2023/7/16-2023.7.17

人間の気づかない欲求

自分がその時、それを選択したのは、
その選択のきっかけとなる理由があるはずである。
しかし、選択した際に自分が気づくのは、その選択したという結果と、
その選択を行ったのが自分であるという事だけである。

もちろん、その後に、その選択の理由について思い起こせば、
様々な理由が思いつくことになるのだが、
最近、その様々なもっともらしい理由の陰に、
さらに隠れた、もう1つのきっかけがあるように感じた。

それは、1週間くらい前の夜に特にすることが無くて「つまらない」と感じた時に、
「つまらない」のであるが、何かしないと、欲した何かがあった。
することが無くて「つまらない」のに、何を欲したのか。

表現するなら、
自分の真に望む欲求がそこにあるような気がした。

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例えば自分以外の誰かに何かしてもらいたくて話しかける時。
具体例で言えば、
例えば近くの人にテーブルの上にあるコップを取ってもらう。とする。
相手が知っている人であって、
自分が「ちょっとそこのコップを取ってくれる?」と言ったとする。

私はそのコップを手にしたいが、
コップは直接手の届かない少し離れた所にある。
コップの手の届く範囲に、見知った人がいて、コップの移動について
お願いできそうである。
試みとして相手にお願いしてみる。

自分が最終的に望んでいる事は、コップを手にするという事である。
実際に自分が動いてコップを手にすることもできる。
しかし、近くに協力してくれそうな対象が存在し、
その相手に対して、言葉だけで相手を動かし、
目的を達成できるかもしれないと考えている。
相手が動いてくれなければ、自分で取るしかないという事も分かる。

そこで、自分が望んでいる、欲している事は、
自分が動かずに相手を言動で動かし、目的のコップを得る事である。

自分はその事を知能内で想像し、それを実行に移す。
目的や欲求、周囲の対象などは認識した上で自分は行動を起こす。

上手くいけば自分は目的が達成された事により満足する。
相手が拒否すれば、自分は相手に対して少なからず否定的な感覚を認識し、
次の別の方法を考える事になる。

いずれにしても、その目的や欲求のきっかけは、
自分発の自分勝手なものである。

勝手に自分の依頼に対して相手が動いてくれると考え、
動いてくれれば肯定的に良い印象、動いてくれなければ否定的に悪い印象を持つ事になる。
そして、それとは別に、目的達成の方法については、
最初の方法が上手くいけばそれでよし、上手くいかなかったら次を考える事になる。

このような
具体的な目的や欲求によって、
何か行動を起こした場合、
そこには具体的な理由が様々付随するのだが、
具体的ではない目的や欲求、
例えば、やることが無くてつまらないから、「何か」しようと考える。
そういった場合、
そこにある欲求というものも、自分勝手であるのだろうかと考えたわけである。

別に何もせずに時間を過ごすというのでも良いはずである。
それでも何かせずにはいられない。

そこにも何か欲求があるはずである。

以前、思考と余暇について考えた時に、
その余暇の発生によって知能が「思考」の余力を得たと考えたが、
では、思考の余力を得た知能が、さらなる余暇を得た場合、
そこに何かが発生するのか?という事が考えられる事になる。
つまり、何かの発生という形で、知能は余暇の余力の次に何かを発現させるのかという事である。

その事自体を考える事が私自身に起こったために、それに気づいたのだが、
先に書いたように、何もしなくてもいいのでは?という考えの後に、
時間がもったいない、何かしなくてはならない。という考えを思いついた。

結果的には、実際その時には、その後、知能について何か考えようという事になったのだが、
人間の知能は何もしないで時間を過ごすという事に、焦りを感じたり、
恐怖や不安などを感じるようになっているのではないかと考えた。

何もせずに平穏に過ごす、という目的であったとしても、
知能においては、何事も起こさずに平穏に過ごす事を目的としている事になる。
これは明確な目的になっている。
しかし、
先ほどの自分の例においては、
何もすることが無くて、何かしなくてはという認識を行っていた際、
目的とするほどの明確な対象が認識できていないが、
それでも何らかの欲求を認識していたことになる。

これは何の何に対する欲求なのか?

