2023/8/3

感情の発現理由と対応行動について

知能にとって、
何かについて「自分にとって」と考えると感情に関係してくる。
これを客観的に見ると感情が生じない事になる。
つまり、感情は自分にとっての価値に関係してくる。
感情的にならないためには、
自分や自分の価値を関わらせてはいけない事になる。

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自分にとって高い価値があると定義した対象に対して、
批判や価値が低いという見方をされると、
反発の感情を覚えたり、その状態から退避するようにその見方から離れようとする。
これは、自分の価値に対する相手からの評価により、
価値を共有できない相手を認識した事に対する反応である。
これは、自分にとっての価値が高ければ高いほど強い反応を示す。

この事から、自分が信じる対象に対する価値の定義において、
信じるという事自体は自分にとっての価値が、
その定義の基準になっているという事が分かる。

つまり、自分にとっての価値が高いと「信じる」という定義になるというわけである。


信用・信頼・信仰


+--→価値



上記の信用と価値は比例する。

感情:

評価=相手・他人からの評価
信用=自分にとっての価値

評価・高
(反発)↑(共有)
信用・低←→信用・高
(共有)↓(反発)
評価・低

他・評価・高:自・信用・高=共有
他・評価・高:自・信用・低=反発
他・評価・低:自・信用・高=反発
他・評価・低:自・信用・低=共有

自己内の評価が高いと信用も高いという事になるが、
この他からの評価と自己の信用の高低が一致すると共有という認識となり、
高低が反対になると反発という認識となる。

自分にとっての価値と信じる力が比例するなら、
自分にとっての価値の高さ、低さに対して、
同じ様に他からの評価が高かったり、低かったりすれば、
自分にとって、その評価する相手は価値の共有相手となり、
この逆の場合は、その相手は自分とは価値を共有しない反発する相手となる。

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自分の価値評価と相手の価値評価の差に感情が生じる。
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自分の価値評価よりも相手の価値評価を優先する事がある。
つまり、自分にとっての対象の価値評価よりも相手の価値自体が高く、
相手の価値評価を自分のものとして受け入れる場合がある。

通常は、共有などとして同じ価値評価の高低が揃うわけだが、
自分が低いと価値評価している対象に対して、
相手が高いと価値評価した価値を受け入れるという事である。
この場合、自分の価値評価が低い→高いに変化する事になる。

これは、元々の相手自体の価値が、自分にとって高い価値の存在であり、
その変化する対象についての価値が、この相手よりも低いという事になる。

実際には高低が逆転する場合もあるので、
価値の大きさの絶対値が大きい方を優先している事になる。

つまり、自分にとって、ある対象の価値の絶対値が大きい場合、
この価値評価は変化しづらく、
価値の絶対値が小さい場合には価値評価は変化しやすいという事になる。

それ自体は自分の自分に対する価値評価も関係している事になる。
つまり、
自分の自分に対する価値×自分の対象に対する価値と、
自分の相手に対する価値×相手の対象に対する価値の比較によって、
自分が用いる価値評価が異なる事になる。

つまり、確固たる自分が出来上がる前、
つまり、成長過程では、相手の価値に左右されやすく、
確固たる自分が出来上がった後、つまり自我の発達に従って、
相手の価値に左右されづらくなるという事になる。

幼い頃に周囲の影響を受けやすいとか、
年齢を重ねて頑固になっていくというのは、こういう事から言える事になる。

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感情との関係:

今回、感情は自分にとっての価値が関係していると考えたが、
感情には価値の共有方向への向きと、反発方向への向きがあるという事が考えられる。
つまり、共有の感情と、反発の感情があるというわけである。

共有感情


反発感情

そして、共有と反発が自分の価値評価と、相手の価値評価に関係しており、
相手自体の価値と自分の自我としての自分の価値によって、
価値の優先が起こる事も関係している事になる。

つまり、

自分自身の価値の高低<-(優先)->相手自体の価値の高低

自分の対象への価値評価・相手の対象への価値評価

いずれかを選択

自分が選択した価値評価(自分または相手の対象への価値評価のどちらか一方)

比較A

元々の自分の対象への価値評価

比較Aの結果→自分が感じる感情が生じる

つまり、

自分自身の価値:高低
自分の対象への価値評価:高低
相手の対象への価値評価:高低
相手自体の価値評価:高低

各要素2つ、4種によって16種の感情の結果が生じる事になる。

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自分
↓→自分が認識する価値評価
対象
↑→相手が認識する価値評価
相手

