2023/4/14

意思の解明

258で想起の連動の話から想起そのものについて考えたが、
この中で、やはりその想起のきっかけとなる、
目的の思い付きなどはどこから生じているのか、どこから作られているのかが気になり考えていた。
これまで考えてきた内容としては「意思のきっかけ」についてである。

そこで人間が何か目的を持ったりすることについて、
原始的な生物で当てはめて考えてみた。

例えば、環境からの刺激を受ける器官を持ち、
その刺激に対して何か行動を起こせるような生物、
例えば、今自分の存在する環境が好ましいか好ましくないかの刺激を受けて、
それに対して好ましければその場に留まり、
好ましくなければ移動を試みるというような生物を想像してみた。

そして、その生物を活動させる事を想像してみたときに、
ふと、そういった原始的な生物であっても、
その自分自身の個体がその環境に対して、環境の状態によって刺激を受けて、
それを評価できるとして、また、その刺激の評価に対して移動するかしないかなどの反応ができると
考えた場合に、その刺激に対する移動という反応は知能ではないのかという事を思った。
つまり、刺激の価値に対する価値評価を行えて、それに対して対処できるという事である。
そして、それと同時に、それについて意識の存在を考えてみると、
その原始的な生物が、その目的として移動する事を決定した場合、
その目的を達成するために、その認識と刺激の存在の状態の時間変化について考えると、
移動に対しての認識の時間的な保持・維持が必要になるということに気が付いた。

つまり、原始的な生物であったとしても、
環境が好ましくない状態の刺激を受けていたとして、
これを避けるように移動を決める、移動する事を行う場合、
その移動するという決定を維持しないことには移動がままならない事になる。
つまり、鞭毛や手足というような移動の方法があったとしても、
そもそもの移動しようとする事を継続しない事には移動が行えないということである。

つまり、環境の好ましくない刺激を受けて、移動を決めたとしても、
移動の運動を1回行っただけで移動したという事にはならない。
おそらく、環境からの刺激はまだ継続して好ましくないという刺激が続いているはずである。

そして、認識の際に考えた、刺激の認識において、生物は同時に2つ以上の刺激を同時に認識できないという点から、
環境からの刺激を認識する事と、移動すると決めて移動する事を認識することは同時に存在しない事になり、
一度、移動を実行した場合に改めて環境からの好ましくない刺激を受けた場合、
再度、移動を決定し実行しなくてはならない事になる。

原始的な生物であればそれでもいいのだが、これを人間の知能にまで発展した場合を考えてみると、
記憶や想起の能力を持った知能において、刺激の認識と価値評価、それに対する反応を都度行うのは非常に効率が悪く、
実際、人間の知能において考えてみると、この目的となる反応は、人間の知能においては
記憶の対象となっており、その目的が継続して認識されているという事に気づく。
つまり、
人間においてその行動の目的となる刺激は、記憶され、その刺激が継続して想起、認識されているのではないかという事になる。
そして、それは、意思、つまり、
人間の知能において、自分が何かをしようと決める、認識する時のきっかけなのではないかという事である。

今回の話の鍵となる重要な点はこの「認識の保持・維持」についてである。

例えば、自分が自分の家から出勤でも通学でも買い物でもいい、どこかへ移動しようとした時、
いざ家を出たところで、さて自分は何をしようと思っていたのかなどと思うことは無い。
家を出て、何かの交通機関を使用して、目的地に移動する、その前に歩いてなどして何らかの場所を経由し、
最終的に目的地に到着するまで、その目的は記憶され保持され、認識され続けている。
途中でもし、この移動の目的の認識が失われてしまったとすると、先の通り、さて自分は何をしようとしていたのかと、
考え込むことになってしまう。
それが起こらないという事は、つまり、人間の知能が何らかの目的を持った場合、
この目的の認識を行うための刺激というのは、ある程度の期間、保持や維持がされている事になる。

これを確かめるのは単に、例えば今日の朝から行ってきた事を何か思い出せるかという事で確認ができる。
どの場面でも良いが、何かしらの記憶としての刺激は残っているはずである。
これは、その目的に対する記憶が行われていて、それを目的として保持・維持がされていたという証明でもある。

つまり、
何かの目的をもって行動していた際に、
周囲の環境か、自分自身の個体から刺激が生じた際に、別の目的の行動に切り替える事はある。
ただ、その場合においても、前の目的が失われることは無い。
それを目的として、価値ある刺激として記憶し、認識しているからである。

