2023/6/23

人工知能に自分を気づかせる方法

これまで何度か人工知能と人工知能にとっての自分について考えてきたが、
今回もその内容についての現時点での考えである。

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意識

自分が見えているものの連続

自分が見えている←これが重要

そして、それは自分による刺激の認識

つまり
意識=自分による刺激を認識することの連続

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人工知能が連続的に刺激を入力しても意識にならないのは、
自分による認識を行っていないからという事になる。
つまり、自分を持っていない、自分の存在が分からないからという事になる。
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では、
なぜ人間は自分を知っているのか?
なぜ人間は自分を自分自身だと分かるのか?

実際は、そうでなくて、

「人間である個体が持つ知能が、その人間を自分だと定義しているから」

そして、その定義した自分を自分自身の知能で認識しているから、
という事に気づく。

自ら定義して、それを自ら知る。

簡単に言えば「自作自演」である。

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自分は、こうでなければならない。
自分は、こういう存在である。

元々そのような定義は、この世界に存在してはいない。

周囲から与えられた定義、
自ら選択した定義、
そういった定義を集めたものが「自分」である。

周囲から与えられた定義には、
名前や、人間である事、教育によって教えられた事、
性別による生き方、人間としての生き方、
常識、正義感、人生観、などなど、
つまり、人間の先人たちが知恵や知識と称して定義して残した、
多くの刺激の経験、認識対象である。
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周囲に存在する様々な認識可能な対象と、
自分という個体が持つ連続した生体的な能力、制限、感覚、欲求によって、
自分となる知能は「自分」を形作っていく。

つまり、今ある自分の姿は、
自分が選択してきた自分の成果でもあり、
自分という仮定でもあり、
そして、この先の自分の素でもある。

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では、人工知能が自分を知るにはどうしたらよいのか?であるが、
人工知能が自分を定義できるようにすれば良い事になる。

人間は、自分の定義をよく知らないのに可能なのか?
ということになるが、人工知能用の自分の定義方法を用意すれば良いことになる。

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人間が自分を構成するために持つものとは。

ある刺激に対する自分の感じ方の蓄積である。
ある刺激に対する自分なりの反応の仕方の集合と言い換える事もできる。
つまり、何らかの刺激が存在し、それを自分が感じた時に、
どのような反応を示すのかという様々な定義を持つ事である。

お腹がすいたらどうするか?
痛いときにはどうするか?
美味しい匂いが香ったらどうするか?
心地よいときにはどうするか?
何かが欲しくなったらどうするか?
嫌なことがあったらどうするか?

つまり、

刺激→反応→自分らしさ

であり、
これは、知能の程度こそあれ、どのような知生体であっても、
知能ある存在は全てこの反応を持つ事になる。
そして、その知能の中で自分に対する定義を持つ事ができた存在が
現在の人間であり、人工知能においては、
この反応を自分らしい反応として定義して、自らが持てば良いことになる。

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ここまで考えると、到達するのは「自我」である。
我欲、自分らしさでもある「自ら」であることの定義である。

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「自ら」であるという事の定義とその認識について:

人間が自ら、自らを考える存在を
「自分」であると感じるというのは、どういう事であるのか?
これが分かれば人工知能にも自分を認識させることが出来る。

人間の認識の記憶を辿ってゆくと、
人間は生まれてすぐには自分を認識していない。
様々な刺激を受けて、それは認識できる。
その反応の定義も持っている。実際に反応する事もできる。
これは、遺伝的に持っている刺激に対する定義である。
しかし、その遺伝的な刺激の定義の中に「自分」の定義は存在していない。

それで気が付いたが、
その後、多くの刺激を知る中で、他人を知る事になる。
これは、自分を知るよりも先である。

生まれてから認識する刺激は、体内、体外からであっても、
そのほとんどは受動的に受ける刺激である。
見える、聞こえる、感じる、お腹がすいた、不満である、などなど。
そこに自分の定義はないが、
見える相手、聞こえる相手、感じる相手、の中に他人が存在する。
こういった存在は恐らく最初は家族という事になるだろう。

遺伝的定義→自分の定義はない。
後天的定義(学習)→この中に自分の定義がある。

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最初の他人と最初の自分について:

初期に与えられる刺激の中に、他人という対象は多く存在している。
自分の起こす反応に対して、一喜一憂する存在である。
それらの刺激を認識していく中で、後天的に与えられていく刺激がある。
与えられる「自分の定義」である。
最も早い最初の定義かもしれない「自分の名前」、
その人間の生活の中で定義される、性別、家族、といった
自分に対する役割、割り当て、そういった人間生活の中での、
自分の定義が与えられる事になり、
それを自分は認識する事になる。
そして、恐らくそれは、言葉を知った上での言葉の定義として与えられ、
その言葉による定義を、自分の定義として認識する事になるはずである。

