2023/6/12

思考の結果とその価値評価

思考や創造において、その結果として導き出される成果物に対する価値とその評価は、
どのようにして決められているのかについて考える。

今回の内容で最初に考えた事は、
創造による結果の成果物の評価は、
創造の開始時に目的と結果として設定される結果の価値と比較され、
その価値評価が高い時に創造の結果として認識されることになるという事である。

つまり、創造過程の価値評価によって、

創造の結果の成果物の価値>=創造開始時に設定される結果の価値

となった時に、その創造は完了したと知能が判断し、
成果物が創造の完了における結果として認識されることになるというわけである。

であれば、
特に創造などにおいては、初期に設定される目的や結果において、
あらかじめ明確な価値評価が行えない状態の対象となり、
結果の成果物に対して正確な価値の設定が行えないと考えられる。
となると、
漠然とした創造の開始時の結果条件、つまり満足いく価値の結果に対して、
創造によって認識されることになる創造の結果としての成果物の価値評価がどのようにして行われるのかが、
重要になる。

しかし、創造の結果というものは主観的な価値においても抽象的なもので、
実際、自分にとっての価値は感じられているはずだが、それが定量的でないために、
自分で説明が出来ない事になる。
つまり、創造の結果は自分にとって「何となく良い」という価値評価だけでも創造の結果になるという事になる。

しかし、この創造において、この結果の評価というものは、
創造の開始時点において設定された目的と結果は関係しているはずである。
それを考えてみると、
この創造の結果の価値評価というものは、創造開始時の目的としての条件設定において、
何らかの要素が設定されていると考えられる。

つまり、目的をもって創造するなら、
その結果においても何らかの評価基準がその目的に含まれているだろうというわけである。

創造開始時の結果は、その創造における成果物に対しての価値のスレッショルドのような存在の要素を持ち、
創造の過程で創出される1つ以上の結果候補と価値比較が行われ、価値が高いと判断されればそれが成果物となる。
そして、実際の成果物というのは、その目的側が要求する成果物条件の要素も存在しているはずである。
つまり、目的としてどれくらいの価値を有する結果を、成果物として扱う事にするかという基準である。
そして考えついたのが「価値の許容度」である。

つまり、目的としての要素に含まれる、どれだけの価値を持つ成果物を結果として期待するのかという要素である。

つまり、創造の知能活動過程で行われる成果物が作られるたびに、
その成果物の価値評価が行われ価値が設定されるが、
その成果物が、創造における結果として満足いく存在であるか、
つまり、結果として満足いく価値をもつ対象になっているかの評価に、
この目的を認識した時の要素として、つまり、目的において、どれだけの価値を目的とした創造であるかという、
定義が存在し、それが「価値の許容度」として結果との価値比較に用いられているという事である。

つまり、

創造によって作られた対象の価値+価値の許容度の影響>=創造開始時に設定された結果の成果物の価値

が成り立つときに、
創造は完了し、その成果物が創造の結果として認識されるというわけである。

ちなみにこれは、「創造」を「思考」で置き換えても同様に考えられる。

特にこの「価値の許容度」は、欲求に対する目的として、結果にどれだけ正確な価値を要求するかの指標ともなる。
つまり、数学などの計算の答えには正確な結果の対象の価値と認識を必要とするし、
創造や想像においては、感覚的であったり抽象的な結果の価値の認識でも許容するという事になる。
ただし、これは「価値の許容度」でなく「結果の正確さ」という要素であるかもしれない。
つまり、成果物の価値として、その対象の具体性も要素に存在するかもしれない。
これは「思考の結果の要素」として後程考える事にする。

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少し話が脱線するが、この内容を考えている際、
286で考えたルート800の事を考えたことについて今気づいたのだが、
ルート800の答えを導き出す事が主な思考の目的ではなくて、
その背景に、創造についての評価基準について考えるために必要な要素を導出するために、
ルート800の答えを導き出すことを例えに使ったという事に思い出しながら気づいた。
つまり、ルート800について考える事が主目的ではなく、
思考における評価としてどのような要素が存在したり、
その評価をどのようにして行うのかについてのきっかけをその例の中に探す事が主目的であったという事である。