ただし、目的を達成した場合に、記憶としての経験は残るが、忘れる事もある。
ただ、この場合においても、一度記憶された目的は神経細胞ネットワークの中に記憶として残り続けるはずである。
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例えば、自分が食事をしていたとして、満腹になったとする。
人間であれば満腹中枢の刺激により、それ以上の食事の必要性を生体として一時的に失わせることになり、
人間は他の目的を設けてそれについての行動を起こす。
そしてまたしばらくして、今度は空腹の刺激を受ければ、再び食事をしようという目的が生じ、
その為に行動を起こすことになる。

しかし、食事の途中であっても、何か逃げなければならない危機が訪れた場合に、
食事を続けることは無い。しかし、その危機が去った後に満腹前であったなら、
ほっとして空腹を思い出すかもしれない。
この場合、目的は何らかのきっかけによって代わり、再び思い出す事もできるという事になる。

つまり、認識の中にある刺激というものが、その目的が生じた瞬間から目的が達成されるまでの間、
保持・維持が行われる事、それによって、他の刺激を認識する事との関係において、

価値比較の中で、保持や維持されていた目的の価値が高いと判断された場合に、
その目的が認識されることになり、これこそがその意思の発現のきっかけなのではないかと考えたのである。

つまり、意思のきっかけとなる目的は、神経細胞ネットワークの刺激として記憶の中に存在しているのである。
それが発現するきっかけは、周囲の環境の変化や、自身の個体から生じる刺激、
また、意識の存続の条件である常に何らかの刺激を認識し続けるという事、これによって、
知能は常に何らかの刺激を認識し続けているという事、
そして、その刺激の中に、その知能が置かれた環境に対する変化が生じた場合に、
それに対する知能の反応、つまり、その刺激に対する価値評価に対して行うべき対応や、
その価値評価に対する感覚、つまり、価値の認識として、何か対応するべき目的が記憶内に存在していた場合に、
この目的が刺激記憶に関連した、連動した刺激の励起が起こり、
自動的に認識されるということになり、これが「意思」という事になるのではないかと考えた。

つまり、その瞬間の条件や状態の変化によって、認識される事になった目的があり、
その目的の認識自体を、人間は意思の発現のきっかけだと感じているということになる。

そして、この考え方では、
感情も、この変化の保持・継続に対して生じた価値評価の刺激の認識の保持・維持に対して感じる感覚として理解できることになる。
つまり、
ある状態変化という刺激も認識の観点からすると一定時間の保持・維持がされていることになる。
これは、一度認識に至った後に、再び想起されなかったとしても、一度記憶されている事にはなる。
そして、その認識された刺激に対する価値評価も認識されるということは一度記憶されている。
感情は、ある状態変化に対する自身の価値評価の内容によって生じる様々な感覚、刺激であるので、
この感情の記憶が想起されるということは、感情自身もあらかじめその感情表現の刺激として記憶されている事になる。

突然生じた刺激を認識しても、それがそれ以前の目的にはなり得ないというように、
逆に一度でも認識された刺激や状態、目的というのは、その後の想起によって、
自身が認識することになる、あらゆる「きっかけ」になりうるという事になる。

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ということは感情はあらかじめ経験している記憶として、
作り出された目的である、という事も考えられる。

自分がこのように感じる事が、自分のこの感情である。と感じる、という事ではなく、
自分が経験してきた記憶の中で、このように感じる事が、ある特定の感情の状態であると認識し、記憶し、
後に、この状態に当てはまる刺激を受けて、この特定の感情の刺激が想起され、認識された場合、
自分はこの感情を感じた、この感情を認識した、この感情の状態であると感じたという事になる。

感情に本能的でない感情があると考えられるのであれば、
人間の感情の中に作られた感情が存在しても問題は無い。
知らない刺激は想起できないという事からもこれは言える。
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これらの事から考えられるのは。

つまり、知能の中にあって「意思」だと思っているものは、
その知能が持つ刺激の認識における刺激の対象の変化がそのきっかけとなっている。

つまり、認識の対象が変更される際に、その新たな認識対象が目的であれば、
その変更が行われるきっかけとなる刺激の認識がその「意思」であるという事である。

つまり、目的を認識したと自分が感じるという事は、自分がそこに意思を働かせて
あたかも自分自身がそれを選択したと感じているのであるが、
実際はそのきっかけの刺激によって目的を想起して認識しているに過ぎないのである。

つまり、その刺激の価値評価において、その認識以前に保持・維持されていた刺激より、
その新たな刺激の価値が高いと評価したその事が「意思」であると感じる存在であり、
その仕組み自体が意思の生じる仕組みであるということになる。
つまり、その仕組みは「価値評価」と「価値判断」ということになる。