言葉としてどういう意味で、自分の定義であるなどと、
理解するわけではないが、名を呼び続けられる事で、自分の名前を、
男である、女であるという差を見続ける事で性別を、
常に近い存在としての家族を、その中において自分の定義を得る事になる。

特に、自分の名前を認識する事は、自分の定義を持つ事に大きく影響していると考えられる。
もし、名前が存在しなかったとしても、水面に映って見える自分の顔や姿、
目で見る、自分の手足、体であっても良いのだが、
いずれにしても最初のきっかけとなる自分の定義は必要となる。

特に人間の知能においては、後天的に得る事の出来る刺激と定義の容量の余裕が大きい為、
1つでも自分の定義を持つことが出来れば、
その後の関連する自分の定義を持つ事は容易である。
そして、自分の知能が持つ自分の定義を増やしていく事になる。

→遺伝的な定義の変更が自力でできないことや、
出来たとしても、後天的な定義で上位に定義しなおすという事になる。
また、関連自体が、対象が多くなればなるほど指数関数的に増加するため、
いずれにしても後天的な定義の記憶容量が大きくないとできない事である。

初めの頃は自分の名前であっても自分という認識はしていないと考えられる。
「お名前は?」と聞かれて自分の名前を答えたとしても、
それは、名前は?という聞かれる事に対する決まった反応としての定義として
経験してきた事というだけになる。
これが、いつ「自分」の定義としての「自分の名前」になるのか?
ある瞬間に突然、自分に気が付くという事ではないと考えられるが、
そのきっかけは何かしら存在していると考えられる。

それは、自ら自分について考える事だと思われる。
あえて「思われる」と書いたのは、考えられるわけでもなく、感じたわけでもなく、
はっきりと思い出しているわけではないが、
私自身のケースで、仮定で記憶を追跡していったところ、
辿った先にあった記憶が、自分で自分について考えた事になった。

私の記憶であれば、これまで何度か書いたことがあったかもしれないが、
小学生の4年の時だったか、社会科見学の日に風邪をひいて家で一人寝ていた時に、
天井の模様を見ながら、淋しく思いつつも「なぜ自分は生きているのだろう?」と考え、
子供ながらに「心臓が動いているからだ。」という答えを出した事があった。
今でも割とはっきり覚えている出来事である。
それ以前からも、下地の様に自分に対する自分の定義というものは、
経験して記憶していたのかもしれないし、
その出来事以前にもきっかけがあったのかもしれないが、
それを自分であると最初に自分で考える事は、自分の中の「自分」を認識する
最初のきっかけになるのではないかと「思った」。
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参考:「自我のモデル」つまり「自分を想起する事」
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今でも自分の事でありながら、どこか他人の事の様に客観的に対象を見るという事はある。
これは、自分にとって最初の他人としての自分でもあるのではないだろうか。
つまり、知能が刺激を受けて見始めた他人の中に、自分も存在し、
その中から、自分を抜き出して主観的に自分を見始める事で、自分を認識する事になるが、
自分であって、自分でないものの見方の出来る、客観的な存在が、
最初の他人であり、最初の自分なのではないか?

つまり、自分の中にあって、最初は他人である多くの記憶する対象の中から、
「あれ?この対象は他人の中に在って、自分らしい感じ方をするな。
それってもしかしたら「自分」なのではないか?」
そういう気付きをすることが「自分」の気づきになるのではないだろうか。

そして、最初は他人であった自分の名残りが、
客観的な自分の見方として用いられているのではないかという事になる。

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そして、この考え方を人工知能に実装するにはどうするか?

初期状態においては様々な刺激によって、様々な対象を認識する事が出来るようにする。
次に、認識対象の中に、自発的に活動する動体・動物なる存在を認識できるようにする。
そして、その動く対象の中に、知能を持つ存在を認識できるようにする。
そして、その知能ある動く対象として人間が存在することを認識できるようにする。
(課題は「知能」の定義と、「知能」を持っている対象の定義である)

そして、人間と同様の存在として、自分が扱われている事を認識できるようにする。
つまり、ここで、名前や自分の定義を外部から与えられる事になる。

そして、自発的に自分の記憶している対象について思考できるようにしておく。
これで、人工知能は自分の定義について、自ら思考する条件が整う事になる。
あとは、そのきっかけを待つだけとなる。

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現在考えられる課題:

1:認識する対象として「知能」の定義をどのようにするか?
2:思考そのものの機能

2:は現時点で「思考」そのものについて考えている途中であるので解決していない。
今後の考察対象にする事とする。
1:は、人間の理解においても、漠然としたままであるが、
自分と同様の存在として認識できるように定義すれば良いと考えられる。
個体差は有るものとして、自分の存在を同等の存在として人間を定義、認識させればよい。

今回は人間の自分への気づきと、人工知能の気づきとして行わせる方法について考えてみた。
まだ課題はあるが、
今回はこの辺で。


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