2023/4/11

想起の連動における運動と思考・想起のきっかけ


知能の働きにおいて、運動と思考は別物であると考えていた。

これは、考えながら精密な動作を行う事ができないとか、
運動しながら何かを考えた時に、とっさの運動の変化を起こすことができないなどが理由となる。

しかし、考え方を変えると、
どちらも知能の活動を占有しているために、
互いの別の活動に支障が現れるという事になる。

つまり、運動も思考もどちらも知能の活動を必要とするという事になる。

考え方としては当然なのだが、
これは、運動が感覚的な刺激に対する知能の活動であり、
思考が想起的な刺激に対する知能の活動が関係しているという考え方に至る。

運動も思考も、その活動命令の出発点は知能、脳である。
また、どちらもその活動の元となる刺激は、想起によって生じている。

つまり、想起によって運動も思考も、その働きが生じているという事になる。

想起も、同時に複数を想起する事ができないので、
おのずと運動と思考が同時にできないことが言える事になる。

257の想起の連動にあるように、
運動は一つの動作だけで完結するような運動はほとんどない。
腕を持ち上げるにしても、ひじから先を固定するように筋肉に力を入れ、
肩の周辺の筋肉を連動させて腕を持ち上げる。
自分でも「腕を持ち上げる」だけだと思っていたが、
意外にその動作は体の各部分ごとの連動した働きが必要になっている。
ここでの運動は、想起の連動として、
各筋肉を制御することになる刺激の想起が行われているはずであり、
それは1つの刺激では完成しないはずである。
腕を持ち上げるという想起は、その体の各部のそれぞれの運動をまとめた刺激として認識し、
ようやく働く運動であると考えられる。

また、思考も同様に、
思考する目的や価値を刺激として認識した後に、
その関連を作り出すという事になるが、
これも1つの刺激で思考しているということにはならない。

つまり、運動する、思考する、という刺激は1つの刺激だけで成り立つものではないという事である。

刺激の励起が、その関連において順番があるように、
運動も思考も、その刺激の励起においては連動するような順番がある。

これはシナプスの結合が神経細胞同士の関連において、
相互的ではないという事に起因する。
つまり結合や関連に方向があるということである。

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もし神経細胞の結合や関連にループが存在する事になった場合はどうなるか。

延々と励起を繰り返すことになるのか。

一度励起された神経細胞は、Na+・K+のイオン交換で電位差が元に戻るまで
次の励起が起こらないはずであるから、少なくとも一定時間の励起間隔の差は生じる。

つまり、結合や関連のループがあっても常に同じ刺激を励起することにはならない。

意識の条件により、常に何らかの刺激を認識する必要がある事と、
連続して同じ刺激を認識しないのであれば、
一度認識された刺激を延々と繰り返し認識することにはならない。

昨日フレーム問題という人工知能の課題がある事を知り、
それについて今、思い出したのだが、
その1つの課題にある人工知能の再帰的な思考によるループによる活動の停滞は、
この意識の条件と認識のモデルがあれば、停滞は起こらない事になる。

また、刺激の認識の仕組みが、
環境と個体から受ける刺激、想起による刺激、による認識であれば、
その価値評価と、思考を人間の心配のようなあらかじめ思考する機能と同じであっても、
思考の停滞には至らないはずである。
これは特に環境と個体から受ける刺激が価値評価が高いという事が理由となる。

対象の価値の認識、価値評価においては、
例え人間であってもその対象の価値評価を間違う事はあるので、
一概に人工知能の価値評価を、人間の価値評価でうんぬん言うことはできない。
人間であっても、人工知能であっても、多くを知り、つまり多くの刺激、対象を知り、記憶し、
その対象の価値評価をできるだけ正しく認識できるよう努めるだけである。
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話を戻す。

知能活動が想起の連動によるもの、という事について。

これは刺激の認識時の刺激の連続的な励起にも関係する事になる。

つまり、刺激を認識し記憶する事になる際の励起の順番の記憶ということになる。

一度にまとめて刺激が神経細胞を励起する場合、この神経細胞の励起は同時に起こるのか。

一度に同時ということになると、その励起による関連の順番付けが出来ない事になる。

つまり、ある単位の刺激として同時に励起されて記憶する場合は不都合が無いが、
いくつかの情報の要素をまとめて刺激として神経細胞が励起された場合、
その励起の順番を決める事ができなくなる。

ということは、まず刺激の認識においては、その情報のまとまりの中に順番が作成されることになる。

認識自体が連続している刺激の認識であるから、情報単位ごとの刺激を時間経過によって
連続して認識するという事なら可能となる。

しかし、刺激の入力はかなり高速であるので、その刺激の連続した認識はかなり素早いものとなる。
また、一度で覚えられないという事も人間にはあるので、
刺激による神経細胞の励起は、その刺激の記憶という観点においては確実に起こるというものでもない。

また、この刺激の励起と認識、記憶の際には、他の知能活動が行えないという事にもなる。
先に想起が運動と思考で同時に行えないと考えたが、
この場合、刺激を認識する過程で行われる再構成時の想起が必要となるため、
認識しながら他の知能活動は行えない事になる。

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運動と思考が同時にできるかどうか。

これは以前の223の中で説明したが、
並行して2つ以上の事を実行することはできているようだが、
実際は1つ1つの行動や活動を高速で切り替えて実行しているので、
同時に実行しているように見えるというだけという答えになる。

