2023/4/7

刺激の認識・定量化と再構成について

価値の定量化について考えていて、
価値=刺激の関係から、
刺激の定量化について考えていた。

254で刺激を認識する際に、価値としての定量化が必要であると考えたが、
それならば、その刺激を認識する際に行う再構成は、
その価値の定量化と何か関係があるのではないかという考えになった。

つまり、
刺激の認識に伴う対象の再構成や、
想起された刺激の認識の際に行われる対象の再構成が、
認識の際の価値や刺激の定量化と関係があるのではないかという事である。

想起による刺激の認識があるのであれば、
この認識の際に、記憶で持っている刺激をその部品として、
刺激を再構成して、認識に足る刺激を作り出して想起することになるが、
ということは、この想起時の刺激というのも、刺激=価値の定量化に関係していると考えられる事になる。

ということは、自我、自分についての認識についても、
その自分を認識するために再構成している情報、状態というのは、
その刺激=価値の再構成にも、定量化にも関係している事になる。

であれば、自分、自我というものを認識する場合、
自分で自分の要素について、その自ら保有している刺激から自分を再構成し、
そして自ら自分の要素を認識しているという事になる。

そして、さらに、
ふと思い出した認知バイアスの確証バイアス。
簡単に言えば、先入観や過去の経験などによって自分の都合の良いようにある事象を解釈するという事。
つまり、その認識において、
その対象を構成する要素が、過去の似たような状況や状態の記憶において、
自分が、過去に選択してきた価値の高い選択の記憶から選択・構成されることにより、
自分の都合の良いような選択が行われるという事になる。

その大本をたどってみると、
そもそも、自分の記憶で持っている刺激の記憶というものは、
自分の個体としての感覚、五感を通した刺激の認識から成り立っている。
そして、それらを、想起時において、再構成の部品として用い、
想起する対象としての刺激を作り出す場合、
その構成要素は自ずと自らが持つ事になった刺激の記憶、
つまり、刺激の価値の記憶から再構成する事になる。

つまりは、自分の保有する価値の記憶において、
その事象の認識を行う際に、その再構成する要素としての価値の記憶が、
自分の価値観で構成される要素から成り立つから、
自ずと自分に都合の良いような認識が行われやすいということになる。

自分が価値が高いから認識し、それが記憶された結果が価値観であるから、
それを別の認識の再構成の要素として用いた場合、
自ずと自分が価値が高いと思う刺激の情報、要素から成り立つという事になる。

そして、それは、自分、自我についても言えるのではないかという事。

つまり、自分で自分を認識する自我というものは、
自分がこれまで経験してきた刺激の記憶、認識してきた記憶、
その情報らの集合体である価値観を構成する事になる。
そして、その価値観から、想起する事によってその姿を再構成することになる自分、自我というものは、
それまで自分自身が経験してきた、記憶してきた刺激の認識から成り立つことになる。

そして、それは、自分らしい自分という客観的な見方の自分ではなく、
自ら欲する、こうありたい自分を結果として認識するに至ってるのではないかという事。
つまり、こうありたい自分を構成する部品が、
そもそも、自分の認識において、価値の高いと判断した刺激の認識を集めた記憶の、
価値観というものからできているという事。
つまり、自分が価値が高いと感じて認識してきた刺激らの記憶が価値観であり、
その価値観を元にして作られている自我というものは、
そもそもの存在において、自分が価値が高いと感じて認識してきた刺激から成り立っているという事になる。

つまり、こうありたい自分、我欲で自らが欲する存在の自分が、自我なのではなく、
自らが感じてきた刺激の経験、記憶から、思い出した自分の姿が自分、自我になるのではないかという事である。

つまり、自分が自分について思い出している自分というものは、
今の自分ではなく、
これまでの経験としての自分が感じたり、自分がしてきた事を思い出した自分の姿なのではないかというわけである。

つまり、
実際に認識しているのは今であるから、それは今その認識において、自分は今の自分であると認識することになるが、
その自分というものは、自分に関する価値観から再構成されているので、
それまでの全ての自分を継続してきた姿、つまり、自分という要素に関連した全ての刺激、認識のまとまりを、
自分として認識するという事になっているのではないかというわけである。

少々遠回りしたが、
自分や自我を含めて、何かを認識するという事は、
その認識する対象として、特定の何かを刺激記憶から再構成して作り出すという事でもあるという事になる。
そして、その素材となるのは、それまでの価値観を構成する要素として、
認識してきた刺激の記憶が元になっているという事。
そして、その記憶は、それまで自分の知能が、価値が高いと価値判断して記憶してきた刺激ということになる。

