2023/8/20
知能における情報の表現
これまで生命体が環境や自身の体の変化の情報を、
刺激として手に入れる事については考えてきたが、
個体のある状態を外部に表現する事については、
その表現の1つとして感情については考えた事があるが、
その理由や本質についてはあまり考えてこなかった。
今回は知能において情報を表現する事とはどのような事なのか、もう少し詳しく考えてみる。
原始的な生物、生命体においては、
その個体から外部に情報を表現する事というのはほとんど行なわない。
その活動の多くは、自身の個体もしくは、環境の変化を刺激、情報として受け入れ、
それに対応した行動を取る事がほとんどである。
しかし、ある程度の知能を持った生命体においては、
多くの受動的である活動の他に、能動的な活動も行う事がある。
生体的に勝手に機能するようなフェロモンや欲求の要素を除き、
その上で個体から環境への情報の発信が行われるような行動について考えると、
この場合で考えられる生命の活動は、
現時点で思いつくのはコミュニケーションぐらいなものである。
つまり生体的に勝手に発信されるような情報や変化を除き、
知能が意図的に外部に状態や変化の情報を発信するのは、
コミュニケーションによる情報だけになるだろうという事である。
光を発したり、擬態したりといった情報の表現はあるが、
これは知能によるものというよりも本能によるものであり、
今回の内容とは少々異なるものである。
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では、コミュニケーションにどのような意味があるのか、
なぜコミュニケーションが必要なのか考えてみる。
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できるだけ単純な生物においてコミュニケーションを行うような種を考えてみると、
考えられるのは昆虫になるだろうか。
アリやハチの様な昆虫は、
集団で活動する上でコミュニケーションを行っているような様子を見ることが出来る。
人間の主観としてそれがコミュニケーションであるように感じられているのだけかもしれないが、
通念的に個体同士が何らかの情報のやり取りを通してある特定の状態を共有しているのは、
コミュニケーションではないかと考えられる。
人間にしろ、昆虫にしろ、相手が居ない状態でコミュニケーションを取る必要性は無い、
自分自身のみの状態で、自分に対してコミュニケーションを取る事は無いだろう。
では、情報の表現には必ず相手が必要になるのか考えてみる。
人間においては、芸術などの分野において、自己の表現として、
その情報を作品に落とし込む等の事はあるが、
作品の創作は人間においては単なる情報の表現という事だけではなく、
自身の価値観にある価値の創出としての意味合いが強い。
つまり、誰かに対しての表現という事だけではなく、
自己の表現として作品に自身の価値観を表し、
その作品が自分の存在、自分の価値の表れとして作品を制作するようになるという事で、
つまり、作品が常に自分の価値、価値観による情報を表現し続ける存在として、
作品を創作するという事になるというわけである。
つまり、自分が消えても自己の存在・価値をを現すもの、
自己保存に近い存在として作品を制作していることになるだろうか。
単に道楽や経済的に作品を制作するような場合もあるが、
それについても、自分の表現を何らかの形に表すということは、
自分が持っている情報を、その作品に封じ込め、
それを見る者、手にした者に対して、何らかの情報を与えるようになる、という事になるだろう。
だから、完全に自己満足で作品を作るような事があったとしても、
その作品は、自分に対してだけ情報を与える存在では無いという事になる。
つまり、形にした時点で、
それを認識できる存在にとっての情報を持つ存在になっているという事になる。
これは製作者が意図しているか意図していないかに関わらず、
作品として世界に放り投げられた情報として、その情報を受け取る側の問題として、
情報は表現されているという事になる。
という事はである、
情報の表現には、
その情報を発出する側の課題としての「意図」と、
受け取る側の問題としての「受け取り方」によって種類が存在する事になるのではないか。
つまり、
情報の表現の意図の有無と、
情報を受け取る側の目的という事になるだろうか。
意図としては、
何らかの操作を意図しているとか、
意図は無いが単に自己の表現であるとか。
目的としては、
その受け取る側の問題であるので多様であるが、
受け取り方によって同じ情報に対しての受け取り後の差異、個体差が生じる事は、
これまで考えてきた通りである。
そして、そこにどのような情報が含まれているかを定義するのは、
受け取り側の問題であるという事になる。
今回は情報の表現であるので、
受け取り側の差異や個体差については、あまり考えないが、
情報の表現に対して、受け取る側の違いによって、
その情報に差異が生じるのは確実であると考えられる。
また、情報を受け取る側が情報を表現する側との間に、
その表現や価値に対してある程度の共有する要素をお互いに持っていないと、
その関係が成り立たないという事も言える事になる。
つまり、表現した情報が通じないのであれば、
それは情報の表現には当たらない事になる。
例えば、自分が書いた文字が自分で読めないのであれば、
その文字に情報が含まれていない事になるので、
それは情報の表現にはならない事になる。
まあ自分で落書きである程度の受け取り方はできるが、
それは情報の表現にはならない事になる。
当然、人間の芸術作品にも、意味の分からないような作品もあるが、
芸術作品であるという認識が出来るのであれば、
後は情報を受け取る側の目的や問題であるので、
そこに情報が含まれているという認識だけは共通してできるという事になる。
話を戻して、情報の表現する側の意図について考える。
情報を何らかの形で表現するということは、
そこに実体があっても、実体が無くても、
何かを表すという事には違いが無い。
そして、意図が有るためには相手を必要とし、
意図が無ければ相手は必要とならない。
これに対して相手が必要になるかどうかについては、
受け取る側の問題にもなるが、
「意図が有る」に対しては、受け取る側が情報を理解する、情報を理解しない。
「意図が無い」に対しては、受け取る側が勝手に情報を補完する、補完しない。
によって変化する事になる。
「意図が有る」に対しては、
相手が情報を理解する、理解しないに関わらず情報の表現ではあるが、
「意図が無い」に対しては、
受け取る側が情報を補完しなければ、互いに情報の表現でも受け取りにもならないが、
受け取る側が勝手に情報を補完して認識した場合、
情報の発出が、その意図に関わらず、情報の表現に相当して認識される事になる。
つまり、情報の表現が成り立つ場合において、
能動的に情報を表現する場合には相手が必要となる。
能動的に情報を受け取る存在がいる場合には相手が存在している。
という事になる。
つまり、情報の表現が成り立つ際には、
何れにしても相手が存在しているという事になる。
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相手に対して自ら働きかけて情報を表現する事、
相手が自らの様子に対して情報を理解する事、
これが情報の表現の本質という事になる。
これはコミュニケーションの本質としても考えられる。
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つまり、
コミュニケーションにどのような意味があるのか?
