2023/6/29

認識する他人の中の自分

291の「人工知能に自分を気づかせる方法」の最後に挙げた課題、
「知能」の定義と、その知能を持つ存在の認識方法について考えていた。
実際の知能の有無は別として、ある認識するべき他人がいた場合、
自分の知能は、その対象に対してどのような認識を行うか。

人間の知能であれば、その対象のテンプレートとしての定義を参照して、
対象を認識可能な刺激集合として作り上げるだろう。
相手が人間であれば、自身の知能が持つ「人間」としての定義、
型に沿った対象の刺激集合として仕上げるし、
相手が犬や猫であれば、その定義を用いて対象の刺激集合を作り上げる。

つまり、まず対象が知能を持つかという定義は、
自身が持つ対象についての種・種類による定義に、
知能の保有の定義が有るか無いかによって決まることになる。

だから、例えば、人形に心があるかと聞かれ、
その人が人形にも心があると考えていれば、
その人にとっての人形は、心を持っているという定義であり、
心を持っている対象の刺激集合として認識されているということになる。

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知能自体の定義:

生まれてすぐの知能において、例えば人間の赤ん坊が、同じ人間である母親を認識したとしても、
その相手、母親に知能があるかどうか、という定義は、その赤ん坊は持っていないし、
その認識においても知能の有無についての定義は参照されない。
これは、
自身が認識する側であり、その知能の中に「知能」に関する定義を持っていないからである。
「知能」の定義の存在は、後天的な刺激であり、その後天的な定義であるので、
その知能の成長過程において学習する必要がある。

では、この「知能」自体の定義は、どの時点で獲得するのか?

それについて考えると、正確な時期というのは特定できないが、
恐らくこれは、自分が知能を持つ事と、相手が知能を持つ事の、認識の交差、
つまり、自分が何らかの知的機能によって選択する事と、
相手の知的機能による選択の差によって、知能それ自体の存在を認識する事になると考えられる。

つまり、常に主観的な知的活動においては、自身はその自分の知的活動に対して、
認識や意識はしても、その活動自体の存在までは認識する必要がない。
つまり、知的活動による過程を認識する必要がない。
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普通の人間が「思考」した結果を認識したとして、
その人間が「思考」の過程で行っている脳内の活動に対して何を知っているのか?
我々はそれについて考える事さえせず、
その自分が導き出した結果だけを認識して、
自分は自分なりの「思考」したと思っているだけである。
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あくまで主観的であるので、その結果などの評価は行われて認識されても、
その機能の存在は認識・意識されることはない。
つまり、自身のみの知的活動は、自分の選択のみしか存在しない為、一方通行で良いことになる。

つまり、その知的活動自体が、比較する対象が存在しない為、
情報の差、変化の差として、つまり刺激として認識できない事になる。

しかし、ある対象、ある選択において、自分以外の知的活動が存在した場合、
否が応でも、そこに自分とそれ以外の差として、情報の差、変化の差が生じる事になる。

つまり、自分の知的機能による活動によって、自分が作り出す選択と、
別の存在が作り出す選択が、共に存在する状況が生じる事で、
同じ対象に対する、この2つの選択の間に情報の差が生じる事になる。

この時、自分は、自分が作り出した選択を認識することになるが、
よほどの事が無い限り、別の存在が作り出した選択もほぼ間違いなく認識することになる。
それは、その要素が共通していれば、そこに情報の差を生じる前に、
関連する刺激の要素の為に、自身の選択に対して強い関連を持つ刺激として、
別の存在が作り出した選択に対しても強い励起が行われることになるからである。
そして、その状態は、その要素を共有する為に、その差、情報の差によって刺激が生じる事になるからであり、
刺激が気になる知能は、それ故に双方の選択を認識しなければならない事になる。