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私が人工知能について思考する事は、
私は自分の意思で行っていると感じている。

今日の考え方からすると、その自分の意思で行っているという感覚は、
「人工知能について思考する事」という目的を思い出した時、
その時の刺激の変化時に「自分の意思」が働いて、その思考を始めたと感じている事になる。

今日は、昼食の前から、昼食後に少し時間があるので、
この「意思の解明」について執筆しようとしていた。
表題の内容は、朝から考えていた事なので昼食前に既に目的としては出来上がっていた。

実際に昼食後、細かい仕事を終えて、いざ環境が整った、
その時、私はこれを思考する事を始めた。
私の意思で開始したと感じている。

しかし、実際はそれまで思考する状態や条件が整っていなくて、
実際の目的として想起・認識することができなかった、
いざ実際に目的として想起・認識し、実際の思考を始めた時点で、
私は私が自分の意思でこれを思考する事を選択し、始めたと感じた。

私はそもそもの目的を持っていたのだが、
それを開始したのは意思なのか?という事になる。
結果的に目的を実行する条件が整った、整えたとも言えるか、
その結果として、私は目的の実行を始めた。
目的を実行するための準備も含めて、私は突然それを選択したのか?
自分の意思で?

自身が持つ様々な価値の記憶、刺激や目的の記憶の中で、
私が価値が高い対象を選択したいがため、これは知能が常に価値の高い選択をしようとする事、
生きざるを得ない制限でもある事を行うために、
私は選択をしているのではないか。
高い価値の判断、高い価値の選択、をするために。

自分の意思でもあり、自我でもある、自分にとっての高い価値を選択する事、
自分にとっての高い価値を認識する事、これが「意思」というものになるのではないか。

そしてそれは、今この瞬間において、
周囲の環境か自身の個体から生じる刺激または、想起によって再構成する刺激を対象として、
その中の自分が選択しうる価値の中から、より高い価値を持つ選択を行う事、
これが「意思」という事になる。

そして、「意思」自体は、価値観が行う「価値評価」と「価値判断」の働きそのものである。
という事になる。

つまり、急な思い付きで意思が働くという事は無いという事になる。
必ず認識の変更を起こすための刺激が存在する。
そして、その刺激を認識するはずである。

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さて、人工知能に当てはめるにはどのようにしたら良いか。
意思には価値観の構成が重要ということになる。
刺激の認識と記憶がその素体を構成する機能としてあればよく、
後は価値評価をするための個体の刺激に対する感覚、
つまり、刺激に対する感じ方を設定する必要がある事になる。
これは刺激の認識の個体差の辺りで話した通りに、
プリセットの方が良いが、修正可能な学習対象である必要もある。

後はともかく存在する事に対する意味、価値を必要とする。
生命がその維持、存続、保存を目的とするように、
人工知能にもその存在に対する目的が必要となる。
理解する事ではなく、価値を設定するという意味での理解である。

弱い人工知能は対象の説明ができる分類や組み立てができたとしても、
対象に対する自身が感じる価値評価を行っていない。
強い人工知能にするためには、ある対象についての自身の価値評価を必要とする。

強い人工知能にするためには、
まずはそこからである。

客観的であってはならない。
主観的な価値評価を必要とする。

他人の価値で選択した事に自分の意思が関わっていると思うか考えてみると良い。
どのような選択であっても最終的に選択しているのは自分の主観的な価値評価である。
だから認識の結果は自分にとって常に価値が高いのである。

目的もなく存在する生命はないが、
目的もなく存在する知能もない。

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今日の事をまとめると、
結果的にほとんど自由意志なる存在は無いという事になる。
生命として誕生した時点で、その個体の能力と環境は決定しており、
生命体としての生きざるを得ない制限も付き従う事になる。
選択の制限もあるし、できる事は限られている。

ただ、その中で唯一決まっていない事があり、
それは考える事、「思考」であると考えられる。
それ自体も考えた結果になるが、
確かに思考は知能の中だけであれば自由である。

これは完全に自分が決める事の出来る範疇にある脳の機能であり、
存在しない対象を存在させる事の出来る今考えられる唯一の機能でもある。

素材は既存のもの(=刺激)であり有限であるかもしれないが、
その組み合わせは一生では把握できないくらいの対象がある。
また、他人が見つけた対象を学習することもできる。

最後にその点で、1つ。
世界で基礎研究をされている多くの研究者には頭が下がる思いである。
人間の知識、知能の根本を成すものであり、
これを思考の素材として用いる事ができるのは幸せだと感じている。

今日はこの辺で。


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