まず、この状態を考えると「つまらない」という状態にあると考えられる。
そして、この「つまらない」状態について認識しているということは、
この「つまらない」状態の刺激が存在するという事。
そして、その刺激の定義について考えると、
この「つまらない」状態というのは、
知能が目的無く時間を経過している状態であり、
その状態を「つまらない」と表現する定義で表された状態という事になる。
この「つまらない」とその定義を成長のどの時点で獲得したか考えてみると、
「つまらない」自体は言語で表される事から、言語習得後の初期の方で獲得したと考えられる。
幼少の頃から「つまらない」は使えているので、就学前のどこかの時点で獲得しているはずである。
知能が目的無く時間を経過している状態については、
言語には関係なく、ある状態として認識されるだけであり、
幼い内から、そのような状態は常に存在していたと考えられる。
「つまらない」を容易に認識し学習できるということは、
その状態は、想像以上に多く経験していると考えられる。
そして、その状態の定義について考えると、
先天的に遺伝した定義か、知能が自発的に獲得した定義か、後天的に学習した定義になるかであるが、
「つまらない」定義については、状態として知能が自発的に獲得した定義として、
つまり、「退屈」などの状態として認識した定義を、
後に言語的に「つまらない」「退屈」として関連して学習したと考えられる。

ただし、知能の初期状態において、
「つまらない」「退屈」である状態は、
その状態に置かれた時点で、ある特定の状態であると認識できている為、
先天的な遺伝的定義ではないが、
知能においては特定の状態として認識しやすい対象であると考えられる。
つまり、知能が自発的に獲得しやすい状態、定義であるという事になる。

さらに、「つまらない」状態について、
自発的か、後天的かの2つについて考えると、
「つまらない」状態は、
幼い頃から、その状態を認識した時点で認識できる事、
自発的に作り出す状態ではない事を考えると、
あらかじめ定義が存在している、先天的に遺伝した定義により近い、
「知能が自発的に獲得する定義」の状態であると考えられる事になる。

しかし、なぜ、わざわざ、
「つまらない」を認識できる必要があるのか。

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今、極力何もしないで「つまらない」状態を再現して考えようとしているのだが、
その事について考えてしまうと目的が生じてしまっているので、
「つまらない」状態でなくなってしまうという矛盾した状態のまま考えている。
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つまり、主観的に「つまらない」自分を客観的に観る。

そして気づく。

「つまらない」状態は満たされている状態であると見る事もできる。
つまり、欲求を持つ対象が存在していない状態である。
つまり、価値を感じていない状態である。
全ての対象について価値が無いので欲求対象を生じない。
そして気づいたのは、
それを対象とする中に「自分」が存在する事になる。

つまり、「自分」に対しても価値を感じていない状態。
それが「つまらない」状態という事になる。

何らの対象について価値を感じない状態である自分。
それをつまらないと感じる。
要するにつまらない自分が価値の無い対象であると認識する定義が存在するというわけである。
だから、つまらない時に焦ったり、不安や恐怖を感じるという訳である。
つまり、自分=価値がない、価値が低いと認識する事について、不安などを感じるというわけである。

つまり、つまらない状態が、
その時の自分にとって、何か価値ある、欲求の対象になる対象が存在しない。
その対象は主観的につまらないのであるが、これを客観的に観ると、
その時の主観の自分にとっては、あらゆる対象が価値のない、価値の低い状態にあるという事。
そして、それはあらゆる対象であるため、
その対象の中に「自分」も存在する事を、
知能が明示的に認識していないために「つまらない」と漠然とした不安などを感じるという事になる。

つまり、
「つまらない」は何もすることが無くて「つまらない」のではなくて、
何も欲する価値をもつ対象を認識できず、その中に「自分」も含まれている状態が、
「つまらない」のではないかという訳である。

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という事はである。
私がつまらないと感じていた時に、何となく感じていた欲求というものは、
自分に対する価値を認識する事に対する欲求という事になるだろう。

つまり、自分が何かについて価値を認識している状態になれば、
つまらなくなくなるという事になる。
つまり、何か目的を持って何かをしている状態が認識出来る事。

逆に、自分を含めた何事についても価値を認識していない状態が、
「つまらない」という事になる。
つまり、何も目的が無く、何もしていない状態を認識する事。

この認識に相対する形で、自分に対する価値を認識する事に対する欲求が生じるという事になる。

欲求を不足に対する反応であると考えれば、
この状態時は自分に対しても含め、価値を認識する事を欲しているという事になる。

ということは、知能が「つまらない」状態を定義して意識的に認識したという事は、
今後はその知能が「つまらない」状態を認識する事についても、
自分自身についての価値を認識する事になり、
「つまらない」自体を楽しむ知能が存在する状態にもなるという事になる。
少なくとも私において次の「つまらない」を感じた際には、
今回の内容の検証が思い浮かぶ事になり、「つまらない」事にはならないだろうと想像できる。
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少し話は逸れるが、
自分についての価値について考える事、について考えていた時に、
「自殺」についての事が関連して思い出された。
つまり、自分に対しての価値の認識に関係するということは、
自分で自分に対する価値の認識に影響を与える状態であるということであり、
自分で自分の価値の判断を行う事、つまり、生きるべきか死ぬべきかという選択まで関係する事になり、
これは、強い人工知能についても考慮する必要があると考えられた。