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2023/4/8

昨日の内容の少し修正・訂正するが、
自分、自我の姿が、自分が欲する自分を自分で再構成して認識していると考えたが、
刺激の価値というのは、価値が高いから皆すべて自分に良い刺激・価値ではなく、
強い刺激が高い価値を持つという事だけであるので、
自分が嫌でも強い刺激は高い価値を持つということになり、
それは自分が欲する自分の構成には用いられない、または、
反面教師のように、価値のベクトルが異なる場合があるので、これの考え方を正しておく。

つまり、刺激が強い事が高い価値を持つのには違いないが、
高い価値=自分にとっての良い意味での高い価値、だけではないという事である。
正しくは、
高い価値=自分が強い刺激であると感じる刺激、であり、
その刺激は自分にとって良いと感じる場合も悪いと感じる場合もある、という事になる。

また、途中で認知バイアスの確証バイアスを思い出したために、それに引っ張られた形で、
その気づきに対して思考がそちらに向いてしまったらしいと今日は感じている。
実際、それ自体が、自分にとっての確証バイアスであったと今は感じている。
つまり、自分にとって都合のよかった考察になってしまっていたというわけである。
まったくの間違いではないが、話しの方向が逸れてしまった。

最後の方の考え方は、
自分や自我を認識する場合、その刺激の再構成を行う必要はあり、
この場合に用いられる刺激の要素は、自身が持つ価値観の中にあり、
自分が価値が高いとして認識した刺激の記憶であるという事は変わりはない。
これは改めて考えなおしても違いはない。
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現時点でこれまでの関係性を順に示すと、
主観的な感覚の刺激については、価値比較において認識に至る価値の高さを持つと仮定して、

刺激→感覚器官→神経→(神経細胞ネットワーク)→(励起=記憶=想起)
→(再構成=認識に足る価値の定量化)→価値比較→認識→(知覚=自覚)

想起による刺激については、
関連する刺激の認識をきっかけとして、価値比較において認識に至る価値の高さを持つと仮定して、

(関連する刺激の認識=神経細胞ネットワークの励起)→(神経細胞ネットワーク)
→(励起=想起)→(再構成=認識に足る価値の定量化)→価値比較→認識→(知覚=自覚)

という事になるので、
これを自分や自我の認識に当てはめた場合、
想起による刺激=自分の認識となるので、

(関連する刺激の認識=神経細胞ネットワークの励起):自分を認識する事になるきっかけ
→(神経細胞ネットワーク):きっかけの励起に関連した自分についての刺激が励起されることになる
→(励起=想起):自分についての刺激の励起=想起
→(再構成=認識に足る価値の定量化):自分についての刺激の再構成
→価値比較:その瞬間における価値の高さの比較:ここでは認識に至ると仮定する
→認識:自分、自我について気づく、認識に至る
→(知覚=自覚):自分で自分を認識したと感じる

という事になる。
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一応、感覚器官からの刺激にしても、想起による刺激にしても、
刺激の認識においては、その認識に至るための定量化(=情報の定量化)が必要ということになる。

人間の知能が、何らかの対象を認識したと感じた際、
その対象はその情報塊として確定されているものである。
つまり、認識対象として確定した情報を持っている必要がある。

人間の知能においては、感覚的や相対的、抽象的な認識を行う事もあるが、
実際に行われた認識は、その対象は必ずいづれかの感覚、つまり元となる感覚器官から得られた刺激の情報を組み合わせ、
その認識の対象としている。

そして、それは、感覚的や抽象的というような定性的な認識であるような印象を持っていたとしても、
実際に行われている認識は定量的な刺激が元になっている。
これは、知能が識別することのできる刺激が、神経細胞ネットワークにおいて刺激として認識されることになるが、
この神経細胞ネットワークの認識というのは、各感覚において1対1の刺激と神経細胞ネットワークの対応が必要で、
逆にそれを想起などで認識する場合、感覚的や抽象的な再構成ができないという事になる。
つまり、刺激に対する神経細胞ネットワークというのは、量子的ないくつかの状態を同時に持つような対応ではなく、
実数的な確定的な対応であるという事に起因する。