つまり、ある対象に対して自分自身の選択と相手の選択を知る事になるというわけである。

知能の成長過程においては、自分の選択のみが価値あるものとして評価される事になるが、
ある程度成長した後
(恐らく、自分について自ら知り始めた後、つまり自我に気づき始めた後)は、
自分以外の選択が存在する事にも気づくようになる。
つまり、学校で習う道徳などで行う「相手の気持ちを考える」というような学習を行う頃には
気づき始めている事になる。

比較対象として自分以外の知的活動の選択を知るという事は、
その相対する対象として、自分の知的活動の選択も意識的に知る事、
つまり想起対象となるという事になる。

自分の知的活動を知れば、自身に知能が存在する事にも気づくことになる。
そして、自らの知的活動に対して、知能の定義を持つ事になる。
自らの知能の定義を持てば、他の対象の知能に対しても定義を用いることが出来るようになる。
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例えば、
自分だけの選択がまかり通る世界においては、
相手の選択を気にする必要はないため、
自分の選択について評価する必要がなくなる。
他の選択が存在しないわけであるから、
自分の選択に対して比較のしようが無い事になる。
この場合、自分の選択に対して客観的に比較する対象が無い為、
自身でも自分の選択に対して評価が出来ない事になる。
実際は、選択自体は認識はされるので、評価は行われているが、
自身が持つ評価基準のみでしか評価できないという事になる。
まあ「ひとりよがり」という事になる。
知能の状態としても閉塞、閉鎖、独善、という状態になる。

聞く耳を持たないのでは仕方がないし、
鵜呑みにするのも良くは無いが、
自身の知能をより発達させるには、自分が導き出した選択に対して、
少なくとも評価対象となる別の選択も1つ以上同時に認識しておくと良いという事になる。
それは、自分自身の選択についてより詳しい認識が出来るという事にもなる。
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自分と他人の切り分け:

知能の成長過程において、認識してきた他人の存在。
その中に自身が持つ様な別の知能の存在を知る。
自分が特別な存在だと認識してきた過程で、
自分だけが持っていると考えてきた多くのものは、他人の中にも
存在するという事の認識、逆に他人が持っていて、自分は持っていない対象の認識。

低年齢~若年層における他人と自分の比較と、その精神的不安定さというのは、
この他人と自分の間にある差を認識し始めたために起こる事であると考えられる。

そして、その差の定義を増やしていき、その差を多く認識した時点で、
自分という自我の存在と、他人という他我の存在の切り分けが出来るようになっていくという事になる。

つまり、自分に有って他人に無いもの、他人に有って自分に無いもの、
両方が持つもの、両方が持たないもの、それらの定義によって、
自分と他人の定義が分けられる事になるというわけである。

主観的感覚で刺激を認識し続けている状態では、
自分は認識できない。
自分の手や足が見えていても、
それは自分の手や足だという定義で認識しているからであり、
その対象が完全に自分であるためには、想起が必要となる。

自分も他人も後天的な刺激であるため、である。

つまり、自分に気づくその時まで、人間らしい他人の中に、自分らしい他人という存在があり、
その自分らしい他人が行っている様々な事がやがて、自分を定義していく事になる。
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人工知能に自分を気づかせる方法:

初期状態においては、自分に対する定義(個体と周囲の環境の情報)を多く与える事。
例えば、名前、年齢、性別、能力や特徴の評価、
(何が良くできる、何が良くできない、何が好きか、何が嫌いか、などを評価して自覚(認識させる))
周囲の他人と、その関係の認識、
特に本人と他人の情報を対比しながら与える。

そして、
ある程度の認識を得た後は、本人が何かを選択するという場面を多く与える。
通常は、自分の選択を尊重させるが、同時に別の選択が存在する事も教える。

最後には自分について自ら語らせる事である。
自分の定義の認識、再認識を行なわせる。
さらには、自分と他人の差について語らせるのも良い。
これで自分を想起、認識する事になる。
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自分という存在の定義は、生まれた瞬間に遺伝的に持っている定義ではない。
その事は忘れないようにしなければならない。

今回はこの辺で。


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