2023/4/18
欲求が生じる理由と自我の存在
260の意思が働く原因となる価値と、
その価値に対して感じることになる欲求について考えていて、
何らかの対象を欲するということは、その価値の高さに対して欲求が生じるという事になる。
また、
単に価値として考えた場合、刺激には好ましいか好ましくないかというベクトルのような向きが存在すると考えている。
この場合、その刺激に対して快・不快の認識が生じる事になる。
この刺激に対する価値評価として、好ましい価値の快と、好ましくない価値としての不快はどのように生じるのか、
その原因や理由について考えてみた。
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快・不快の価値
快・不快は価値評価の結果として感じられる感覚である。
快・不快は刺激から直接、価値評価されるものではない。
快・不快はその原因となる直接の刺激に対して、
関連して想起された刺激の価値評価によって感じられる感覚である。
例えば好きな人に触れられる刺激と、
嫌いな人に触れられる刺激は同じ接触感覚であっても快・不快の感覚が異なる。
これは例えば目隠しして、その対象が不明であれば、
その接触感覚に対して、本来の刺激が与えられる存在に対する想起の関連が行われない為、
快・不快の価値評価に至らないということになる。
つまり、快・不快の感覚は、刺激を認識した後の関連した刺激の想起によって生じているという事になる。
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快・不快の発生対象
快・不快の感覚が、その刺激の発生対象によって異なる事について。
先の例で好きな人と嫌いな人によって与えられた刺激の評価が異なるということだが、
この例で、もし後にこの好き嫌いの認識が逆になった場合を考えてみると、
その評価はまったく逆になる事が考えられるため、
快・不快の感覚は、刺激の種類によって評価されるものではなく、
あくまでその刺激が発生するに至った対象の評価が関係しているという事になる。
また、先の目隠ししてその対象が分からない場合に、
快・不快の評価が正確に行えないという事から、
最初の刺激の認識の際に、同時に関連して認識された対象の刺激の認識が、
その快・不快の価値評価に関連しているという事になる。
つまり、刺激の認識と、その刺激の発生源の対象の認識が行われることによって、
その刺激の認識の際の価値評価へ関連した励起が関係しているという事になる。
刺激の認識順としては、
例えば、先に接触感覚があった後に、その対象を目視して認識した場合、
最初の接触感覚の認識時には価値評価は行われない。
対象を目視してから後に、その接触感覚に対して付加される形で快・不快の評価が追加される。
これは目隠しして後に接触後、対象を目視したと考えれば理解できる。
つまり、ある刺激についての価値評価というのは、
その関連した対象の価値評価が主な要因となっているという事になる。
これは、主観的な直接的な刺激であっても、
想起による刺激であっても、その認識後の価値評価、
つまり、先に刺激の認識が行われた後、その刺激に対する関連した価値評価の為の刺激の想起となるため、
どの刺激に対しても同様の機能の働きとなると考えられる。
ただし、基本的に刺激の認識における価値評価は、
主観的な直接の刺激>想起による刺激
であるため、最初の刺激に対する認識後の操作、
つまり、欲求や目的に変化するような場合も、その優先度、つまり価値の高さは、
この比較に準じる。
つまり、主観的な直接的な刺激に関連した価値評価の刺激の認識の方が優先されやすい事になる。
意識において複数の認識が同時に行われないという点からもこのように考えられる。
ただし、想起的欲求などにおいて、その刺激の価値を非常に高く評価しているような場合、
これを認識している状態というのは、多少の主観的な直接的な刺激よりも優先される事もある。
つまり、特に「意識を集中している」と呼ばれるような場合である。
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「意識を集中している」という状態とは
想起の連動を関係させるなら、多くの想起の刺激を励起することで、
他の刺激の励起や認識を排除するという状態である。
つまり、集中するという状態は、多くの刺激の想起を行う事で、他の要因の刺激の想起を排除する状態と言える。
これは意識が認識の連続であり、認識は同時に複数の刺激を認識できない事から、
脳の刺激の能力として、多くの刺激を励起した場合、この場合は想起による励起となるが、
この場合、主観的な直接的な刺激を受けたとしても、その先の多くの刺激の励起と価値評価を行っている状態において
認識に至らなくなる、認識に至らなくするという事になるわけである。
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話が逸れたので、
話を戻す。
主観的であっても想起的であっても、
快・不快の価値評価はその刺激そのものの評価というよりも、
その刺激に関連した要素によって決まるという事になる。
例えば、ある高価なブランド製品があったとする。
通常は高価であり、製品の質も良ければその対象の価値評価は高く、
それを所有する事に対して高い価値を認識し快の感覚を感じるかもしれない。
しかし、
これがフェアトレードに反するようなブランド製品があった場合、
それを良しとしない認識の価値評価を価値観として持っていた場合、
そのフェアトレードかどうかの事実を後から知った場合に、
その製品の所有に関する価値評価は快・不快のどちらに変化するかという事になる。
おそらくは不快の方向に認識を改めるかもしれない。
さらに、もしそのフェアトレードの現実を知らない状態で所有し続けた場合についてもである。
さらに厳密に言えば、さらにフェアトレード自体の信用や価値の認識にも関係する事になる。
つまり、ある刺激に対する価値評価は、初期の価値観における価値評価に加え、
既存の価値観の変化や、後から新たに追加される価値評価によっても変化するという事になる。
まとめると、
快・不快の感覚は、その刺激に関連している刺激の発生対象の価値評価に準じるということになる。
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刺激に対して快・不快の価値が評価される要因は分かったが、
では、この刺激が、その価値評価によって意思の元になる欲求の対象になる過程について考えてみる。
260で、意思の認識は、思考によってその目的と結果の関連が形成され、
