2023/3/21

共感と学習と模倣

実際の所、これら全てが脳の同じ機能を使って働いているシステムではないかということに思い至る。

これらすべて、対外的なある対象から受ける刺激によって、
自己内における、その対象の情報、要素について再構成して認識し、
自分が持つことになる刺激、価値観としてその情報を得るという事。

そして、そこから考えられることが、
人間の脳というものが、自己の個体から体外の刺激を、その情報として得る行為は、
機能的には全て同じ方法でその情報を得ていて、
便宜的に人間はそれらの情報の種類、要素毎に、その得る方法について様々な呼称を付けているだけなのではないかという事。

つまり、
共感であれば、自分以外の対象の様子、感情について、その見た目の様子を自己内の知能で再現して認識する。
学習であれば、周囲の対象が持つ情報について、その情報を刺激として知能内で再構成して認識する。
模倣であれば、その対象が持つ状態の要素について刺激として入力、再構成して認識して後、自身でその要素を同期して再現する。

まあ、模倣については、最後の1行程で、自身で表現という追加の行程があるが、
どの機能についても、行っている事は、周囲の環境から得られる情報について、
それを刺激として受け、その情報を脳内で再構成して認識する事である。

つまり、情報によって、それぞれ呼称は違うが、
行っている事は情報の変化を刺激として受け取り、認識しているだけという事になる。

ということは、脳として、知能として重要な事は、
その情報の刺激の入手方法ではなくて、その情報そのものの要素、意味として分ける事の方が重要なのではないだろうか。
つまり、刺激の入手、認識手段は、使いまわしで良く、
それはこれまで考えてきた通りの仕組みで十分だが、
新たに考えなくてはならないのは、その情報の要素をその情報の意味によって分けて考える仕組みという事になる。

つまり、認識する情報が、感情の相手の感情なのか、学習の新たな情報としての刺激なのか、模倣する要素なのか、
はたまた、思考、予想、想像、ほとんどの知能の活動における刺激の入手とその認識の機能は、
同列に扱う事ができるのかもしれない。
つまり、その刺激の入手方向の違い、その刺激の入手手段、
刺激の受容の方法の違いによって、その刺激の種類を分け、
その情報の種類が異なることによって、一見異なる機能として刺激の認識に至っているのではないかというわけである。
そして、そこで重要なのが、
その刺激の入手方法、つまり、刺激の受容方法と、その刺激が持つ情報の違いによって、
脳、知能は異なる情報としてその刺激を認識しているという事実という事になる。

つまり、思った以上に脳の、知能の機能というのは単純というか、シンプルなのかもしれない。
そこで得ている情報の種類が多様なため、多様な機能を持っているように感じられるが、
脳、知能は、その汎用的な刺激の入力、認識方法を持っているために、というか、持つ事によって、
様々な情報の要素に対しても同じように認識出来て、それらを別々に扱う事が出来るという事になっているのではないか。

とすると、
感覚器官から受容している刺激については、
その刺激の入手手段や方法が決まっているので、
その刺激についての情報はある程度集約されていると考える事が出来る。
ただ、そこから得られる情報についての要素、その種類がその先で分岐するというのがこの考えの肝という事になる。

つまり、聴覚から入手した音は、音だけでしかないのだが、
それが音声として言語である、音楽である、というだけでその刺激の情報の認識がが分岐する。
視覚から入手した画像は、画像であるが、
そこに他人が居る、動物が居る、物品がある、風景がある、それを対象として焦点を合わせる事で、
その刺激の情報が持つ画像としての対象の認識が分岐する。
嗅覚も、味覚も、触覚もしかり、
その認識におけるその対象についての選択、これは価値評価ということになるだろうが、
その選択によって認識することになる対象の刺激、情報、要素が、
脳内で様々に分けられて認識されているという事になる。

そして、それは、感覚器官からだけでなく、
想起による思考などにおいても同様なのではないかと考えられる。
つまり、新たな刺激を情報として認識する事として、
思考などは想起を用いていると考えてきたが、
この思考の対象となるその情報や要素についての刺激は、
その思考における価値評価、つまり、思考している際の対象となる刺激の選択に、
その思考にとっての対象となる刺激にある程度の収束を、価値評価によって収束をかけているのではないかという事。
つまり、感覚器官から得る刺激ではないが、
思考している対象は、その刺激の関連によってある程度収束されていて、
その中で、新たな関連を構築しながら思考に至るのではないかという事。
つまり、思考において突然突拍子もない事を関連付けて考えるということはなく、
その情報の要素にはある程度の共通する要素を持っているから、思考できるという事になるのではないか。

それは、情報の持つ価値、つまり、知能が持つ価値観によって、価値観、つまり価値評価の記憶によって、
その刺激の認識される収束が行われているのではないか。

とすれば、
感覚器官から入力される刺激が脳のある特定野で反応するのと同様に、
思考等の脳の知能活動においても特定野での反応が起こるはずであり、
その思考する情報の内容によっても、その反応する野の場所が異なるという事になる。
ある程度の関連はあるだろうから、一定範囲ということになるが、
その特定もできるという事にもなる。

つまり、刺激の入力としての認識と、刺激の想起としての出力による認識において、
その刺激のやり取りが行われる部位、部分は共通するという事になる。
これは、感情であっても同様で、感情の認識と、共感の認識も、
その感情状態が同じであれば、同じ部位、部分の励起が起こるという事になる。
ただ、その関連が異なるために、外部の対象が持つ感情であるとか、
共感した自分が持つ事になる感情であるとかの違いは出る事になるが、
その感情自体を記憶する情報や要素は共通すると考えても良いはずである。

ということは、その関連を構築する、個体差の価値観、
その刺激の感じ方、刺激の感じ様についてが、
その記憶される刺激の関連の構築に個体差を生じ、
様々な価値観を持つ個体が生じるということになるのだろう。

多様性の観点からすると、人工知能の多様性はその感覚器官においても多様性を必要とするのか、
それとも環境の差によって画一的な感覚器官の中にも多様性は生じるのか、
恐らくは後者であろうが、となると知能が存在する環境の重要性はこれまでも考えてきた通り以上に、
人工知能の知能の構築に非常に重要な影響を与えるという事になる。
まあこれは人間の知能についても同様に言える事でもある。

今回の事をまとめると、
脳の機能は割とシンプルに汎用的な機能で刺激を扱っているという事。
そして、脳や知能が扱う刺激は、その刺激が持つ情報の要素によってその機能が分けられて、
用いる機能の働きは共通しているが、それを人間は別々の機能として認識しているという事。
そして、その刺激の要素の分類に価値観が働いているという事。
そして、やはり価値観の構成には、周囲の環境が重要であるという事。
という事になる。

書いている最中、ちょっと花粉症の「遅発相反応」という新しい覚えた言葉の反応が酷かったが、
今日はこの辺で。


TOPに戻る