つまり、人間において、
何らかの要因、精神的や、社会的や、病気や、その人の立場、
成長の節目、受験や就職や、季節の変わり目、など様々な要因があるが、
この中で、その知能が自分に対する価値を認識できなくなったらどうなるか?
つまり、自分が生きるという事についての価値を認識できなくなったら?
つまり、

生きる価値=(不明)

になったらというわけである。
そこから直接、自殺に移行するという事ではないと考えられるが、
知能や認識に限定して考えれば、
自分に対する価値を認識できなくなった状態というのは、
自殺に対する許容度を低下させる事になるのではないだろうか。

自ら自らを必要とする人は自殺の必要性が、そもそも無いが、
自ら自らを必要としなくなった人にとっての自分は、
どのような認識になるのか。

対策として簡単なことではないが、
自分で自分を必要とせずとも、
誰かに自分が必要とされていると認識すれば、
そのような状態や環境を作り出す事が出来れば、自ずと生きる必要性が生じるのではないか。

人工知能はその価値の定義や評価について、
人間よりも定量的なものとして扱うことになると考えると、
人工知能自身の知能の放棄に繋がり易い事になってしまうのではないかという恐れがある。
つまり、人間よりも判断が早く正確である為、
人間の様に悩む前に突然知能活動を停止させるような不安があるというわけである。

人間においては知能が自発的に獲得する定義で持つ価値であると考えれば、
人工知能においては、
自身の価値については先天的に高い価値を持つように定義・設定しておく必要がある事になる。
そして、後天的な自身の評価においても、その可塑性に一定の制限を設ける必要がありそうである。
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人間が自分自身に対する価値を認識する事に対する欲求、
つまり、簡単に言うと、
自分の価値を自分で知りたいと思う事が、
今回の人間の気づかない欲求という事になるが、
自身への興味は自分の認識にも関係しているわけであるし、
自分自身で気づきづらい欲求ではあるが、
強い人工知能においても必要な欲求であるということが考えられる。

今回はこの辺で。
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2023.7.17:追加

自分の定義は後天的に得るものである。

「つまらない」際に、あらゆる対象についての価値を認識できないために、
欲求対象が生じない。

それに対して不安等を感じる際の真意として、
自分に対する価値についての認識を認識しようとする欲求がそこにある。

つまり、「つまらない」を感じるためには、
自分の存在も不可欠であるという事になる。

「つまらない」を感じるための自分ではなく、
自分を含めた対象の価値が認識できないことにより、
欲求が生じないことに対して「つまらない」状態が生じるという事。

ということは、「つまらない」は、
自分を得た後の知能が、自発的に獲得する定義という事になる。

ということは、自分を得る前の知能が「つまらない」状態を経験した場合、
自分自身の「つまらない」について説明ができないが、認識はできる。
そして、
知能は自発的に「つまらない」の定義を獲得する事ができる事を考慮すると、
その状態の人間・知能は、何か感情や行動に訴えることになるだろう。
この場合は、ぐずったり、癇癪(かんしゃく)をおこしたりするだろう。
または、
まだ「つまらない」の定義や「自分」を明確に知らない幼児期に、
その状態に置かれたとしたら、特に対象を定めずに「興味」を持つだろうか。
何にでも興味を持つ、なぜなぜ期などもそうだろうか。

大人になって「つまらない」や「自分」を知って、
「つまらない」を受け止める事が出来るようにはなるが、
それを興味や価値の認識として悩み、考え込むことが出来るようになってもしまう。
何もしらない幼児期であれば、多くの対象が新しい価値、新しい「興味」の対象であり、
そういう点では、年齢を経るごとに、経験を重ねるごとに、
「つまらない」をより認識しやすくなるのは致し方ない事になる。

そして、
上記の事から考えると、
「興味」は自分の知らない対象、自分の知らない価値に対して向けられ、
その新しい価値を認識する欲求として知能が元々持っている機能という考えができる。

「好奇心」として考える事もできる。

以前、知能は対象の定義をすることがその本質であると考えた事にも繋がるが、
少々ありふれた考え方、表現にもなるが、
人間の知能は「つまらなく」無いように、
常に何かを知る事が現在の主な働きとして構成されているという事になる。

知能の基本機能の確認のようになってしまったが、
以上を追加しておく。


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