2023/3/26

意思のきっかけとしての想起的欲求

感情についてはその分類の定義について課題が残っているものの、
その判定材料としての考察する要素が足りていないようなので、
改めて他の要素について再考してみることとする。
その中で、人間が何かを意識的に行う事、
つまり、何らかの意思でその目的のある行動を行おうとする、
そのきっかけについて考えてみる。

基本的に人間の行動のもととなっているのは欲求であり、
そこに与えられる条件や要素というのは刺激である。
生体として何か不足した要素が存在するようになる事によって、
人間は欲求となる刺激を認識することになる。
そして、その欲求の刺激を認識することによって、
それに対応するべく、その欲求の対象について、
それを得ようとする目的を作り、認識し、行動する事になる。

生体においては欲求の元となるのは、その多くが何らかの不足に対する刺激である。
これは自己の保持の為に必要となる。
生体として自分自身を維持するためには、どうしても必要となる事となる。
この要素については、自分の意思と関係なく、
必要な欲求として、その目的が生じる事になる。

ただ、もし、これらの欲求が生じない状態ができたとして、
この状態で何らかの欲求が生じる条件なり、要素なりが存在するなら、
それは人間並みの知能において意思として考えられる目的を生じさせるための
欲求もしくは、その要素として考えられるものとして捉えても良いはずである。

人間の活動において、その行動の目的となるほとんどのきっかけは、
感覚や、五感による刺激が元となっている。
これには、五感の刺激の他に、生体としての刺激として空腹や疲れ等の、
基本的欲求、食欲、性欲、睡眠、排泄、その他、内臓の感覚等の、
つまり、知能が自ら想起する事の無い刺激である。

環境から与えられる、もしくは、自身の生体から生じる刺激については、
想起に頼らない刺激であり、人間の行動の目的は、
ほとんどが、これらの刺激を元にして、その刺激に対する対応として、
その目的を生じさせ、行動に至っている。
つまり、これらの刺激は、人間に関わらず、他の生物においても同様として考えるならば、
人間の知能において、これらの刺激は特別ではなく、
他の生物の知能であっても、同じような欲求や目的のきっかけとして扱われる事になるということである。
となると、
人間であっても、そうでない生物であっても、この想起に関わらない刺激というのは、
共通して存在する刺激であるという事になり、
逆に、想起に関わる刺激が、人間の知能に特有の刺激になるのではないかという事になる。

そして、今日考えていた事なのだが、
それらの環境や自身の生体から生じる刺激がない状態というのを考えた場合、
そもそも人間として、生物として存在する必要があるのか?という疑問が生じた。
つまり、何ら過不足の無い状態において、その欲求となる刺激が何も生じないのであれば、
それは生物として生きている必要があるのか、生物である状態なのかという疑問である。
何も感じない、不足もない、刺激もないのであれば、何かを欲する必要もないという事になる。
それでもなお、目的を持って、価値を求めて刺激を手にしようとする必要があるのか。

人間がその生体における不足に対してその欲求を満たすための目的や行動を起こすのであれば、
それはその意思のきっかけとなるのは、その不足などの刺激である。
であれば、もし、これらの生体における不足が生じない状態で、
人間の知能が活動しうるのだとしたら、そこには環境や生体から生じない不足という刺激が必要になることになる。
不足という考え方でないとしても、その何らかの対象に対する欲求が必要となる。
つまり、この与えられる刺激が無い上で、
それでもなお欲求として作り出しうる刺激というのは想起による刺激だけという事になる。

ということは、人間が環境や自身の変化に対応すべく持つ事になる目的に対して、
自身の自らの知能における欲求となる刺激は、想起によって生じる事になるのではないかというわけである。

つまり、生体として何か不足しているわけではない、
環境から変化を受けて対処する必要があるわけではない、
それでも何らかの価値を刺激を欲して欲求とする刺激を生じさせること。
これに想起が関わっていると考えられるというわけである。

つまり、与えられたり、自発的に生じる刺激でない価値として、
自身の知能が持つ価値観において、その知能が自らその価値や刺激を欲するという事において、
想起による刺激が、その欲求の目的のきっかけになりうるというわけである。

つまり、基本的欲求でない欲求として、想起される欲求があり、
その想起される欲求のきっかけとして、想起される刺激が存在する事になるというわけである。
とりあえずこの刺激による欲求を「想起的欲求」としておく。

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これまでの考え通りであれば、
基本的欲求に関する刺激の方が、想起的欲求よりも強い刺激になる事が多い。
直接命に関わる刺激や欲求であるために、優先度としての価値観が異なる。

