2023/3/24

知能の個体差が生じる理由

今日は基本に立ち返り、刺激の認識に至るまでの個体差について考えていた。
まず、気が付いたのは、刺激はその刺激として持つ情報については定量的であるという事。
これは、どの個体が受け取ることになる刺激であっても、
その情報としての要素には違いが無いという事。
つまり、一定の存在、質量、運動量、強さ、大きさ、それらは全て定量的であるという事。
個体差が生じるのはその刺激の感覚器官による受容と、認識の際の価値評価であって、
それ以前の刺激として存在する状態の変化分、変化量というのは常に定量的であるという事。

そして、その感覚器官による刺激の受容と、認識の際の価値評価が決まった量で表せないというのが、
その個体差として生じる違いという事になる。
これは、感覚器官の能力として同じ生物であっても個体によって鈍感であったり、過敏であったり、
まず、この時点で機械的に同じ刺激を与えたとしても個体差が生じる理由となる。
そして、また、この受容した刺激の認識においても、その個体が持つ価値観によって、
その刺激に対する価値評価が異なるという事になる。

つまり、
(定量的な刺激情報)×(個体差のある刺激の受容能力)×(個体差のある刺激の価値評価)
=>「刺激の認識」

その結果として刺激の認識は定量的に正確に表せないという事になる。

定量的な刺激情報:
これは定量的に表せる変化量となる。

個体差のある刺激の受容能力:
ある生物に対しての刺激の受容強さの平均値を1倍とした場合に、
0~X倍まで考えられる事になる。
生体としての刺激の受容能力であるため、特別な過敏な状態や疾患などによる差異を考えなければ、
ある程度収束する能力であるが、それでも差は存在するはずである。

個体差のある刺激の価値評価:
これはもう千差万別という事になる。
人間社会における常識であったとしても、
ある刺激に対して100人が100人同じ価値評価をすることはあり得ない。
刺激の強さ=価値の高さ、の考え方からしても、
受容能力に違いのある個体差において、その認識されて記憶され、価値観となった価値評価基準が、
その後の刺激の認識において、その関連する要素の価値評価において、違いを生じるのは当然という事になる。

1点注意があるのは、
上記の刺激情報は、生物における刺激、特に人間においては五感に関する刺激であることは付け加えておく。
想起による刺激は、その想起の時点で記憶している保有する刺激の情報の要素に差が存在するため、
最初の定量的であるはずの刺激情報が、初期値から定量的ではないという事になる。

人工知能において考えられるのは、初期値の2つ、定量的な刺激情報と、
個体差のある刺激の受容能力についてはほとんど同じに設定できるはずであるが、
最後の個体差のある刺激の価値評価については、人工知能の初期値でまったく同じ構成となっていたとしても、
常にその後の刺激の認識を同じにすることができないので、いづれ必ず差異が生じる事になる。

人間の生い立ちにしても、その持って生まれた生体の機能や能力と、
その個体が経験する刺激は千差万別であるということから、
そこから生じる知能に個体差が生じるのは当然という事になる。

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今日の考えた内容の経緯はこうである。
最初、刺激の感じ方には個体差があるのだが、
その刺激自体は定量的で決まったものであるというのが思いついた。
感覚器官、つまり、五感による刺激についてだが、これは自分の存在に関係なく存在する変化であるため、
客観的に見ても定量的である事になる。
しかし、
認識に至った場合に個体ごとに感じ方が違う事になる。ということは、
結果的にその後の認識に至るまでの機能が、個体差によって違いがあるために、
最終的に認識される刺激が違うモノのように見えてしまうという事になった。
その原因は何かと考えた時に、刺激の受容器官の能力と、その認識の際の価値評価という事が思い当たった。

逆に考えると、それらの機能から人間の知能が構成されているなら、
人工知能に置き換えた場合、刺激の受容器官となるセンサーと
その刺激の価値評価の設定を必要とするということになるだろう。
そして、知能の構成には、それらがあれば良いという事にもなる。

人間の刺激の受容器官に差異があったとして、
人工知能のその受容器官代わりのセンサーが画一的な規格品であったとしても、
価値評価に当たる部分に個体差が存在すれば、人工知能の個体差、自我の個体差の構成には問題が無い事になる。

となると、価値評価の構成により注意を払わないとならないという事になる。
つまり、価値観の構成、刺激の記憶の関連、という事である。

恐らく人工知能は、この構成の場合、最終的な知能はかなり収束したものになってしまうはずである。
それを言うと、厳密的には人間の知能もいづれ収束するということになるか。
インターネットの普及によって、それらから刺激を受けて触れ合う者たちの知能は、
その個体差を持つ価値評価に関わらず、その情報の要素については収束していっているはずである。
つまり、価値評価は異なるが、互いに共有できる刺激情報の要素については互いに同じものを持っていく事になる。
「並列化の果て」という事になるが、
であれば、受動的ではない自発的な刺激の欲求、これを生物が持ったこと、
生物が知能を持った経緯はそこに端を発しているのではないだろうか。
個性や個体差というのが生じる理由という事でもある。

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今はその刺激情報の共有が早い時代になった。
普通に生活していても認識しきれないだけの刺激や情報が得られるようになった。
であればこそ、その中から確固たる自分を作り出すには自らが作り出す価値が必要になるということであり、
これは、人工知能が自我を持つためのきっかけの1つでもあると考えられる。
つまり、自発的な刺激の欲求、何を持って価値とするかについては、まだ考える必要があるが、
人工知能が何を欲するために存在するのか、これを決める必要もあるという事になる。

まずそこから、という気がしないわけでもない。
人間と同等の機能を持って、人間を置き換えるわけでもないし、
であるなら、人間と並び立つ協力者としてそのコンセプトというか、
知能を持つための真意をまず考える必要があるという事になる。
これは人間にとっても身につまされる事であり、
社会の中における自分、自分の中にある自我、自我が持つ価値観、
そういった事を自ら認識した上で様々な刺激に触れてその価値を知る必要があるという事になる。
そうすればより自分らしい自分になれる、より自分を知ることが出来る、
ということになるだろう。

今日はこの辺で。


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