相手が認識する価値評価
↑観察によって自分は相手が認識したであろう価値評価を認識する
自分

対象に対して、
自分が認識する価値評価と、
観察によって相手が認識したであろう価値評価の、
この認識の差について感情が生じるという事になる。

自分が対象について価値評価した価値については、自分で認識できる。
相手が対象について価値評価した価値については、自分は直接認識はできないが、
相手の様子や表現によって、認識することになる。
この認識は正確なものではなく、
自分が持つ相手の価値評価によって加工されやすい。
客観的に見る、観察するようにもできるが、かなり難しい。
つまり、相手を知っている時点で、相手への概念、先入観、を持っているわけで、
自分が認識してきた相手の記憶によって、
実際に相手が認識したであろう価値評価と、
自分が認識することになる相手の認識したであろう価値評価は異なっている事になる。

感情はこの対象に対する、
自分の価値評価を自分で認識した事と、
相手が価値評価についての様子や表現を自分が認識した内容の
差によって生じると考えられる。
つまり、自分の自分による認識と、相手の自分による認識の差に、
感情が生じるというわけである。

この関係は、
自分と自分の客観的な姿の関係においても感情の生じる対象になる。

感情もかなり自分勝手な存在であるという事になる。
とはいえ、感情の発生は自己完結するが、相手が必要である事には変わりない。

上記の様に自分で自分の客観性を相手とする事もできるが、
感情としての利用価値としては、通常はあまり用いられないものである。
人間の知能であればできる事であるため、どのような場で用いられるかについて考えると、
感情の表現自体は相手を必要とし、自分の状態を表現して認識してもらうためのものであるので、
自分内で完結させる意味があまりないが、
自己完結させる感情には、
思考や創造においての自分の自我と自分の客観における見方として必要とされる機能となる事が考えられる。

つまり、対象への定義、価値評価において、
自己の認識の中に、意図的な差異をつけた定義や価値評価を行うという事である。
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参考として、感情を偽る事ができる。という事もある。
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感情の必要性:

コミュニケーションツールとして相手の状態を認識するための定義かと
考えてみたが、感情自体が自発的な表現であることを考えると、
相手の状態を知るというよりも、自分の状態を知ってもらうための
コミュニケーションツールだという事になる。

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つまり、私が認識している対象への価値と、
私が認識している、あなたが認識しているであろう対象への価値、
その認識の差異について、私が表現できるのが感情であるという事になる。
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つまり、自分が感情を表現する相手に対して、
ある事象に対して自分が感じている価値と、
自分が思う相手が感じているであろう価値の差異に対して、
自分がどのように感じているのかを表したもの、
それが「感情」という事になる。

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301で書いた3人で食事する際に、
一人が先に食事を食べ始めてしまう事に対して、
自分が腹を立てるというのは、
自分が皆で食事をすることに対して高い価値を定義している事と、
その先に食事を始めてしまう者が、皆で食事をする事に対して低い価値を定義しているであろう事を
自分がその様子から認識して、
その皆で食事をするという事に対し、自分が定義した価値と、
先に食事を始めてしまう者が定義している価値の差異について、
自分が高く価値を定義している事象に対して、
相手が低い価値を定義していると認識できたことに対して、
腹を立てる、怒りの感情を感じる、表すという事になり、
この例で挙げた、呆れについては、
客観的に見た、その価値の差異に対して、
客観的な自分の高い価値と、相手の低い価値に対して、
客観的な自分として、相手と価値を共有しない事に対して、
自分が相手への価値の低さの定義を行う事で、
相手への関心の低さに関連して、呆れるという感情を感じるという事になる。

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最初は感情には何か意味があって、獲得した機能であると考えていたのだが、
その点から考えると、感情は自分を知ってもらうために獲得した機能、能力だという事になる。
知能が発達し、その認識する価値の大小や、高低が、複雑になったために、
感情も複雑になったように感じるが、
基本的な比較や差異は、自分にとっての価値だけであるため、
自分さえ理解すれば良いため、分かりやすいものである。

つまり、自分の知能が、ある対象についての自分なりに行った認識を、
他の存在が、その対象について認識しているであろう刺激との差異を、
自分の感じ方として表現したものが「感情」であるという事になる。

