2023/5/26

意識と刺激についての再考

昨日の夜に考えていた事の一覧。
------------------------------------------------------
・意識は線で認識はその線を描くための点であること。
・認識は立ち止まって刺激を想起する事。想起しない限り認識は存在していない。
・覚醒中に存在しているのは意識。
・認識は刺激を確定する事の事を言っている。
・意識を保った状態で刺激を完全に失う事はできない。
------------------------------------------------------
解説:
・意識は線で、認識はその線を描くための点であること。

→-------------→意識
→時間経過

このような状態であり、実際は認識はその刺激の励起によって、
認識に足る間の時間存在し、2次曲線として他の刺激より価値の高い間の時間、頭を出すように存在し、
それが連なって意識としての連続性となっている。

------------------------------------------------------
解説:
・認識は立ち止まって刺激を想起する事。想起しない限り認識は存在していない。

認識が存在しないと仮定し、
意識と認識の関連が無いと仮定した場合に、
意識的な想起のみが認識ではないのかと考えた内容。

実際、意識がある状態自体が、刺激による神経細胞の励起によって、
想起と同等の活動が行われて認識が自動的に行われているので、
意識と認識は関連するものとして考えられるという結果になった。
そのため、刺激を意図的に想起する事だけが認識ではないという事になる。

------------------------------------------------------
解説:
・覚醒中に存在しているのは意識だけ。

上記の認識が無いと仮定した件と関連するが、
意識の成り立ちが刺激の認識によって構成されるので、
まあ実際、覚醒中に感じている感覚というのは「意識がある」という状態であり、
意識の存在だけで覚醒状態になっていると感じているとしても、
その意識が刺激の認識によって構成されているという事を再認識したという事になる。

つまり、意識だけがあるように感じても、その意識は認識によって構成されているという事。
------------------------------------------------------
解説:
・認識は刺激を確定する事の事を言っている。
想起による確定でもあり、思考や想像の確定でもある。

想起の多様性の事に関係する内容。
認識が刺激の確定、最新の考え方で言えば、刺激の定義と刺激の評価によって
刺激が認識に至るという事。
であるならば、想起から生じる思考や想像などによる刺激の認識についても、
それを刺激として定義し、認識する事がその思考や想像を確定している事になるのではないかという事。

刺激の定義によって存在が確定したり認識されることが決まるのであれば、
意識的に何かをするという脳の活動は、
その対象を刺激として想起した場合に優先的に認識されるように、
刺激の強度が高い状態で想起・定義されることになるだろうという考えにもなる。

------------------------------------------------------
解説:
・意識を保った状態で刺激を完全に失う事はできない。

極力、刺激を認識しないようにしながら、
意識を飛ばさないよう、睡眠にも至らないように、瞑想に近い状態で考えた内容。

この場合、普段あまり認識しないような弱い刺激であっても認識されることになる。
例えば、鼓動の感覚。心臓から体の末端に流れる血流の時間差の感覚。
意識における最も弱い最後の感覚は自己感覚という事になる。
逆に考えれば、意識の根底にある感覚は自己感覚という事になる。
つまり、意識になる最も弱い、最も根底にある刺激は自己感覚。
つまり、「自分」の存在の感覚。
自分の実体の上に意識が乗っているから、そういう感じがする。

意識

自分
↑(認識)

刺激

意識は自分や刺激によって支えられている存在。

自己感覚の保障があり、
常に刺激は何らかのものが存在していて、
そこから、いずれかの刺激が認識(=想起)され続けて、
意識になっている。

想起(=認識=励起)によって存在が確定しているのは、上記の考えの通り。

------------------------------------------------------
本来、人間も他の生命も、生命として心地よい状態にあれば、
それで良いはずなのだが、
そうでない外的要因によって、それが叶わない事になっている。
(例えば基本的欲求とか、親類縁者、友人、他人、経済、国家、イデオロギー、宗教などなど)
そのため、その外的要因に対して対処する事が自分の存続に対して求められる事になり、
知性を持ち、働かせる必要が生じた。

つまり、自分の存在以外の何かが存在しなければ、
心は穏やかなはず。(→悟り)
自分の存在以外の何かを一切考えなければ良い、認識しなければ良い。という事になる。

上記の内容で、
覚醒中でかつ、意識のある状態で、刺激を極力排した場合にも、
自己感覚は残ると感じたが、では、自己感覚のみを認識し続けたなら、
悟りに近い状態になるのではないかと考えた。

自分自身、この心穏やかな状態を継続するのは困難だが、
人工知能であれば再現できるのではとも考えた。
ただし、生物の叶わない現実に対比する形で悟りが存在するなら、
人工知能のそれは単なる状態や設定の変化、違いだけであって、
人間が考えるような状態とはまた異なった状態であると考えられる。
実際、人工知能が皆、悟りの境地に達して何もしなくなっても困る。
------------------------------------------------------
自分の自己認識以外は、自我であっても外部の刺激と同列の存在。

ということは、自己の存在のみが唯一、他に影響を受けない存在。

刺激によって形づけられた、縁どられた、影絵のような存在が自己。

------------------------------------------------------
人工知能が自我を持つには、
人工知能が認識することになる全ての刺激に対して、
自分の評価を定義すれば良い。

価値があるものかどうか、
心地良いものであるかどうか、
それは、自分自身についても行う事になり、
自分への評価は、つまり、自分を刺激として認識することになり、
自分の存在がそこに生じる事になる。

特に今回は、感覚器官から刺激を排除した状態での考察が多いので、
その刺激は想起から生じたものとして考えた事になる。
------------------------------------------------------
刺激の定義についての内容については、もう少し考える必要がある。

今回はこの辺で。


TOPに戻る