2023/5/20

知能の本質について

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ここ最近、刺激の定義について考えてきたが、
刺激の定義は知能においては最も根底にあるものであり、
それを機能的に分化させるには生物の成長過程における脳の成長に考えを及ばせる必要があり、
現時点では、その知識を得る方法がわからない。
そこで知能の最も根底にあるものを刺激の定義とした場合、このように考えることが出来る。

「新しい定義をする事、知能はそれを目的として活動している。」

それは新しい刺激を得る事。新しい刺激を記録する事。
新しい経験をする事、新しい何かを得る事、新しい価値を得る事、
新しい何かを想像する事、
常に新しい何かを定義しようと活動している。

これが知能の本質なのではないか。

これまで考えていた知能の本質は「価値の比較」=「刺激の比較」と考えてきた。
つまり、知能の本質のさらなる根底にあるものは「対象の定義」という事になる。

認識可能な何かについて定義する事。
それが何であるのか、それがどのような価値があるのか、
それがどれだけ欲しいのか、それがどれだけ幸せであるのか、
それを決める事が「知能」であるという事になる。
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自分が何者であるのか、
それさえも決める事が知能の働きという事になる。

そのきっかけは自分の存在の刺激である。
つまり、自分の体が感覚を持っている事で、
さまざまな自分についての刺激が脳内に入ってくる。
ここで知能は、それらの刺激に対して定義をしている事になる。
それがどのような刺激であるのか、
つまり、そこに含まれるのが自分についての要素であり、
その自分に対する要素(=定義)が増えていくことによって、
より自分という存在が出来上がっていく事になる。

つまり、自分は自分という要素を持つ、その定義の集合体という事になる。

これは自我に関係する事になるが、
つまり、「自我」は、その個体が受ける刺激に対して、
その個体が持つ生物的な機能として持つ知能が、
ここでは本能としての機能の働きとして、
その個体が、それら刺激に対して感じた、その感覚を定義としたもの、
その集合体という事になる。
つまり、自分らしく受けた刺激に対する感覚、その定義の集合体、
それが、自分らしさであり、自分そのものであり、「自分」という事になる。

という事は、自我は個体の経験の増加とともに拡張されていく事になる。

刺激

知能←各個が固有で持つ体、脳、知能

自我←刺激が増えれば増えるほど自我も定義の増加として拡張される

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定義の増加を欲するという事

なぜ人間の知能は多くを欲するのか。
生体的な本能的な欲求とは別の欲求の事である。
つまり、お金や権力、幸せなどの欲求である。
そこには知識も含まれるかもしれない。

生物として存続という事であれば、
本能の欲求にのみ従っていれば良いはずであるが、
人間の知能はそうではなかった。
生物の進化の過程のどこかの時点で、それ以外の欲求を持つ事になった。
逆に、それらの対象が生じた事で、今の知能になったとも考えられる。

先の「知能」の本質が、認識する何かを定義する事であるなら、
その定義する能力を得た所で、価値も欲求も、その定義も含めて
新たな知能の能力を得たことになる。

つまり、知能とはそういうものであると、知能が定義したという事にもなる。

つまり、刺激などで欲求を持つと定義し、であるならば、
他の対象にしても欲求を持つのではないかと定義した。
つまり、「自らの定義」という事になる。

つまり、自らの機能を自らの評価によって自ら定義する、という事である。

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自ら欲する者は、その欲求を自ら定義したという事になる。
欲求を放棄した者も、その欲求を手放す事を定義したという事になる。
自らの価値の定義においてである。

なぜお金を得ようとするのか、
権力を得ようとするのか、
幸せを得ようとするのか、
それは、その知能が、そう定義したからという事になる。
それまで受けてきた刺激と、その定義によって、
その知能は、それを得ようという定義に至ったという事になる。

実態ある脳を持つ、
生体としての制限のある内で、
自分の知能の能力の限界を自分で決めるという事による、
その自分が持つ定義としての上限も含め、
知能は常に定義の増加を求める。