では、この想起的欲求としての刺激がどのようにして生じるのかについて考えてみると、
まず、刺激となる条件として、価値観にこの刺激となる価値の記憶が必要となる。
これは、その時点より過去において、その対象となる価値を経験して認識し、記憶しておく必要がある。
そして、その刺激が想起される条件として、その対象となる刺激に対する関連した他の刺激が必要となる。
知能が、脳が、突然、ある対象の刺激を想起する事はないので、
その想起に関連した他の刺激の関連が必ず必要となる。
この関連については、基本的欲求にある感覚の刺激である場合もあるし、
想起だけで関連した刺激である場合もある。
いずれにしても、想起の対象として別の関連した刺激は必要となる。
そして、その想起が生じるための条件として、現在の環境と自身の状態が受けている刺激が条件となる。
これは、先の最終的に想起されるべき想起的欲求の刺激が想起されるために、
その関連した刺激がまず想起される必要があるのだが、この関連した刺激が想起されるための条件として、
またさらにそこに関連した刺激の想起、または、現在その知能が置かれた環境と、個体の状態が認識している刺激が、
その想起的欲求の刺激に関連した刺激を想起するだけの励起が行われているという必要がある。

この励起が行われていれば、その刺激の励起によってそこに関連している刺激が励起され、
最終的に想起的欲求となる刺激の励起、つまりは、その認識に至るという事になる。

例えば、私が今考えているこの考察は、私の生体にとっては別に生きるために必要な欲求ではないし、
目的でもない。それでも、私が目的として掲げ、価値ある行動であると認識して、思考し、考察を続けているのは、
その思考することを価値と記憶し、価値と決め、自らの意思で思考する事を欲して目的としているために、
今ここで思考しているという事になる。
そのために、条件として基本的欲求において特別強い刺激を認識していない状態であり、
例えば空腹だとか、トイレに行きたいとか、そういう刺激が無い状態で、
特別うるさいこともなく、眩しくも暗くもなく、そのような条件が整った状態で、
私の思考において、すぐに行わなければならない用事もなく、
それでも価値を欲する事として、この考察、思考を行う事を欲して目的としているという事、
その想起に至っているという事である。

似たような言葉であれば「衣食足りて礼節を知る」が近いだろうか。
つまり、生きるための余裕ができた上で思考は行われるという事である。

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人間の知能が、想起的欲求を生じることができるようになったのは、
生体の維持としての生活などの余裕が生じたことも一因であると考えられるが、
それ以外に「想起」の機能の存在が非常に大きなものであるという事になる。

232で「想起」の機能について考えた事があったが、
感覚器官から得る情報や要素としての刺激は、
脳内のある神経細胞ネットワークと同期していて、
感覚器官から得ている情報は、その神経細胞ネットワークの励起と同じ意味を持つという事になる。
この神経細胞ネットワークの励起は、単位化、符号化、仮想化という点において、
脳の記憶そのものの機能であり、
その脳内で記憶された刺激を、感覚器官から受ける刺激をきっかけとしない励起の方法が
想起という事になる。

つまり、想起的欲求は、知能が想起することによって生じさせている欲求であり、刺激であり、
それを欲求として認識することが出来る事が、人間の知能が他の知能より優れているという点になる。

そして、その事は、想起が知能において思考や想像などの機能として用いられる事にも関係する事になる。
つまり、環境や自身から得る事になる刺激でない、知能が独自で記憶した刺激が、
あたかも実際に存在する刺激であるかのように再現、再構成される事、その事が、
知能の様々な機能として働いているという事であり、
今回の想起的欲求も、記憶されていた刺激の中から価値ある対象として欲求や目的の対象として想起される事、
そこに関係しているという事になる。

今回当初に考えていた内容では、
最終的に意思は、生体が持つ基本的欲求を元にして、
関連して想起される欲求の刺激ではないかと考えていて、まとめようとしていた。
しかし、実際は、その想起自体が、基本的欲求だけでなく、
脳内に存在しうる刺激、五感や、生体の刺激、想起による刺激も含めて、
その関連して想起、励起した結果として生じ、
その一機能として想起的欲求において、その欲求の刺激が関連して励起、想起される事になるという考えに至った。

つまり、人間が意思をもって、何かを目的とするそのきっかけは、
人間の知能が、その今、生体として自分が受けている刺激に関連した、
記憶の中にある価値、価値観から関連して励起、想起される全ての刺激の中において、
想起的欲求として考えられる欲求の刺激が想起され、認識に至る事がそのきっかけであり、
この場合に、意思としてその欲求を求める事を目的として、行動する事、それが意思ある行動という事になる。

つまり、「意思は、想起的欲求を想起する事」という事になる。

つまり、想起的欲求が認識された時点で、その欲求、欲求の刺激は再構成されて知能内で存在しているわけで、
それこそが次の行動や意思の励起・想起に至るための関連の元になるというわけである。

