2023/4/2

価値の定量化

本来、生命が、その維持や保存、存続に必要のなかった想起的欲求を、
持つようになった理由について考えていた。

実際、お腹がすいたら何かを食べる、痛かったら苦しむ、
眠かったら寝る、淋しかったら同種と共に居る、
それで良かったはずなのであるが、
なぜ、自然界に存在しなかった価値を自ら作り出し、
なぜ、自ら作り出した価値を自らの欲求とするようになったのか。

例えば、ブランド名などは自然界においても、
生物にとっても、何の価値もないものである。
価値のあるのは、その品としての物体であり、
ブランドが保障するような機能や耐久性というのは、その品に付随する状態の要素だけである。

しかし、人間の知能はそのブランド名に対して価値を認識する。
ということは、人間同士の互いに価値を共有するためということになる。

ある対象についての価値を人間同士で互いにその価値を共有するため。

基本的欲求が、主観的であるが故に、
その価値の評価は千差万別であり、互いに共有することができない。
であれば、何らかの価値を共有するためには、
互いに相対的に、客観的な価値を設定し、それを共有する事で、
ある対象についての価値をある程度、定量的に扱うことが出来るようにしたもの。
その価値、ということになる。

価値を定量的に扱うことが出来るようにした価値、
それが想起的欲求となる対象の価値ということになる。

ということは、互いに共有できる刺激や価値の為に、
定量的なものとして扱うようにした。

定量化、つまり、単位化、それが想起の対象になったということになる。

つまり、本来自然界において、その刺激や価値というものは定量的であるが、
それを認識する生命は、個体差を持つが故に、その刺激に対しては定性的に受け取るしかなく、
互いに共有化できないはずであった。
しかし、それを自然界に存在しなかった単位としての価値を定量的に定義できるようになったため、
その定量的な客観的、つまり、本来存在しなかった知能にとってだけの価値、刺激を
作り出すに至った。この価値・刺激は自然界に存在しないが故に、
想起によってその刺激・価値を生じさせるか方法がなく、
逆にこの刺激・価値の為に想起の機能が必要となったということにもなる。

その最初は何になるか。
価値の交換か。
物々交換か。
互いに価値があると思った対象について、互いに同じ認識ができるように決めた価値・刺激。
これが実際、何のきっかけで作られたのかは今は分からないが、
価値の定量化、それ自体を行うことが出来るようになった事で、
自然界に存在しなかった価値を作り出した、作り出せたという事になる。
これが、結果的に自然界に存在しないあらゆる根幹の要素という事になる。
つまり、その結果として、自我や知能に至ったのではないかと考える事もできるというわけである。

つまり、自我においては、自と他の差において、
互いが共有する価値に対して、各自の価値観を持つということがその起因ということになる。
知能においては、その想起の機能が、その想起において再現される価値の比較という機能が、
結果的に知能に至ったと考えることが出来る。

価値の定量化の概念。

価値を定量的に扱うことで新たな価値を作り出すことができるという考え方。

知能というより思考の根源ということになるか。

想起が最初か、定量的な価値が最初かという問題については、
共通する価値を最初に定量化という価値に置き換えたものが最初であると考えられる。
これは、互いに価値があると互いに了解することで、互いの価値を共有化し始めた事を起源として、
つまり、貨幣の概念。石のお金とか、木の実とか、互いに価値があると認識する対象を経由することで、
その価値を定量化したということになると考えられるので、
価値の定量化が先と考えるのが自然だということになる。
ただし、定量化の概念自体は、その価値を記憶して想起できる必要があるため、
基本的にこの手のどちらが先かという考え方自体は、双方が互いに双方を補完するという意味で、
同時と考えるのが自然という事になる。
つまり今回で言えば、知能にその想起の機能があり、定量的な価値の概念が新たに想起の機能の一部として
認識されるようになったと考えられる事になる。
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刺激・価値が定量的に扱うことが出来るようになる事に、どのような意味があるか。

想起的欲求という考え方の対象となる刺激や価値が存在しうるようになる。

つまり、
個体が固有で持つ基本的欲求の対象となる刺激や価値ではなく、
互いが互いの持つ刺激や価値について互いに定量的にその刺激や価値を認識できるようになるという事である。
これは、ある対象の刺激・価値に対して、その刺激・価値をもつ個体差の差を認識することが出来るという事になる。
つまり、個体の持つ価値の差を認識できるという事である。
能力の差、貧富の差、力の差、権力の差、
つまり、共有する価値を経由して、その互いの存在についての差を認識できるようになるという事である。
これは、個体の差、個体を差別する基本的な要素ということにもなる。

