2023/3/14

知能と刺激における感覚の起源

基本は触覚である接触感覚と考えられる。
つまり、細胞表面における周囲の環境の変化に対して、
その変化情報を得るために感覚を得ることになったという事になる。

触覚である接触感覚は細胞に直接触れた物体の感覚という事になる。

そこから考えられる他の感覚、聴覚、味覚、嗅覚、視覚も
どうように感覚器官における細胞がその表面において、各刺激となる情報を得ている為、
触覚の延長上の感覚という事が出来る。

つまり、それぞれの感覚は、
聴覚の空気の振動に対して、音としての共鳴、振動に対する接触感覚の延長。
味覚はアミノ酸や糖、酸、塩基などに対して、味としての分子に対する接触感覚の延長。
嗅覚は芳香物質やアルコール、硫黄化合物などに対する、匂いとしての分子に対する接触感覚の延長。
視覚は人間においては可視光線、光の波長に対する接触感覚の延長。

という事が出来る。

皮膚の光に対する温度の感覚としての温感なども感覚の1つとして考えられるが、
いずれも刺激を受ける細胞に対して直接的に接触、もしくは何らかの物質、光などのエネルギーを介して
接触する事によって、その刺激としての情報を得ている。

推測となるが、
生物が多細胞化していく上で、
その体が大きくなるにつれ、周囲の環境からの変化を受けやすいという事になる。
その為に、逆に体を大きくした事による細胞数の増加に対して、
その機能、役割を分けて、様々な変化に対応できるように細胞の機能を分化させ、
適応、対応した姿が現在の多細胞生物ということになるのではないだろうか。

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刺激の認識について考えていた時に、
その刺激の認識において、生物の初期の姿、
神経細胞が発達する以前の生物において、
その刺激の入力に関してどのような形となるかについて考えていた。

細胞数が少ない状態で、周囲の環境の変化を情報として得ようとした場合、
その細胞表面において得られる情報はおそらく接触の感覚、触覚だけであったと考えられる。
細胞分裂においてもその細胞同士の接触によって分裂が止まるという機能もあるので、
それは間違いないだろうと考えられた。

そして、
その状態から他の情報を得ようとした場合について考えた結果が上記の通りであるが、
これらの情報を神経細胞で受けて認識しようとする場合に何が必要となるか考えていた。

認識が感覚器官が受けた刺激と神経細胞ネットワークの励起という状態の同期として考えた場合、
その神経細胞ネットワークの励起に対して何の意味があるのか考えた。

現時点の知能、脳であれば、記憶という事になるのだが、
その初期段階においてはどのような役割をもって刺激を受けようとしたのか考えていた。

単に接触感覚として受け始めた刺激を、周囲の環境の変化の情報として、
多様な刺激を受ける為に感覚を分化させていったのか。
そして、その情報をなぜ保存する機能を持つに至ったのか。

特定の刺激に対して決まった反応をするだけであるのなら、
汎用的な記憶の仕組みは必要ない。
反射などの短時間で行える反応の方が有利である。

そういう点では反射が刺激に対する初期の反応システムということになるか。

そして、そこから反射だけでは対応できない変化が現れたか、
他の生物よりも、より有利になるために刺激の記憶を始めたという事になる。

その理由は何か。

伝達の必要性か。

多細胞化して1個体としての細胞数が増えた場合、
その個体として特定の刺激に対する認知、認識は、
その個体内で共通して行われなければならない。
体のある部分で刺激を認識したのに、体の他の部分がそれとは関係ない働きをしていては
個体として不都合であるという事になる。
頭で分かっていても手足が別の活動をしていたのでは意味がないという事。

多細胞化するにあたって、その個体にとっての刺激の共有はどうしても必要になる。
であれば、その情報を伝播させる機能が必要となるが、初期の時点においては、
これは記憶されない単に情報の共有だけであったと考えられる。
つまり、それほど多くな刺激ではあるが、多細胞化することによって個体として刺激を受け、
その刺激を個体として共有する必要があり、逆にそれだけでも良かったという事になる。
そして、その後、その刺激を伝播する機能が、その刺激に対して継続して伝播させる経緯において、
その伝播するという機能が、その刺激に対する励起として扱われるようになったのではないか。
つまり、特定の刺激に対して、特定の刺激情報の伝播する経路に当たる細胞が
その刺激に対する特定の細胞になったのではないかというわけである。

刺激の認識の汎用性については相対する刺激と励起の1対1の機能となるが、
初期においてはそういう事だったのではないだろうか。

その後、さらに多細胞化が進み、体が大きくなり、その刺激の感覚器官と、
その情報の経路に当たる細胞が複数化すると、それは機能としてそれぞれ分化しておくよりも、
関連か共通化することでよりシンプルに効率的になる。
そして、ある刺激に対する認知、認識の機能が集約して初期の神経細胞になったのではないか。

情報はその関連が増えれば増えるほど指数的にその量が増える事になる。
逆に考えると、1つの関連が持つ情報が増えれば、
その関連を起点とした別の情報も持つことが出来る事になる。
つまり、PCの世界で0,1の2ビットの情報が、量子的に1と0を重ねて同時に持つ事ができれば、
それだけ持つ事の出来る情報が増えるという様にである。

つまり、入力場所が異なっていても刺激の情報、内容が一部でも同じであれば、
そこを共通化することで関連だけ変えて共通化することができる。
生命は無駄は省きたいはずであるので、そうすれば神経細胞としてはより集約化できる事になる。

これが、もし刺激の種類が増えたとしても、
それほど細胞数を増やすことなく認知、認識できるという事になる。

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刺激や感覚の起源としてはこのようであったのではないかと考えられるが、
この時点で再現できるのは記憶を持ったとしても人間以外の動物程度の知能である。
そこから先、もう1つ何かの変化が必要となる。

必要としているのは、
221~223で考えていた自我の解明についての内容にある様な、
自分という刺激の認識に至るための準備段階の内容である。

脳は意識を保つために刺激を認識し続けようとする。
自我の発現は、自分が欲している事について、自分自身が知る、
自身が持つ事になる刺激の欲求が、そのきっかけなのではないかという事であるが、
自分を知るためにはその境界の差、自と他の両方が必要になる。
生命においては自身の個体と周囲の環境という事でも成り立つ。

そういう点で今朝、考えていたのを思い出したが、
あらゆる「差」がその刺激の元になっているという事。
つまり、「差」「変化」こそがあらゆる情報の根底にあるもの。
であれば、自身、自分も何かとの差の中に生じたものであると考えられるのではないかという事である。

自分がああしたい、こうしたい、こうありたい、こうなりたい、
痛みより心地よさ、少ないより多い、空腹より満腹、寒いより暖かい、不安より安心、
そういった望み、生物としての根底でもあり、生きる目的、
それがある事によって欲求となるが、
これは人間以外の動物にも存在する。
この点で人間とその他の動物に共通しない事、
やはり「客観性」ということになるか。
自分を自分であると客観的に認識することが出来る能力。

今日はそろそろ時間になるので
以降はまた次回という事になるが、
この「自分に対する客観性」について理解できれば、
自分、自我の発現のきっかけも分かりそうである。
次回はこれについて考えてみようか。

今ヒントになりそうなことを思いついた。
221でも同じように考えていた事で、
自分という存在は、自分にとって主観的な認識対象でないという事である。
客観性は想起に関係している。

今日はこの辺で。


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