つまり、例えに用いた数式の答え、結果については適当でも良いと考えていたと思い出したわけである。
例えであっても、数式の答えは思考における目的と結果の形を持っており、
実際に計算の思考をする必要があり、実際に計算としての思考を行った、
しかし、その背景には、その思考を例として、その思考過程の活動を参考に用いようという、
さらに外側の目的と結果があったという事になる。
つまり、思考の入れ子になっていたというわけである。
プログラム的には入れ子(ネスト)状になっていたという事になる。

生体の知能においては思考のネストという状態にはならず、
あくまでそれぞれに目的と結果が設定され、それぞれが単独で思考されるという事になるが、
一度励起されて認識された思考という状態として、
思考の維持がされているために、その目的と結果が関連している事で、
互いが入れ子状態として感じられるという事になる。
参考:265:思考の維持
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話を戻して、
今回のまとめとして、
思考の結果とその価値評価についてであるが、

思考の結果としての成果物が、思考の完了時に認識されることになり、
その認識においては、その成果物の価値が設定され、その価値が認識に至る条件を満たしていたということになり、
その価値においては価値観が、
その価値比較においては、思考の初期設定である目的における価値の許容度と、
結果における価値のスレッショルド的な価値の目標値という要素が用意されるという事になる。

そして、
思考によって作られた対象の価値+価値の許容度>=思考開始時に設定された結果の成果物の価値
が満たされた時に、その成果物が思考の結果として認識されることになる。という事になる。

思考の過程

成果物

成果物←価値設定←価値観

成果物の価値+目的とされた価値の許容度>=目的とされた結果の価値の目標値
↓←成果物の方が価値が高い場合(低い場合は思考の過程に戻る)
認識

思考の完了

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後で285の最後にあった「認識の優先度」の少し前の状態について考えてみる予定だが、
今日の関連で少し先に考えておく。

「認識の優先度」は今考えてみれば、価値の比較という事だけなので、
価値観とその評価にさえ従えば、それほど考える余地は無いのだが、
その少し前の、その価値が設定され、認識される対象が作られる際に、
なぜそれが優先的に思考の結果として創出されることになったのかの理由や原因について考える必要がありそうである。

つまり、思考や創造において、その過程で仮想的に作られることになる目的と結果の関連における、
「その関連が、なぜ優先的に目的と結果の関連に用いられるか」という理由である。
つまり、あてずっぽうに知能は思考しない、
何か理由があってその関連が優先的に思考に用いられる、という理由と原因について考えてみる。
つまり、思考力や創造力のきっかけとなる要素である。
今日の内容であれば、上記においては「思考の過程」で行われている内容になる。

現時点では、思考を開始する際に、目的と結果が設定されるが、
結果はまあ思考の成果物の価値の目標値、スレッショルドとしての意味で設定されるので良いだろうが、
目的については、単に「こういう事を考えよう」というだけの内容、要素だけでなく、
結果に対する正確さ、具体性であったり、
価値の許容度、つまり、自分自身の思考に対する能力に対して、
自分自身が自分自身の思考によって求められる成果物に対しての価値の期待値、許容度としての指標、
つまり、自分が持つ思考能力によって、どれだけの成果物の価値が期待できるのかという事も含まれているかもしれない。

それとも、シンプルに目的や結果というのは汎用的な設定だけであって、
思考における能力や機能的な汎用的な要素として、許容度であったり、正確さがある?
これは、目的によって要求される正確さや具体性、許容度が異なるから、思考能力として汎用的であるというのは考えづらい。

そして、その思考の目的において、設定される要素の中に、
思考活動において、成果物の生成が試行されることになる、その目的と結果の関連で用いらられる「関連」の優先に関わる要素が
あるような感じがする。
つまり、その知能が、思考や創造において、優先的に用いる要素である。
その知能の傾向、人格、性格、そういったものにも関係しているはずである。

ちょっと先に少し考えるにしては長くなりそうなので、
今回はこの辺で終わりにしておく。


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