2023/3/17

感情と想起の関係

これまでの考察から、
感情は認識したり、認識する価値の差によって生じる刺激だという事になる。
この価値の差については、
その時点で未来に期待していた価値に対する実際に発生した価値であったり、
予想していなかった急に発生した価値の変化であったり、
そういった、ある対象についての評価となる価値が、
時間経過によって変化した場合に、この価値の差が生じたという事になる。

例えば、期待していた価値よりも低い価値を得た事に対する怒りであるとか、
急に対象を失い、その価値を失ったことに対する哀しみであったり、
逆に急に思いがけない価値を得た事に対する嬉しさなどの、
時間経過によって生じた価値の変化、価値の差という事になる。

そして、これは、ある対象についての認識において感情が生じているなら、
その対象が、価値の変化であるとするなら、その価値の変化、価値の差の認識によって、
感情が生じているという事、そして、それは、その感情に関わる刺激が存在するという事になる。

つまり、感情に価値の差という刺激が関わっているのではないかという事、
そして、
上記の怒りや哀しみ、嬉しさなどの感情らは、
価値の差に対する認識によって生じた刺激ということになる。

これは、新たに手に入れた刺激ではないということ。
つまり、既に記憶していた要素で再構成されているということ。

つまり、きっかけによって想起した記憶の要素によって、
感情が再構成されて刺激となり、それが認識されたという事になる。

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感動について:

例えば、
他人が頑張っている姿を見て感動して泣く。

これは嬉しさによって泣くことであるが、
その他人が好きな対象であり、
その対象ががんばって何らかの価値を得ようとしている事、
それについて頑張っている姿について、
自分の中での価値ある対象が、価値がさらに高まる事についての嬉しさという事になる。
嫌いな人が頑張っていても泣くまでには至らないだろう。

共感であっても、感動であっても、
自身が持つ事になる感情においては、
他人の頑張りという刺激は、本来、自分が持つ事になる刺激ではないはずであるが、
その様子を見て、自分にもそのがんばりの経験があれば、同じような刺激が想起され認識されることになる。
または、がんばりの経験が無かったとしても、その様子を見て、新たにその刺激を思考して構築することになる。

これは、自分にとっては新たな感情の創作、
認識する感覚としては感情の高ぶりということになる。

個体差はあるが、一定の強さの刺激によって、
強い刺激の認識となる。

ということは、
感動とは、新しい強い刺激の認識。

特に感情に関わる刺激の認識に対して起こる。

つまり、感動とは、
自分が持つ感情に関する刺激において、
新たな強い刺激の想起と、その認識において起こる事。
ということになる。

感情の価値観の更新、これが感動という事になる。

以前も書いたことがあるが、
年齢とともに感動しなくなり感情が薄れるのは、
この感情の刺激に対する慣れという事になる。
そして逆に、年齢とともに涙もろくなるのは、
記憶する感情の経験、刺激が増える事による共感の働きという事になる。
実際、涙もろくなるのは脳機能の衰えであると以前、
チコちゃんに叱られるで見たので知っているが、
若くても涙もろい人もいるし、逆に年齢が高くても泣かない人もいる。
脳の機能としての制御が年齢とともに衰えるとしても、
その感情の刺激について強く記憶している人、つまり強化されている人は、
感情の刺激が反応しやすい、感情豊かな人という事になる。
感情の記憶が強いか弱いかが良い悪いということにはならないが、
特定の感情に関わる刺激についてのその強度の個体差というのは確かに存在する。
これも以前に書いた逆鱗の話でもそうであるし、
その個体によって感情に関わる刺激については、
その個体毎の要素と関連の強さが存在するという事になる。
そしてそれらには個体差があるというわけである。

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人工知能であればどうするか。
これらの価値の差を認識する事によって、
人間は感情を認識するなら、
人工知能も価値の差を認識することにおいて、
人間と同様に感情を認識するように実装すれば良いという事になる。
つまり、その感情となる刺激の状態を認識するようにして、
この状態を感情であると設定する。
つまり、価値の差について、何らかの評価をして、
その評価について価値を想起(=刺激の想起)するようにすればよいという事になる。
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2023/3/19 追加