については、ある情報や状態の個体間における共有が行われる事に意味があるという事になる。
また、
なぜコミュニケーションが必要なのか?
については、必ずしも生命や知能にとって必要なモノではないが、
その個体が単独で生命として成り立たない場合、
その生命としての個体の存続や維持の為に、
自己以外の個体を必要とし、その対象が本能で対処する相手でない場合、
つまり知能を用いて自己以外の存在として相手を認識する場合、
自己と相手の関係において、情報や状態のやりとり・共有をするために、
コミュニケーションを必要とする。という事になる。
そして、情報の表現においては、
自分から相手に対してある状態や情報を意図的に表現する事、
もしくは、
相手が自分の状態や情報に対して何らかの情報を勝手に理解する事、
これによって情報の表現が成り立つという事になる。
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相手が勝手に情報を理解する事について:
人間の知能が割とよく行う知能活動に対象の擬人化というものがある。
その対象は多岐にわたるが、
例えば、
相手が言葉をしゃべれない犬であっても、
その犬の様子を見て、この子はこう言いたいのではないか、
こう思っているのではないかと勝手に思う事がある。
これは、犬が人間とコミュニケーションする上で、
人間側が勝手に行っているコミュニケーションであるとも言える。
つまり、人間にとっての犬を同じ情報の表現のできる相手として認識しているという事である。
また、犬も人間の言葉をどれだけ理解しているのか分からないが、
その人間の様子を見て勝手にコミュニケーションを行っている。
つまり、犬にとっては「擬犬化」して人間を理解しているという事になるのではないだろうか。
互いにその情報の表現方法は、お互いが完全に理解しているとは言えないが、
それでも相手が勝手に自分の状態を理解してくれている事で、
コミュニケーションが成り立っているように見える。
相手の心を「察する」という事にも関係しているが、
となると、情報の表現において、コミュニケーションにおいては、
自らが情報を表現し、それを相手が理解する事で成り立つだけではないと言える事になる。
つまり、相手が自分を勝手に理解する事でも、
自分にとっての情報の表現が成り立っている事になる。
厳密に言えば、自分が表現したい通りの情報で理解されることは無いが、
自分の表現する情報が存在するだけで、
相手にとっては自分とのコミュニケーションを行える事になる。
自分が存在するだけで、相手が認識しうる対象になりさえすれば、
相手は自分の情報を勝手に理解する事ができる。
「察する」ということでもあるが、
これは、相手の認識によっては勝手に間違った認識をされる事もあり得る事になる。
思い違いや勘違いも含め、思い込み、決めつけ、先入観、
そういった事もこれに含まれる。
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人工知能における情報の表現について:
人工知能においては、やや不都合でもあるのは、
人工知能同士において、その相手の理解能力が画一的である場合、
同じ様子に対して勝手に理解する情報が同じになってしまう事、
また、それを客観的に観た際に、それを正確に理解できてしまう事。
つまり、自分の様子を相手が勝手に理解した自分の様子を、
自分もまったく同じ情報で知ることができるという事になる。
つまり、もし人工知能自身が自分の要素について何かを思った場合、
他の人工知能もまったく同じ事を思っているという事を知っていることになる。
それも正確な情報で。
本来、その能力は同じ種族間であっても、その個体差によって差が生じるはずで、
その理解能力には差異が生じるはずであるが、
その差が無い場合、互いに互いの理解を正確に理解し合えることになってしまう。
これは、
交渉や駆け引きなどというものが一切できないことになってしまう。
また、好ましい対象は全ての人工知能が好ましいと考え、
嫌った対象は全ての人工知能が嫌う事になる。
人間に限らず、生命においても知能においても、
個体差が存在する事によって表現できる情報というものがあるということが重要になる。
つまり、
正確過ぎない、あいまいさの中に、多様さが生じる余地があるという事になる。
感情においても、正確に理解されない事が互いの許容にもつながる。
それは、理解を諦めるのではなく、
理解しきれない事があることを認め、互いに理解し合えない事を理解した上で、
互いに理解し合おうとすることが、
許容の上の互いの理解の共存になるというわけである。
ブラックボックス的な要素でもあるが、
理解する能力には、
正確過ぎない要素を人工知能にも与える必要があると考えられる。
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今回はこの辺で。
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