つまり、

あいまいな認識であっても、あいまいである事自体は確定しているのである。
それは、単にその認識されるべき刺激や対象が、その情報塊として、
その知能における認識対象として、確定的でなく、情報不足などのあいまいであるという状態なだけであり、
それは、その知能内における価値観の記憶としての価値が、対象の確定において、その情報、関連が不足しているというだけであり、
しかし、その状態においても、認識に至る情報塊は、あいまいなままでも認識できるという、
人間の知能の認識のあいまいさを許容する認識力によるものである。
しかし、認識に至る、つまり、認識できたと感じるということは、
その対象を、ある情報塊として確定しているということでもある。
つまり、定量化である。
もし、定量化が行われていない状態での認識を考えてみると、
その認識の対象は脳内において、どれだけの関連する刺激を励起するのか、
どこまでの関連をもって、その対象の刺激とするのか、確定できない事になる。
つまり、確定していない情報としてあいまいなのではなく、
どれだけの情報を含めた対象とするのか決まらないということになる。

例えば宇宙を認識する事を考えてみる。
現代の科学において、宇宙の全てはまだ確定できていない。
しかし、宇宙について一度でも認識したことのある人間は数多くいる。
小学生くらいになれば一度以上は宇宙について考えた事があるだろう。
つまりは、この小学生くらいの年齢になれば、宇宙の存在は知っている、認識しているのである。
それがどれだけあいまいで、不確定であってもである。
別に、多次元宇宙が存在するかもしれないと知っている必要はないし、
ビッグバンが存在しないかもしれないと思う必要もないし、
宇宙の観測可能な外側の状態について知らなくても、宇宙については皆知ることができる、認識する事ができるのである。
これは、認識する皆が皆、それぞれの知能において、その宇宙に対して持ちうる、
つまり、経験してきた宇宙の情報の認識の記憶から再構成した宇宙を認識していて、
それらが完全な宇宙の姿でなくても、あいまいな宇宙であっても、認識できているということになる。

これが、もし、宇宙というのは人間が観測可能な外側の状態も知っていなければ宇宙本来の姿ではない、
人間が知りうる範囲だけの空間が、それは宇宙ではないという事になってしまうと、
人間はいつまでも宇宙を認識する事が出来ないことになってしまう。
つまり、どこまでをその対象の範囲として決める事ができないのであれば、
それは対象としてとらえる事が出来ないという事になる。
これは、当然、知能では認識できないということになる。

そしてまた、人間の知能が、量子について理解できるのは、
量子の状態を完全に理解しているからではなく、
複数の状態が同時に存在する状態や、状態や位置が確率的に表せる事について、
あいまいでありながら、そのあいまいさを許容して認識できる対象として扱っているからという事になる。
つまり、その状態を含んだところまでを量子として決めて認識しているからである。
もし、先の宇宙のように、さらに素粒子の状態、
もしかしたらさらに小さな何かまで把握しなれければ量子を現す事が出来ないという事にしてしまうと、
人間が量子を認識する日は当分来ないことになってしまう。

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実際、人間の知能が行っている認識の対象については、
全てが定量化されていると考えられる。
あいまいである、良く分からない事も、その刺激の関連として、
「あいまい」「良く分からない」という関連も含めてという事である。

自分で自分自身が分からなかったとしても、
その分からない自分の何かも含めて自分を知る、認識できているわけである。

想起における自分という存在の再構成においても、
自分の全てを知っているはずの自分について、
今、認識できる自分というのは全てではない。
忘れている過去の記憶もある、
今日の朝食のメニューを覚えているはずが、今想起した自分の要素には含まれていない、
それでも、今認識している自分は、自分として自分が認識できる対象になっている。
それは、認識の対象に区切りを設けて、それを認識の対象としたからである。

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今回のまとめとして、
刺激の認識に際して行われる刺激の定量化というのは、
認識においてその刺激を再構成するということと関係があるということになる。

これは、認識に際して、こういう決まった刺激を認識したと感じる事は、
確定的な対象として刺激を認識、理解できるということでもある。
これは、価値の定量化、刺激の定量化という事として考えると、
認識の対象が、あいまいであっても、不確定であっても、
その状態自体をその対象の情報として確定し、
その状態さえも確定的な対象の範囲として決めて、固定しているという事になる。
つまり、認識の範囲を固定しているということになる。

考え方としては、神経細胞ネットワークの励起とそのシナプスの関連において、
その対象の認識において、情報の対象となりうるために必要な範囲のシナプスの関連の励起が行われることによって、
その刺激の情報が再構成される→存在する事になる→認識に至る、という事になる。

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この辺りの考え方については、
自我を対象としたり、感情を対象とすることも同様にできると考えられる。
つまり、認識の対象とする限り、認識してある状態や情報を知覚、知る事が出来ている状態は、
その対象が、情報としてのまとまり、情報として成り立つだけのまとまりを持っているという事になる。

つまり、自分を認識するのは、自分の情報のまとまりを再構成するからであり、
感情を認識するのは、感情の情報のまとまりを再構成するから、という事になる。

今回はこの辺で。


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