識の際にしか現れないのは、
その想起の際にのみ「自分に関連している」刺激が現れるからという事になる。

自分が先天的な定義として存在しないため
感覚器官から得られるような刺激として自分を認識できないのである。

人間の知能は生命としての誕生後、必死になって自分についての定義を行う。
名前、性別、生年月日、年齢、家族、住所、などなど。

自分を定義しようとする先天的な定義が存在するかという点については、
現時点では存在しないと考えられる。
本能として自分を認識する定義が存在するとすれば、
恐らく人間以外の動物において、現在の動物よりさらに自分をよりよく認識している種があっても
良いはずである。
人間が最も自分を認識するようになった最初の種ということも考えられるが、
であれば、人間は自然界において何ら刺激を与えなくとも自ら自分を知る事が出来るはずであり、
環境に関わらず、もう少し自分に目覚める時期が早まるはずである。

そして、もし自分という先天的定義が存在するとしたら、
その刺激を受容する感覚器官が備わっているはずである。
実際、人間には自分を刺激として受容する感覚器官は備わっていない。
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今日、最初に考えていたのは
自分という刺激について。
自分という刺激が存在するには、
自分という位相差が存在するという事。
自分の変化分が自分の刺激として認識されることになるだろうという事。

しかし、
自分は想起の際に現れるもので、後天的な存在であるという事。
先天的に自分を持っているわけではなく、
その後の生活の中で自分が作り出されるという事。

では、もし、自分に関係のない刺激というものが存在するなら、
それは何であるか考えた時、
自分が感覚器官で受容できない事象であれば、
それが自分に全く関与しない事象であり、刺激であるという事になる。
であれば、
それの逆に自分に関係する刺激は、
自分の感覚器官が受容する刺激の全てという事になる。
しかし、感覚器官から受容した全ての刺激が自分に関係しているなら、
それらの刺激は全てが認識されているはずだが、
人間の知能においては受容された全ての刺激が認識されていない。
であれば、人間の知能が認識している刺激とは何かと考えると、
後天的に定義した情報や要素、事象がそれに当たるという事になる。

つまり、後天的に定義した刺激が自分に関係している要素であるという事になる。

つまり、自分に関係する要素は、後天的に定義された要素の全てであるという事になる。
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2023/10/14

自分という刺激の存在のまとめ:

簡単に言えば、
「自分が今まで経験してきた刺激の記憶の総和」
である。

受けた刺激と、その刺激に対する反応、
その記憶の総和が全て自我に関連しているという事になる。

少しずつ紐解いていくと、
自分が全ての経験してきた刺激というものは、
実際に自分で見知った認識したことのある刺激である。

それらの刺激は、経験として、
自分がどのように感じたかという後天的な定義である。

そして、後天的な定義は、
先天的な定義か、別の後天的な定義のどちらかか両方を使って定義される。

また、「自分」は先天的でない後天的な定義であり、
自分という個体が認識した刺激は全て、
自分を構成する為に自分が関連している事になる。

つまり、自分が関連している刺激は全て後天的な定義でもある。
つまり、自分は後天的な定義の全てで成り立っている。
という事になる。

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人工知能に対しての適応:

ある刺激に対して自分はどのように感じるか、
興味がない事も含めて自我の一部という事になるだろう。
人工知能に対しては、後天的な定義が全て自我に関わるという事になるので、
人工知能を知能足らしめる為には、認識可能な刺激に対しては、全ての定義を決める必要がある事になる。
そして、人工知能を人間の知能に近づけるのであれば、
人間が認識可能な刺激を全て認識可能に、後天的な定義可能に構成させる必要がある事になる。

認識の定義の様に、
自我の存在自体を画一的に定義する必要はなく、
知能を持つ個体が、ある刺激に対して固有の反応をするという状態をもって、
その個体が自我を持つと考える事が出来るという事になる。

今回はこの辺で。



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