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つまり、反射的でない刺激に対する意思ある目的や行動というものは、
その時点の刺激の認識において、
一度、仮想的な思考の中における欲求の刺激を想起する事によって設定され、
その次の目的や意思に関連していくという事になる。

つまり、この次に私が考えたい意思は、先の意思の認識の次の認識という事になる。
つまり、と書いて、「つまり」を何度も書くのは格好が悪いと感じるのも、
私の考察に関連した入力の最中に認識される想起的欲求として、
別の表現を用いた方が格好が良いと思考する起点となっていたり、
この今感じた事をそのまま書くことによって、上記の内容を説明する事になるだろうという目的を認識している
事の説明にもなると思考して認識していたり、
つまり、意思はその次の意思に対して関連していて、
そのまた次の意思に関連していく。
そして他の刺激によって中断(=割り込み)されるまで一連の関連は続いていく。

反射が必要な刺激に対する認識と、
想起による刺激に対する認識、
これを起点として、想起による欲求、つまり想起的欲求の刺激を想起して認識し、
これによって目標や目的が作られ認識される。
それに対して人間は行動し、次の変化点となる刺激が認識されるまでその行動が継続される。
これの繰り返しが人間の知能による活動という事になる。

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実際この繰り返しにより、経験としての刺激や価値、価値観が記憶され、
次の行動や欲求に対するフィードバックが行われる。

通常は既存の思考を再び想起する方が楽であるので、
普段の行動や目的というのは習慣として記憶している欲求や目的に従う事が多い、
しかし、新しい事を考えようとした場合、
その時点で「新しい事を考えよう」という欲求となる刺激が付け加わる事になる。
この時点で、例えば生活習慣であるとか、今の私であればこの考察の思考であるとか、
新しい何らかの刺激となる要素を関連させようとする事になる。
それを自身で欲求する、欲する、目的とするのである。
これを自身の意思として次の知能活動、実際の行動に反映しようとする。
思考などもこの流れと同じになるだろう。

という事は、さらに根源的な事を考えると、
環境や自身の生体に関する刺激によって欲求が発生するということは、
生物として、その存在に対する発生の理由として考えられる対象となる。
つまり、誕生した自身の存在が、その環境の中で存続することを目的としているという事。
そして、知能の存在は、
その自身の存在が、周囲や自身から与えられる刺激だけによって存続するのではなく、
自発的な欲求を持つ事によって、周囲や自身に対して適応しようとするその欲求そのもの、
つまり、「意思」ということになるのではないか。

生命が存在する意義にまで考えてみると、
生命が存在する事は、自然界においては別にどうでもよい事という事になる。
宇宙の中にあって、地球が存在しようがしまいが、生命が存在しようがしまいが、
宇宙にとっては関係のない事である。
しかし、地球があり、生命が誕生し、その中で生命は知性を得て繁栄した。
生命はその誕生においてその存在自体を自然界に任せても良いはずだった。
しかし、生命は自ら選択する事を選択した。

つまり、自ら変化しうることを自身で受け入れる事によって、
自身の変化を許容し、適応しようとしていこうとする存在が生命ということになる。

話が最後は脱線したが、
今日はこの辺で。

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2023/3/27 追加

昨日の考え方で思考的欲求として考えて書いていたが、
実際の反応が想起的に生じた価値・刺激であるということから
想起的欲求に変更する。

つまり、意思というのは、
その想起的欲求が刺激として認識される事で、
その想起的欲求がそれまで認識されていた刺激によって想起され、
その想起的欲求が励起、想起、認識されることによって、
その刺激が欲求として認識される事、
これは、基本的欲求と異なり、環境や生体の変化から生じる刺激や欲求ではなく、
想起によって思い出される刺激・価値として、
その認識によってその価値を欲するという認識の事となる。
想起によってこの刺激・価値が認識されるだけの強い刺激であり、
それが認識されることによって、その価値の高さゆえに欲求に至るという事になる。

ただし、
これは、基本的欲求でも同じことだが、
欲求を認識したからといって、必ずその欲求を得るための行動を選択するということはなく、
あくまで、その欲求を認識した状況において、
その欲求を満たす行動を選択できるかどうかというのは異なる条件となる。

これは、234で考えた自由意志の件で言える事で、
自分が欲した事を条件なしに選べるわけではないという事から考えられる事である。

そして、この想起的欲求が意思に関係する事として、
意思として何らかの目的を持つのは、
その対象となる刺激・価値が認識されることによって生じる欲求がそのきっかけとなるが、
このきっかけが、基本的欲求による刺激や価値だけでなく、
完全に脳内、知能内だけから生じた刺激・価値をきっかけとする場合もあるという事になる。
つまり、環境や生体の状態の変化から生じた刺激ではなく、
脳内・知能内で、関連する刺激の励起から想起された刺激・価値が生じ、
その認識によって、それを欲する欲求に至る事になるというわけである。

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