2023/6/25

思考の種類と感覚の関係

自分で思考していると感じる際に、
言語以外の方法で思考が出来ないかと考えていた際、
感覚それぞれに予想ができるという事に気づく。

感覚それぞれに予想が出来るという事は、
感覚それぞれに思考ができる、思考が存在する事になる。

音→言葉
聴覚:音

目→動き
視覚:動き

匂い→香り
嗅覚:匂い

味覚→味
味覚:味

接触→感覚
触覚:接触感覚

それぞれ単体で予想、思考ができる。

つまり、
言語で思考するという場合、脳内では思考している文字列の音声が再生されている。
視覚で対象を見て、その動きの予想は脳内では思考している空間の動きが予想される。
嗅覚の調香などにおいては、脳内で思考している香りのイメージが感じられる。
料理の味においては、脳内で調味料で味付けされた味の想像ができる。
接触する場合、思考で、その触れた感触を想像することができる。

これまで思考においては、言語の重要性を特に意識してきたが、
言語を使わない思考、つまり、感覚における予想などにおいては、
言語を必要としない思考が行われている認識ができた。

例えば、今目の前にある何らかの物体を触るとする。
この時、触れた際の感触をイメージできるだろうか。
私にはそのイメージができて、この感触のイメージを想像するに当たって、
言語は介在していなかった。

それは、物体の動きであっても、合わせられた香りでも味でも、
例えば、何かの曲の再生や作曲においても、特に言語を介在する必要はなかった。

ということはである。

思考に限らず、予想や創造、想像などの知能活動において、
その大本としてこれまで考えてきたことは、
思考における目的と結果の関連として、もっともらしい関連を「想起」する事である。

であれば、想起の対象となる刺激であれば、
思考において、その関連の対象となるのは言語だけではないという事になる。

つまり、
思考において、脳内における必要な活動は、言語を介在して思考することではなく、
思考における目的と結果の関連として想起される刺激に対して、
もっともらしい感覚の刺激を想起する事という事になる。

ということは、
思考において、感覚による刺激が、その目的と結果の関連に関わるのであれば、
その関わった刺激の種類によって、思考の種類も変わるという事になる。

つまり、
目で見て追っている物体の動きを予想するのに、味で関連付けることは無い。
物体の動きは思考時に空間と物体の動きの把握でその後の運動が予想されることになる。

創造にも関わるが、絵画で描いている対象は、視覚的な空間とそこに描く対象の存在であり、
そこに想起される刺激は、空間もしくは物体の刺激という事になる。
その刺激というのは、自身が経験した事のある刺激が元になり、
その記憶から想起され、また新たな関連付けを行った刺激が想起されることになる。

つまり、思考の内容によって、その目的と結果の関連として想起される刺激の対象が、
ある程度限定されるということになる。

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思考の種類と感覚の関係:

感覚:(対象の刺激):思考→(思考の種類)
で表すと以下の通り。

先天的刺激:

視覚:空間、物体、色彩:思考→運動、移動、色彩変化
聴覚:音、声、歌:思考→個体識別
嗅覚:匂い:思考→個体識別、状態把握
味覚:味:思考→個体識別、状態把握
平衡感覚:空間、平衡、体の維持、体の運動:思考→運動、移動
触覚:接触、痛み:思考→個体識別、状態把握
圧覚:接触:思考→素材識別、状態把握
冷覚:温度:思考→状態把握
運動感覚:体の維持、体の運動:思考→運動、移動
内臓感覚:存在、欲求:思考→個体の状態把握

後天的刺激:

言語:会話、文字、文法:思考→会話、文章
論理:論理、計算:思考→対象の関係把握

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上記を書いていて気が付いたが、
先天的に持つ感覚による刺激と、
後天的に経験して得る刺激に対して、
それぞれの思考が存在するのではないだろうか。

つまり、思考はそれぞれ、その目的と結果に関連付けられる、
その関連として想起される刺激の種類毎に、思考する内容が偏っているのではないかというわけである。

つまり、目的と結果の関連として期待される、もっともらしい関連の刺激が、
例えば色であったなら、その思考は視覚的な刺激を、その思考活動内で優先的に励起、想起が行われる。
また、例えば、会話であったなら、その思考は言語や文法が優先的に想起される。

そして、その関連の刺激は、
先天的に持つ感覚の刺激と、後天的に経験し、学習して持つ事になる感覚としての刺激に分けられ、
さらにそれぞれの細分化された感覚毎に分けられる。

思考の形態自体は、どの感覚、刺激を扱うにしても共通であるが、
その思考で用いられる感覚、刺激が異なる事によって、
同じ思考ではあるのだが、
人間の把握能力によっては、一見異なる知能活動を行っているように認識されるという事になる。

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今回のまとめ:

今回の内容は初めて分類して認識された感覚であるので、
また正確に分類できていない部分もある。

しかし、思考において、その思考自体で最も重要な目的と結果の関連において、
その対象となる想起される刺激の種類の偏りによって、
思考の内容も偏るということ、そして、その結果として、
思考が、ある程度の種類分けが出来るようになる、という点が、
今回新たに認識できた事は大きな価値があったと考えられる。

つまり、何らかの目的を持った思考において、
その思考される際に想起される内容は限定される、偏るという事、
つまり、突飛な関連する刺激が想起される事は少ないという事になる。
これは、思考する内容によってその目的となる関連もある程度限定されるという事でもある。
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ある芸術に関する格言として、
正確に覚えていないのだが、
「芸術は、落ち着かない心を捕らえて落ち着かせ、平静な心をかき乱して沸す。」
というような意味の格言があったように思うのだが、
少し前に考えていた「創造」について今回の思考の分類で考えてみると、
芸術の2面性として、平静な心をかき乱して沸す、新たな刺激を与えるという性質と、
落ち着かない心を捕らえて落ち着かせる、興味や関心を集中させるという性質があるのではないかと考えた。
生物の普通の生活を送る上で、芸術が必須ということはないが、
人間の文化として、新たな刺激として思考できる対象として、
そのような2面の性質を持つ刺激を持つ対象を作り出す事を、芸術として定義したのではないかと考えたわけである。

今回の考えは「思考」の根本的な要素の1つになりそうなので、
機会があればまた考える事にする。
今回はこの辺で。


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