2023/4/20

覚醒後の認識

今日、目が覚めた時に瞬時に思ったことは、
今この瞬間、自分は何を知っているかどうか、ということだった。
何が分かっているか、何を認識しているか、と言い換えても良い。

実際、目が覚めた瞬間に分かっていることは何も無かった。
目を開けて部屋の様子を見て、
今自分が居るのは自分の部屋だということが分かった。
そして次に思ったことは、時間について。
もし、今ドッキリ企画で、自分が寝ている間に別の場所に移されて、
もし目が覚めた時に周辺がまだ暗かったら、
自分はその目が覚めた瞬間に今がまだ夜だと思うだろう、ということだった。
そして、もし、疲れの採れ具合などの体の感覚で、睡眠が十分であると感じたら、
今何時であろうか時計を確認するだろうという事を考えた。

そこから考えたのは、
睡眠から後の覚醒時において、今日が昨日の次の日であるという認識は、
睡眠を挟んだ覚醒時の続きという認識が行われているのではないかという事。

つまり、夜の睡眠でなく、昼寝や仮眠という短時間の睡眠であったとしても、
その睡眠前の覚醒時に行われていた認識は、意識として続いているわけであるが、
睡眠によって一度中断することになる。

夢を見た場合は、さらに意識は夢の中の自分の意識として存在する事になるが、
これは想起によるものであるので、体験しているというより思い出している事に対する認識や意識となるので、
現実の続きという認識にはならないはずである。

そして、睡眠から覚醒した時に、現実の刺激を認識した際に、
今は睡眠の後の覚醒であり、睡眠前の覚醒状態の続きであるという認識が行われるのではないかというわけである。

つまり、その続きであるという認識によって、
昨日の続きである今日という認識が行われるのではないかと考えた。

だから、昨日が19日であって、今日が20日であるという認識は自然に行われることになる。

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目が覚めた後に、周囲や自分の状態の刺激を認識する事で、
昨日までの自分の状態を思い出しているという事になる。
そして、その続きとしての自分の活動を再開することになる。

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昨日の夜、考察の項目が増えて、内容がやや重複する部分が出てきたため、
そろそろ知能の各要素について、一度少し内容を整理してまとめようと考えた事を今思い出した。

これは、自分の知能が、昨日存在していた目的を思い出したということになる。
この目的は今日実行するつもりではないが、記憶していた目的を思い出すということは、
目的は実行前であるということを含め、記憶されていたことになる。

人間が目が覚めて普通に昨日の続きとして行動ができるのは、
考えてみると意外にすごい事である。

PCのスリープ状態の復帰にも似ているが、これはまあ意識や認識などが存在しないので単に状態の復帰というだけである。
人間以外の生物においては、昨日からの続きの目的を継続するような事はあまり多くない。
巣作りや育児などは長期に渡って行う事もあるが、
これは、単純に本能や、今この瞬間の感覚や認識に対して選択・行動しているだけである。
今日は休んで明日続きを行うとか、別の仕事を片付けてから続きを行うという事はないだろう。
縄張り内を巡回したり、餌場に毎日通うという習慣のような行動もあるが、
これは行動の習慣として学習の結果であり、一応目的として考える事もできるが、
別に昨日の続きとして行っているという認識は無いであろう。
特に、人間以外の動物が知能から想起された目的に対して継続して行うというような目的は、
考えただけでも思い当たる行動を見た記憶がない。

その点で人間の知能は、自分の習慣や目的を思い出して、
その以前の状態の続きを目的として実行する事がある。
やり残していた仕事の続きをする、場合によっては何年も前の仕事の続きを再開するというような事もある。

つまり何が言いたいかというと、
他の動物のように本能や習慣によって決められたとおりに行動するのではなく、
人間はその目的の行動を計画的に、つまり、その行動の順番を決める事が出来るという事である。

つまり、人間は、行動の目的となる価値評価を自分で操作できるという事である。
人間以外の生物は、その環境や状態に不都合があれば、残って自滅するか、他へ移動するかしか選択しない。
しかし、人間はその環境や状態に不都合があっても、
その変化を意図的に起こして不都合を解消する事が出来るという事である。

これは思考の働く分野であり、客観的な視点を持つ事が出来るという事でもある。
主観的な刺激の認識しかできない生物においては、
今存在する刺激にのみしか対応ができないが、
人間の客観的な視点というのは、思考や想像などによって、その先、
変化の先などの状態を作り出して認識する事が出来る事になる。

つまり、主観的な自分を持ちながら、客観的な自分も持ちうるというわけである。

本来生命は、知能を持った段階においても、主観的な自分さえ持てば十分であった。
環境や自身の状態の変化は刺激として自分が認識してそれに対処できれば良いのである。

客観的な自分は、自分のあるべき姿としての自分として、その環境や自身の状態の変化の刺激を、
その客観的な自分として認識して対処するという事になる。

これは、自分が気に入らないから実行しない、自分が嫌だからいらない、ではなくて、
自分らしくあるために嫌でも実行する、自分が気に入らなくても何とかする、という考えを持つという事である。
その認識ができると考えても良い。

それによって後に間違ったと感じる事もあるかもしれないが、
それも含めて客観的な自分の視点によって、客観的な、つまり、想起による価値に対して目的を持ち、
自分を行動させることができるという事になる。

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朝起きて、まだ疲れているから寝続ける。
こういう選択も人間はできるはずである。
でも、子供のお弁当を作らなければならない朝であれば、それでも起きて行動を開始する。
学校へ、会社へ行かなければならない朝であれば、起きて行動を開始する。
主観的でない客観的な自分として目的を思い出して、行動を行うのである。

つまり、朝起きて、自分が思い出したことは、
自分は今日、どのように存在するのかという事だった。という事になる。
今日が4月20日であると認識し、
今日の自分はどのように存在しているのか、
今の体の状態はどうか、昨日から継続している状態はあるか、目的はあるか、行動するべきことはあるか、
そういった事を目が覚めた後に思い出したという事になる。

そして、主観的な刺激として体の疲れや状態、空腹、のどの渇き、尿意、
客観的な刺激として先に上げた今日の行動の目的などを認識して、
習慣などからそれぞれの刺激や目的に対して価値を設定、もしくは価値を想起し、
目的の価値として比較し、その優先度によって活動を開始する事になる。

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多くの客観的価値のなかで生活するようになった人間は、
もっとシンプルな主観的価値だけで生活することから離れる事になった。
生活は豊かになり、文化も文明も発展したわけであるが、
その行きつく先がお互いの価値の比較による軋轢やストレスでは知能の存在が報われない。

互いの許容と寛容だけではダメなのだろうか。
知能の本質が刺激の比較、価値の比較だからダメなのだろうか。

もっと考えれば解決方法が思いつくだろうか。
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覚醒後の認識についてまとめると、
目が覚めた時にまず認識するのは場所の事、
そして時間、そして主観的・客観的な自分の事、
おおよそこれで実際に自分が活動を開始する準備が整う事になる。

つまり、認識が停止して意識が失われた前の状態を再開するために、
覚醒後に意識を再開するための情報としての刺激を認識するという事になる。
生体的には、刺激の認識が再開、つまり意識が再開された事を、
覚醒したという状態の刺激として認識し、活動を再開するという事になる。
そして、場所や時間の情報の刺激から、客観的な自分の活動も再開するという事になる。

後は、習慣や予定に従って目的を想起し、
後は得られる刺激によって適時対応しながら行動を開始する事になる。

となると、現在の人間は主観的な自分としてよりも、
客観的な自分を優先して認識しているということになるだろうか。
この事については後で考える事にする。
今日はこの辺で。


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