2023/4/27

事象の論理的認識

文字が使われる前は言語によって思考が行われたと考えているが、
それ以前に言語に表現される前の論理的な認識は、どのように行われるように
なったのか考えてみた。

そもそも文字や言語なしに論理的な認識は出来るのだろうか?

つまり、何らかの対象を認識する事は感覚があればできるので良いが、
その関係や関連について感覚だけで認識できるかどうか分かればいいという事になる。

たくさんで嬉しい、少なくて悲しい、という認識は出来る。
木の実1つ1つという認識や、木の実が大きい小さいも認識できる。

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人間の論理は、全て定義によって決まる。
前回の「=」「<」の関係もそうである。

言語を決めた人間がいる。
長老とか、権力者というような指導的役割の人物。
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吠えているだけでは互いの意思疎通ができない。
何か対象について、ある音を指定して定義しないとならない。
定義が先か、言語が先か考えていたが、
同時という事も考えられる。
各個において、刺激の認識として、大小や増減、という認識は出来る。

しかし、それはあくまで各個の認識であって、全体の論理ではない。
論理として互いに共有するには定義が必要になる。

つまり、最初に「多い」とか「少ない」とか「大きい」とか「小さい」を
言い始めた人間がいるという事になる。

有力者・権力者になるだろうが、その言葉を周囲の者は「まね」て使い始める。

皆が同じ音で発声しはじめれば、それは言葉として論理的な認識を共有することになる。

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最初に言葉を定義した者は、どのように論理を認識したのか?

知能が刺激の比較から出来ていると考えているが、
であるなら、感覚による対象の認識ができるなら、知能を持つなら、
2つの対象を刺激として比較もできるという事にならないか?

つまり、「比較という想起」である。

感覚の認識において、比較も刺激として認識は出来る。
つまり、大きいとか小さいとかいう見た目などの認識において、感じる事の出来る
感覚としてである。
つまり、大きいから好ましい、小さいから好ましくないなどである。

感覚として好ましい、好ましくないだけなら、他の動物にも
同じような認識は出来る。匂いとか、主観的な認識としてである。

これが人間の知能においては想起として、比較の認識が出来るかという事になる。

いや、人間以外にも知能的である動物もいるから、
比較自体は人間以外でもできる。
比較ができるという事は、価値評価もできるという事になる。
ここから一歩先に進むには、この比較する事自体を想起して、
認識できるかという事になる。

人間以外の動物は、その状態を見たりして認識し、その場で比較する事は出来る。
しかし、人間は、「比較する事」がどのような事であるのかを想起して認識することが出来る。

ここに戻ってきた「言葉」である。
言葉の定義によって想起対象になる。

人間以外にも音声で互いの認識を共有する動物はいる。
しかし、この音声は、その情報量が圧倒的に少ないのと、
その定義を行う存在が居ない。

コミュニティ上で音声の意味を定義する者の存在と、
その定義によって人間が他の動物ではできなかった、
対象の認識が出来たという事になる。

つまり、人間の発声の仕組みとしての汎用性が、
様々な声、音の「発生」に有利であって、
その事により声としての「発声」において、言葉としての情報量の増加につながった。

そして、コミュニティにおいて、人間の有力者が、
初期においては、その個人の認識であったであろう価値の比較の認識が、
言葉として定義され、互いに共有されることによって、その比較が、
比較という意味で、各個に認識され、それぞれの
共有された想起の対象になり得たという事になる。

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文字や言葉なしに思考が出来ないと考えた事があったが、
つまり、論理的思考というのは、論理的認識の想起によって行われるという事になる。

つまり、論理的認識の想起によって、その比較や対象のテンプレートが再構成され、
その各対象として関連付けられる刺激の対象が、
その論理的な判断、比較の対象となるというわけである。

その結果、思考としての論理的比較の結果が、思考における目的と結果の「結果」として認識される。
これで思考が行われたと認識される。


つまり、事象の論理的認識というものは、
感覚として認識される刺激の比較が元になっている。
単なる比較だけであれば、人間でも他の動物でも行う事は出来るが、
論理的であるには、定義が必要になる。

つまり、各個が本能で持っている比較の基準などではなく、
コミュニティなどにおいて、互いに共有ができる対象としての
想起できる刺激としての、対象としての定義である。

そして、それにはこの論理的比較の刺激の定義が必要であり、
共有において定義する者の存在と、共有することになる言葉が必要となる。

共有であるという事は、各個が持つ主観的な認識ではなく、
仮想的である、つまり、想起する対象としての「論理」的刺激の認識として、
各個の知能が扱うことが出来るという事になる。
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少し分かりづらいが、
初期においては共有される事は考えられていないかもしれないが、
結果的に論理が定義されたことにより、
その論理的比較の認識が共有されることになり、
共有後は、その共有されている事を前提とした論理的比較が、
その定義された「言葉」によって互いに認識され、
何らかの対象に対してこの論理が働く場合には、
個体に関わらない、共通した論理が機能するという事になる。

そして、それは論理と対象、いずれにも共有された定義の認識となる事になる。

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個人的意見であるが、もし、人間自身が、人間社会に新しい論理を今後も作ることができるなら、
それは人間の知能や思考のさらなる発展になると考えることが出来る。
そして、それができるということは、今後の人間においても人工知能においても、
どれだけ知能が発展できるかの余地があるかどうか、という事になると考えられる。

また、人間の認識の曖昧さと許容の幅により、
各個の認識が常に、共有され定義された通りの論理でない場合があるのは考慮しておく必要がある。

今回はこの辺で。


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