つまり、人間の視覚で網膜に残像が見えたりするのは、
ある刺激に対する励起が、一定時間維持され、突然その励起状態が現れたり消えたりするものではないという事。
これは先の神経細胞の励起が元に戻るまで一定時間を要するという事からも言える。

そして、その認識において、意識の条件から考えると、
おおよそ覚醒状態において常に何らからの感覚器官からの刺激を受けている状態で、
思考を目的として欲した場合、その思考の想起の刺激が強い間は思考を行う事ができるが、
少しでも思考の気を抜くと、感覚器官からの刺激の認識が優勢となり、
意識的にはその認識を繰り返しながら思考と、感覚器官からの刺激の認識を繰り返すという事になる。

つまり、運動と思考は同時に行えないが、
並行して行う事は出来るということになる。
ただし、0.5と0.5のような同時並行ではなく、
どちらかの1を繰り返す切り替えを認識が担う事になる。

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刺激の記憶と想起の連動について

今日の最後として1つ気が付いたのは、
刺激を認識する際の記憶や、想起する際に認識する刺激というのは、
その刺激の連動をなぞるように記憶したり、想起したりしているのではないかという事。

つまりレコードへの記録や再生、光ディスクの記録や再生、
HDDほか、記録と再生の位置に対して同じであるというような機構である。

そんな事は当たり前の事ではないかと言われるかもしれないが、
今ふと気が付いた。

これが意外とも思うかもしれないが、
実際、脳内にはレコードの針や、光ディスクの光のピックアップの光学ヘッドや、
HDDの磁気ヘッドのようなものはない。

意味合いとしては「認識」がそれに相当する事になる。

覚醒中はもちろん刺激を感覚器官で入力したり、想起して刺激を再構成してそれを認識して、
記憶したり想起したりすることになるが、
睡眠中で見た夢を、覚醒後も夢を覚えていて思い出す事ができる。
これは、睡眠中でも認識や記憶や想起が起こっているということになる。
睡眠中にも意識の状態があるという事になり、
脳内で刺激が認識される事、記憶されることと、想起されることは、
つまり、脳内での刺激の存在の有無、つまり認識がその鍵、機能のきっかけになっているのではないかという事。

ということは、脳内に刺激が伝わるか、脳内で刺激を想起して、
その刺激が認識されるということが、この脳内におけるレコードの針や光学ヘッド、磁気ヘッドに相当する
機能をもっている脳の機構なのではないかという事になる。

認識自体は、刺激の価値評価において、脳内である瞬間におけるもっとも高い価値=強い刺激が認識されると考えているが、
であれば、その記録や再生における機能と言うのは、
感覚から入力する刺激においては、基本的に記録側の機能であり、
想起で再構成する刺激においては、基本的に再生側の機能となる。

それを何をもって実行しているのか。

感覚からの入力においては、その入力された刺激の情報の要素の意味、
つまり、知能を持つ個体においての刺激の重要度、価値評価の結果、がカギになっている。
つまり、その個体にとっての価値評価が高かったという事による認識によって、
その刺激は記録、記憶の対象となる。

そして、
想起で再構成する刺激においては、それを想起する必要のあるきっかけ、
おそらくこれが、知能の知の本質ということになるが、
今思いついたのは「生きざるを得ない制限」だった。

163を読み直したが、今思う事は、つまり、
生命としての存在の維持や存続のために知能を持った人間が、
何の為に知能を使うかという事になる。

単純な知的生命であれば、その主観的欲求に従って知能を使う事になるが、
人間は、さらに想起的欲求を持つに至った。

つまり、人間は知能をその主観的欲求と想起的欲求の為に知能を使い生きていることになる。

ということは、感覚からの入力における刺激の認識以外での、
想起で再構成する刺激というものは、
人間の生きざるを得ない制限としての、自身の維持や存続の為に、
価値を欲する、つまり、常にその価値としての刺激を求めるために存在しているという事になる。

つまり、想起される、再生される刺激は、価値の刺激であり、
それを認識する事が欲求、つまり想起的欲求となり、
その認識自体が、知能を働かせる、つまり、思考のきっかけということになる。

これは、自我の認識にも関係しているという事になる。
想起で再生される刺激が、自身の想起的欲求であるのなら、
自我、自分を認識するという事は、
自身が欲する対象としての自分を自我とすることになる。

実質は、記憶された自分についての再生であるが、
自分らしく自分であることの欲求、その記録の再生になる。
つまり、究極的に、自分らしい自分を自我として思い出す事である。

根本的には、記憶された刺激、価値観というのは、
自分が持つ感覚器官を経由しているので、自分らしい感じたかの刺激の記憶である。
それを想起して再構成、再生する場合、そこに現れるのは本来の自分だと認識できる自分についての刺激である。

その自分の刺激は、何の情報や要素を知能に認識させるのか、
つまり、ここで生じているのは想起による刺激であり、自分の生命の個体としての刺激の感じ方の記憶の再生された刺激である。
自分らしく欲する事。
自分が欲する事。
自我という事になる。

人間の知能があるから思考するという考え方ではなくて、
人間はその知能の能力を持って、その欲求としての思考を欲して思考しているということになる。

何かの為に思考するわけではない、あくまで自分の為に、自分が欲するから思考するのである。
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最後の方は少し勢いで書いたが、
後日どこかで少しまとめる必要はありそうである。

そろそろ
空腹の刺激>思考の欲求
となったので今日はこの辺で。


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