つまり、
ある事象の自分の感じ方と、
自分が見た他人のある事象についての感じ方の「違い」について、
自分がその「違い」について表現する手段が「感情」という事になる。

例えば、道に猫が歩いていて、
それを見た自分が感じた感覚があり、
同時に別の他人がその猫が歩いている様子に対して何らかの対応をした場合に、
自分の感じた感覚と、
自分が見たその他人の対応の中に、他人が感じたであろう感覚を自分が感じることにより、
その感覚の差に対して自分の中に感情の刺激が生じるという事になる。

条件として自分にとっての別の他人の価値評価が抜けているが、
ここではその他人の価値評価は良くも悪くもない評価としておく。

もし、自分は猫が好きでかわいいと思ったとする。
他人は猫に話しかけて可愛がろうとする。
その他人の様子を自分が見た時に、感じる感覚は何か。
対象としての猫に対する価値の共有の感覚。
自分はその他人に親しみを覚えるだろうか。

また、自分は猫が嫌いで避けようとする。
他人は猫に話しかけて可愛がろうとする。
その他人の様子を自分が見た時に、感じる感覚は何か。
対象としての猫に対する価値に自分は反発を感じる事になる。
その人に近づかれたくないとも思うだろうか。

そして、自分が猫が好きで、他人が嫌いな場合、
また、自分も他人も猫が嫌いな場合。
それぞれに自分の他人に対する感じ方は異なる。

この例の場合は感情として表現されるほどの強い刺激ではないが、
もしこの対象が命に関わるとか、将来の行動に関わる事象であるとすれば、
感情として感じられるような刺激を認識する事になるだろう。
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感情に対する行動:

例えば、怒りによって、カッとなって何かをしでかすという事があるが、
今回の考え方からすると、怒りとしての感情を自分が認識するに当たって、
その怒りの発生するための、自分の価値の認識と、相手の価値の自分なりの認識が必要になり、
さらに、その価値の差異と認識を行った上で、
感情としての怒りを発現させて、認識する事になる。

これは、冷静にというような客観的な認識ではなく、
直接的な主観的な刺激の認識という事になる。
この時、感情の刺激に関連して想起される、
この状態時における対応の記憶が、
すぐさま行動に移されることによって短絡的な行動に繋がるのではないかと考えられる。

つまり、ある状態と、ある感情における対応は、
すでに知能内に存在していて想起される。
もしくは、非常に短い時間で反応する事になるため、
思考する猶予がなく、関連する対応が選択される事になるのではないかというわけである。

感情に対する対応だから短絡的に反応が即座に行われるというわけではなく、
思考等における想起による刺激の認識ではなく、
自発的な刺激ではあるが、感覚器官から受容された刺激であるように、
感情の刺激が認識され、
この感情の刺激の認識に対応した関連して記憶している経験が少ないために、
選択の余地が少ない状態で想起、認識、意識となるために、
あまり先の事が考えられていない選択となってしまうのだろうと考えられる。

つまり、あまり怒った事の無い知能の方が、
いざ怒った時に想起される選択肢が少ないということになり、
怒り慣れている知能は、その経験の多さから想起の選択肢が多いという事になる。
だからといって怒り慣れた方が良いというわけではないが、
刺激の認識には強化が付きまとうため、
知能が怒りを認識すれば、次の同様の刺激に対しても怒りを認識しやすくなる事になる。
ただし、怒った事を経験として後に思考で想起して認識すれば、
それはその状態の刺激に対する、直接ではない刺激への経験をすることになる。
この時には時間的猶予もあり、より適切な選択を思考する事もできるかもしれない。
そしてこの経験は、次に同様の状態になった際に、関連して想起される対象として用意されることになる。
これは、次に怒るような状態になった際に選択の候補が増えることであり、
度々思考で想起する事によって強化が行え、
想起される対象として有利な刺激とすることもできる。

別にこれは怒り以外の感情についても同様であると考えられる。
喜びにしても悲しみにしても、楽しさ、哀れみ、
どのような感情にしてもその感情の刺激を認識した際に行われる反応行動は、
それぞれの感情を認識した経験によって、関連して想起される対象が増える事になる。

感情に対して反応する時間的な猶予があれば、
思考により選択肢として想起できる関連も増える事になるはずである。

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今回はこの辺で。


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