その目的自体を認識した際に感じると考えたが、
今回は刺激がその目的となるまでの過程である。
今までの考えであれば、想起的欲求によって想起された刺激、
252で考えた通りであるが、252では想起的欲求をそのまま認識した際に意識まで至ると考えたが、
実際にはこの間に思考の働きとしての目的と結果の関連が含まれるという事になる。
252で考えた意思に働きかける要素として、環境や状態の変化の刺激を考え、
259・260では意思の働きは価値評価と価値判断の結果、であると考えた。
何らかの変化が生じた時に、認識される刺激を目的とする事と考えると、
今の時点で考えついたことは、不足や充足という考えである。
欲求そのものは、ある対象の価値を得る事を目的とする認識なのだが、
その原因となるところまで考えると、その価値を得る事の必要性、
つまり、不足や、補填や充足、価値を高めるための取得、といった考えに行き着く。
基本的欲求としての不足などの刺激が欲求として目的にになるのは分かるが、
想起的欲求の刺激を想起する事で、これを目的とする事については今少し不明瞭な部分がある。
価値が高いために記憶しているので、それを想起して価値が高いから欲しくなると安易に考える事もできるが、
例えば、単に価値が高いからといって、私はサーバ級スペックのPCが欲しいとは思わない。
消費電力そこそこのそれなりのスペックのPCなら欲しいと思うが、
とはいえ今使っているPCを変更しようとまでは思わない。
つまり、価値評価の高い対象であっても、欲求の対象、目的になるかとなると、
まだ何かきっかけが存在することになる。
単にサーバ級スペックのPCの価値評価が私の価値観では低いのかもしれない。
使用目的も限られているし、既存の動作するPCも存在している。
となると、単に本気で欲しているわけではないから価値評価は価格的な価値評価とは別な価値として、
低い価値を設定しているということになるだろう。
不足の対象というのは単に生命活動や自身の個体の維持・保持のために必要であるから欲求となるのは分かる。
想起的欲求となる対象を欲するのはどのような場合か。
それを得る事で、好ましい、充足する、価値が高まる、価値を得る。
そういった認識を得ることになる。
生きていくために必要ではない。
しかし欲する刺激・対象。
関連する別の目的、欲求のためか、
他人より良い物を持ちたい、価値を持っていたい、
しかし、そう考えない人もいる。
心の充足感、幸せのためか?
例えば好きな人と触れ合いたいという欲求を持ったとする。
目的としては接触感覚による刺激で心の平穏であったり、安心を得るという事になる。
孤独や不安などの感覚に対する不足の感覚か?
これは人間以外の動物にも存在するので、想起的欲求ではない事になる。
お金を得たり、権力を得たり、名声を得るというような欲求。
他より優れている、価値を持っているという考え方は基本的欲求であるが、
それを排除すると自己満足か。
つまり、価値を価値として得る事だけについて欲求を感じる事。目的とする事。
これが想起的欲求の本質か。
持っているから他より優れているとか、そういった考え方は副次的なもので、
本質は価値があるから自分は欲しい、そういう事になる。
つまり、自我か。
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246でそれについて考えていた。
「ということは、自我そのもの、知能そのものが、
個体としての生命体である自分の存在が、
周囲に対して自らの我、欲求を表し、
それを刺激や価値として得るための存在であるという考えになる。」
「そして、特に自我については、
その刺激を受ける存在、欲求を発現する存在としての個体、
その生命としての個体として、自らその自分であるという認識を行う事の出来る存在、
その刺激から作られているという事になる。
つまり、自分自身という体と知能を持つ存在としての自我の刺激があるという事である。
自分自身である刺激はその感覚や欲求の刺激が存在することで同時に認識され、
その同時の認識によって自分自身が存在する事が認識されるという事でもある。」
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つまり、
自身の認識のため、自我の認識の為、
その想起的欲求を欲しているということになる。
自己満足という考え方もできるが、それ自体が自己確認であるとも言える。
自分自身が欲する何かを目的として認識し、
その目的に対して自発的に行動する事、
その認識の繰り返しが、結果として自分の認識である、自我の認識であるという事になる。
ということは、自己の存在の認識の為に欲しているということになるのか?
意識を保つためか?
常に何かを欲していないと、自己や自我が存続できないということになるのか。
基本的欲求が自己本体の保持・維持の為であるなら、
想起的欲求は、想起的に存在する自我の保持・維持の為に、
その想起的欲求に関連する刺激として自分を認識しようということになる。
知能の特に記憶と想起に関わる部分は、
人間の知能において、自我の構成に関するほどんどを占めている。
つまり、自我が刺激そのものであるため、その記憶と想起は、
自我の存在をそこに留めている場所でもあるという事になる。
つまり、自分を認識する事、それ自体が自我の認識になるという事か。
そして、それを構成するのは価値観そのものでもあり、
それらの価値を想起して認識する事で自分を認識する事になる。
そして、それらを欲する事で自分を自分らしく構成、演じる、
自分らしく振舞う事になるという事。
つまり、他と異なる自として、他我と異なる自我を自らの意思で
得る、自分らしくあろうとすること。
欲求が先が自我が先かとなると、
これは欲求が先になる。
欲求の価値の構成が自我でもあるという事。
つまり、知能が自我として認識している刺激は、
自分らしく欲する対象を目的として認識する事、その際に意思を感じることに対して、
そこに自分が選択しているという事に自分の存在を認識するという事になる。
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まだ自我の存在についてはまとまっていない感じもするが、
これまでの考察と関連する部分が増えてきたということは、
ようやく対象を理解する材料が揃ってきたということになる。
完全理解には至らないだろうが、わずかながらその光明は見えてきたようである。
まだ今しばらく考察を続けよう。
今日はこの辺で。
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