ここにおいては「差別」を悪い意味で扱わないが、
知能が行いたい事は、2つの対象の差別である。
つまり、価値を比較することが行いたいわけである。
重要な刺激・価値とそうでない刺激・価値を分ける事。
この考え方はこれまでの考え方の通りである。

個体差を認識するために、個体が持つ能力などを客観的に刺激や価値に変換する。
それが直感的、つまり、感覚的でない刺激が比較として用いることが出来るという事。
つまり、自分の中にある価値でありながら、
客観的に自分とその他の差を認識することが出来るという事になる。

つまり、自分が持つ価値観で、主観的な評価と客観的な評価をそれぞれ行うことが出来るようになる。

それはつまり、自分を対象とすることもできて、
自分で自分の評価をする事、自分で客観的な自分の評価をすることが出来るという事にもなる。

本来自然界の生命においては主観的に自分と他の差を比べるために、
単なる力比べや威嚇、闘争などを行い、その差を認識していた。

それが客観的な定量的な価値基準が設けられた事によって、
直接的な比較を行うことなく、自分の認識だけにおいてその差を認識できるようになる。


定量的な刺激や価値は、本来は自然界における最も基本的な刺激や価値であるはずである。
大きい、小さい、重い、軽い、たくさん、少ない、早い、遅い、
その情報の要素を知能が認識するには個体差がある認識によって行われなくてはならない。
だから、自然界の動物はその比較に直接的な比較として力比べ等の争いを必要とした。
自分の個体が優れているのを示すためには直接比較するしかないのである。

定性的にどちらが優れているか主張しあっても、それは比較のしようがない。

人間が比較自体を放棄することは無い。
生命であるが故の「生きざるを得ない制限」でもある自分が優れているという主張をするためには、
他と比較する必要があるからである。

主観的に比較できるような刺激・価値においては、
スポーツや競技におけるような直接的な比較もできるが、
それ以外の刺激・価値については基本的に定量的な刺激・価値による比較を必要とする。

人間の知能が、それ以外の比較の方法を必要としたのか、
その始まりは所有の概念、そして交換の概念になるか。

所有の概念は、その知能において、その物体の刺激・価値の認識が必要であり、
それを所有する概念、認識が必要になる。
つまり、自分のモノという価値、認識である。
これは、あくまで主観的な価値であり、他と共有する価値ではないのだが、
自分自身にとっては価値ある対象という事になる。

これを他の価値と交換する場合、
その価値は自分自身の価値評価において等価以上でなくてはならない。
つまり、まず自分の所有の対象の価値を認識し、
他が持つ対象の価値を自分で認識し、その価値比較において、
自分の所有の品が、他の対象の品の価値未満でないことには交換が成り立たない。
逆にそれが成り立てば、互いに交換が行われることになる。
そして、その交換は、2つの対象において、定量的な価値の比較が成立した事になる。
その2つの対象においてという制限、条件付きということになるが。

一度交換が成立してしまえば、後はその交換の概念として、
2つの対象を交換するという経験は、価値を交換する経験としてその行動が認識、記憶される。

交換の交換として物品の交換を経由するという事も関連して容易に思いつくことになる。
つまり、何らかの物品の価値を経由して交換する事もできるという事になる。
人類において一番最初の交換さえできればという事になるが、
その後はその繰り返しや模倣で、交換は共通の行動にすることは容易だろう。

所有の概念が無かったとしても、
人間以外の動物には、好意の相手にプレゼントをするという動物もいるし、
プレゼントの交換があれば、その関連として交換の概念にも行き着く事は考えられる。

その後、所有の概念を持てば、価値の交換にも行き着くことになる。

特に人間はそのコミュニケーション能力が高くなったために、
他の動物よりもその交換に関する能力は高かったとも考えられる。

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後半は少々取り留めのない思い付きになったが、
簡単にまとめてみると、

価値の定量化というのは、
主観的な刺激・価値でない対象について比較する場合に必要となる要素であるという事。

想起的欲求の対象となり得る価値であり、
価値観として記憶され、想起によって生じる刺激・価値であるという事。

その起源は、所有の概念であり、
後の交換の概念で必要になったのではないかという事。

発展した話としては、道具の所有によって、自分のモノという、
自分が所有する価値としての物品の認識が行われるようになったのではないかという事。
さらに言えば、自分の客観視にも関係するのではないかという事。
つまり、行き着く先は自我の認識。

現在の人間の知能においては当然のように扱われる概念であり、
実際、現代のほとんどの比較は定量化された価値で行われている。
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今回はこの辺で。

254は今日考えた内容に追記する形で翌日にまとめたので、
内容が少し関係・関連している。


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