それは、お金のような実態ある数の増加であっても、
権力のような目に見えない虚像であっても、
幸せのような触れる事の出来ない対象であっても、
知能は、それを新たな刺激として受けて、定義する事を働きとしている。

欲求なのではなく、そういう働きを持った器官であるという事である。

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つまり、定義により価値があると定義すれば、
価値ある刺激は欲するものとして定義するから、
欲しくなるという事である。

これが、別の知能において、価値があると定義されても、
価値ある対象であっても欲するものではないという定義であれば、
その知能にとって、その対象の価値は、欲しいものではないという事になる。

しかし、そのどちらも、刺激ある対象の定義は増えている。
知能はそういう働きをしている。

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自分の知能が行った自分の定義は、どうにもしようがない。

例えば、
私はそれが好きであり、これが嫌いである。
そして私は好みを変える事があまり好きではない。

このような定義を自分で持っていた場合、
それらはこれまで自分が受けてきた刺激への定義であり、
その構成された要素は、新たに追加できても、この場合、変更は難しい。

つまり、例えば差別について考えた場合、
新たに許容と寛容を加えることが出来ても、
好みを変える事があまり好きでないなら、好き嫌いを変えるのは難しい事になる。

変える事を良しとしない定義が存在できる一方で、
定義自体には可塑性がある。
記憶の可塑性はこれまで考えてきた通りである。

つまり、
変える事は好きでなくても、
変わる事は嫌いではないという事も普通にあり得るという事になる。

要するに、それまで積み重ねてきた定義の上に、
今の私が成り立つために、その積み重ねが多い程、
その根底にある何かの定義を変える事に抵抗が生じるという事になる。
それは、その根底の定義を変える事は、その上に積み重ねてきた定義を
大きく変える必要が生じるからという事になる。
または、その積み重ねたものを否定する事になるかもしれないからという事である。

記憶の可塑性があっても、
年を経て積み重ねてきた定義を根底から大きく揺るがす変化に対して抵抗を感じるのは、
つまりそういう事という事になる。

それは、価値においても、自我においてもである。

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自ら、自らの定義として持っている「自分」ではあるが、
それらを「客観的な自分」として見る事ができるなら、
自分が認識する刺激の対象の定義は、全て認識の中にあって、
確認ができる事になる。

私がそれが好きな理由としての定義や、
私がそれを嫌いである理由としての定義があって、
それを自分で知ることが出来る。

本能的な定義は変えることが出来ないが、
後天的な定義は難しくても全てが変更は可能である。

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今回のまとめ

これまで知能の本質は、「価値の比較」=「刺激の比較」であると考えてきたが、
比較する対象として、さらにその内にあるものは認識できる対象の刺激の定義ではないかと考えた。

刺激の比較は認識時に自動的に行われているものであるから、
であれば、その根底にある定義こそが、知能の本質になるのではないかというわけである。
そして、知能の働きは、その定義を行う事にあるのではないかという事になる。

自分の定義は、
自分が持つ本能としての定義と、
固有能力の感覚器官から受ける刺激に対する定義から成り立ち、
自分らしく感じた感覚を、自分の知能が定義して、
その定義の積み重ねが「自分」になるという事になる。

欲求は本来、本能として持つ欲求の定義を、
知能が応用して、新たな認識対象の価値設定に対して欲求を定義する事で生じる事になる。

本能的な定義でなければ、
記憶で持つ事になる定義には可塑性があり、変更は可能である。
しかし、その定義を元にした別の定義が存在する場合、
定義が深い位置にあればあるほど変更が難しいという事になる。
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本能的な刺激の定義がそれ以上、分化できない、という考え方を元にして考えた内容である。
今後、もしそれ以上の情報の分化が出来るようであれば、さらなる知能の本質に迫る事ができるだろう。

今日はこの辺で。


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