感情の認識においても刺激の認識としての関係があるのであれば、
認識の観点から、感情という記憶が存在し、
感情という刺激が存在し、感情を再構成した上で認識するという事になる。

つまり、感情も遺伝として、本能としての先天的な反射に近い反応を起こす記憶、
記録と言った方が良いか、その対象と、後天的な記憶、学習によって得ることになる記憶としての感情、
その2種類が存在するということになる。

通常、知的に御しえる(ぎょしえる)感情は、
個体差を持つ、その個体にとっての最大の感情レベルがあり、
その感情レベル未満であれば、その感情を認識するが、
その認識において、まだその対象の関連についての思考や想起が行える状態が存在する。
そして、
その感情レベルを超えると生体の遺伝的反射に近い感情の反応を起こすことになる。
つまり、自分でも抑えきれない感情や情動、感動という事になる。

基本的に生体の保護、存続の観点から考えると、
個体が認識に許容しえない刺激の強さを受けた場合に、
どのように反応するのかについて考えると、
後天的に得る記憶による反応よりも、本能、先天的に持つ機能で反応する事が予測できる。
本来認識しえない刺激であるはずなので、
その知能がその刺激には反応できないのは当然という事になる。
とすると、人間の感情には、自身でどうにもならない感情の反応も存在することになる。
実際、カッとなったり、魔がさしたり、気が付いたら、などという行動を起こす場合があり、
後で思い出してみると~であった。などという事もある。
一度経験し、記憶した刺激であるなら、後にその対応として知的な反応をすることができる場合もあるが、
元々許容できない刺激であれば、次も同じことになる事も考えられる。

以前にも人工知能はその刺激の強さが定量的であると考えたが、
この場合、人間の定性的な刺激の強さは人工知能に理解しうるか、その必要があるかという事になる。
個体差として切り分けて考えるか、量子コンピュータの様に複数の状態を同時に持つ可能性を残すか、
複雑な感情の状態を表すのは人間自身、自分自身にとっても難しい事である。

それでも感情を何らかの定量的なもので表すことについて考えるならば、
答えになるのは「共感」であると考えている。

共感自体は身勝手なもので、自分が持つ価値観、記憶、つまり自我の要素によって、
相手の感情を自分なりに類推することになるのだが、
人間はこれで今まで完全ではないにしろ、上手く互いの関係を構成させている。
であれば、人工知能も身勝手であったとしても、その人工知能の持つ自我の要素で、
人間の感情を類推しても大丈夫であろうという事になる。

であれば、ここはディープラーニング等の能力であっても、
その感情の判定において、その要素さえ間違わなければ、
人間が持つ感情の要素として、人工知能に実装可能な感情の要素を選択する事が出来るのではいかと考えられる。
つまり、人工知能の感情をすべて後天的な学習によって実装するという事である。

一応この利点は、先の人間のような、御しえない感情を実装する必要が無いという事と、
学習であれば、後から修正が可能であるという点がある。
人工知能自体の学習においては、その機能の活動後に、外部からの強制的な修正は行うべきではないし、
その機能を持たせるべきではないと考えている。これは人工知能にとっても、人間にとっても、
どちらの為にでもある。
思考のハッキングという事になるので、何一つ良いことは無い。

そういう点では204の「模倣と学習」という観点からも、
人工知能にとっては都合の良い実装方法ということになる。

そのように考えると、人工知能の知能においては、
その汎用的な学習能力を持たせる事を優先的に考えると良いのかもしれない。
人間に置き換えると、刺激の認識と記憶、である。
視覚的な認識は人間よりも高機能であるし、
今思いついたが、視覚の認識の対象は動画の圧縮方法を逆に考えて、
その動作する部分で認識する対象を切り分ければ良いだろう。もう周知の事だろうか。
他の感覚についても定量的な感覚器官で十分なはずである。
となると、やや不足している要素は、価値評価ということになるだろうか。
人間が生体であり、その刺激に対する価値評価がその生体としての生命の有用さであるなら、
人工知能にとってもその価値評価の基準を何か設定しておく必要があるという事になる。
これだけは学習で実装というわけにいかない。

刺激の価値評価については改めて考える必要がありそうである。
これは今後の課題として。
今日はこの辺で。


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