2023/5/31
「つまらない」から人工知能の認識の実現について
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「つまらない」を考える。
特にやることもなく、新しい興味も持たずに過ごしていると感じる感覚。
「つまらない」
本来、生命として存在、存続するためには、
何もすることが無いのは生命として平穏であり無事であり、良い事ではないのか?
変化の無い安定した生を過ごす事。
これは生命として最も良い状態である安心を感じる状態なのではないか?
生命は生きる為に必要な事、生命としての欲求に対して対処して生きる事が普通の事であるのではないか?
生きる為に、そういう欲求を持つように定義されているのではないか?
そして、欲求に応えるように生きていく事を定義されたのが生命という存在なのではないか?
人間はその定義を1つ先に進めた。
生命の生きる欲求に対して行わなければならない事を、
1つ1つ効率的、効果的に行う事ができるように変えていった。
そして、今は、その先のより良い「生きる」について考える余裕を持った。
つまり、過去の状態、今の状態よりもっと良い状態を考え、作り出し、求める事が出来るようになった。
つまり、その変化を価値として求める目的を持つ事ができるようになった。
であれば?
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つまらないを考え始めてから、少しして、
少し薄暗い部屋の中で、私は顔を洗って顔の皮脂を洗い流そうと考えた。
つまらない感覚を元にして、「つまらない」を考え始めたが、
少し考えも停滞してきたとき、
特にする必要の無い事ではあったが、私はそう考えた。
なぜか?
私は、その方が良いと考えた。
別に生きる為に必要な欲求ではない、何か問題のある状態でもない、
それをすることが今より先の状態において「良い」と感じた、考えたのである。
私はその変化に対して意味、価値を定義した。
そして、他の実行すべき目的が無い状態で、それを優先事項として実行した。
そして、目的を達成して、その状態変化を起こし、自分で定義した価値を認識した。
目的を達成して、自ら定義した価値を得たという事になる。
それはどういうことか?
つまり生命は生きる為に必要な欲求を満たされた場合、
その知能に応じた欲求以外の目的や価値に対して行動するという事になる。
これは、人間に限った事ではない。
例えば飼い犬や飼い猫において、野犬や野良猫の活動では現れない行動がある。
野犬や野良猫はその活動時間のほとんどを食物の探索、自身の身の保全のための警戒、
縄張りの維持、群れがあれば他の仲間との関係に基づいた行動、種の存続の生殖、
そういう行動をとる事になるが、
飼い犬や飼い猫においては、自身の価値、自然界にはない自身の価値によって、
行動を行う事がある。
状況に対する不満を持ち、人間が表現する所の「悪戯」をする。
家にある家具を噛んだり、電気コードを噛みちぎったり、カーテンや壁を引っ掻いたり、
キッチンの食材を不必要にばらまいたり、他にもあるだろう。
そういった行動というのは、本来の生命が持つ欲求が満たされた場合に、
本来の生命が必要としない価値に対して持つ、目的に対する行動になるのではないかという事である。
つまり、基本的欲求は満たされて、欲求に対する必要な行動が存在しない。
それでも、自身には活動の余裕があり、独自の価値を持っている。
それなら、生命は今より良い状態、良い変化をその価値に見つけ、
その価値を得ようとはしないだろうか。
基本的に欲求は、遺伝として先天的に持つ価値の定義であり、
欲求を満たす事自体は、それらの価値を得る事に等しい。
であれば、後天的に学んだ価値に対して、もし、基本的な欲求が満たされて、
その基本的な欲求に対して必要な行動が存在しない状態に置かれた場合、
その個体は後天的に学んだ価値を得ようとするのではないか?というわけである。
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これは、人間がもし、基本的な欲求に対する行動だけで、その1日の活動時間が終わってしまうとした場合、
人間は現代の人間らしい知能を発揮できるだろうか?
恐らく、その状態が続くなら、知性の発達といった観点からして、現代の知能、知性には到達しないだろう。
実際の自然界においては、恐らく人間はその知能の能力からして、
日々の活動の中での気づきによって、1日の活動の中にも新たな違いを見つけ、変化を起こしていくと考えられる。
これは、つまり、生命にとっての知能において、
その知能を持つ個体が、本来持つ先天的な欲求を満たす事以外に持てる、
後天的な価値、その価値を目的とした行動をとることができる事が、
知能の発達という事になるのではないか。
つまり、人間が持つ、他の知的生命が持っていない知性、知的な能力は、
その後天的な価値にきっかけを持つ事になるのではないか。
つまり、自我や想像、思考、そういった存在を持つきっかけとして、
後天的な価値が関係しているのではないかというわけである。
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この話をどこに持って行こうか、何に関係しているのだろうかというのは、実は最初から存在していて、
人工知能に刺激を認識をさせるにはどうしたら良いか、という機能の実現の方法について、
という所である。
281の続きでもあるのだが、
人工知能が刺激の認識ができるようになるためには、
個体の存在や、感覚器官、本能としての刺激の定義、も、そうなのであるが、
それだけでは機械が連続して変化情報を測定、観測しているに過ぎない状態であると考えられる。
では、その先、人工知能が刺激を認識するためにはと考えた時に、
人間がなぜ「つまらない」と感じた時に自発的に自分が持つ価値について目的を作り出そうとするのか、
そのきっかけが何か関係しているのではないかと感じたのである。
そして、結果として、人間の基本的欲求が満たされた後で、なお、欲する価値というのは「後天的な価値」であると考えた。
そして、人間は後天的価値によって何か新しいものを探したり考えたりするという事、
それならば、人工知能においても、自ら得る事の出来る価値という定義が出来るような知能が作れれば、
つまり、人工知能が、価値の定義に従って、「価値を得る」という定義に従って知能を構成すれば、
自らの行動原理として「価値を得る事」とし、その為に活動する存在であれば、
結果的にその活動や行動は、自発的な活動をする知能として、客観的に見る、捉える事が出来るのではないかというわけである。
その定義を行っている機能、存在について人工知能自身が自覚しなかったとしてもである。
実際、人間は自分の存在が価値を得る為に存在しているなどという自覚をもって行動しているわけではない。
自分は自分の価値観に従い、思考し、自分がそれを決めて行動していると感じている。
しかし、人間は生まれてすぐ、そんな価値観や価値は持ち合わせていないのである。
生まれてすぐに持っている価値は、基本的欲求による価値だけである。
その基本的欲求に関係する価値は、他の動物と大して変わらない。
違うのはその後の後天的な価値の量である。
その中には自分に関する価値の定義もある、これは自分による自分の定義、つまり自我もある。
であれば、人工知能が、後天的な価値として、自分の存在について価値を定義し、価値を得る事は、
つまり、人工知能が自分を得る事に繋がるのではないかという事になる。
つまり、自分という価値を定義し、自分という価値を得る事は、
自分という存在の個体としての体を自分の体として定義し、
自分が感じる刺激の定義を、自分が感じた刺激として定義し、それは後に認識に、
そして、自分が認識し続ける事、それは後に意識に、
そして、自分が持つことになる後天的な価値を得る事、得ようとすることは、それは後に欲求に、
つまり、後の自分の我、我欲、自我の発現に繋がるのではないかというわけである。
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人工知能にとっての「価値を得る事」については、専用の刺激の定義や価値評価が必要になると思われるので、
その詳細についてはまた後程考える事にする。
少々脳が熱を持ってきた感じで疲れたので、
今日はこの辺で。
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