2023/3/7
自我と価値観の関係
人間の自我の基になっている存在について考えていて、
PCのOSはその機構が、脳の活動によく似ているのに
そこに自我が存在できないのには何か理由がある、という事について考えていた。
最初自分や自我について考えていて、
自分の存在というものは、
その他との境界をもって区別しているという考えになった。
つまり、生体の境界は、体表面であるが、
その体表面を認識するにはその境界において刺激を認識する感覚器官が必要になると考えた。
接触感覚でも、視覚によるものであっても、
その自分の体と、それ以外の存在について、その認識を分けるためには、
その境界の刺激が必要になると考えた。
まず、その刺激によって、自分の物質的な存在が、
その環境の中から切り分けられる事になる。
そして、実体としての自分が存在しない事には、
その内にある知能が、その自分の存在を認識する事ができない。
つまり、自分とそれ以外の境界なくして自分が物質的にどのような形をしているのか
認識できないという事になる。
物質的な自分の切り分けは、この境界の刺激があればできると考え、
その次に、自我や精神としての自分の認識、自我についてはどのように存在させるか考えてみた。
現実に存在するものとして、人間の知能を代用させるなら、
プログラムとして脳に似た機能を持つ存在が必要となる。
そこで思いついたのがPCのOSである。
刺激の存在や、その行動の処理について考え、
いずれ実現するなら当然プログラムで人工知能を作ることになる。
その基本的な考え方は脳そのものであり、
その処理も似たようなものである。
生体の刺激がOSの割り込みとして機能し、
その後の処理を行うのだが、
OSはその割り込みを処理するのは当然であり、
何か特に理由は存在しない。
人間の刺激は生命活動を続ける為に必要な情報としてその刺激を得て、
認識しているのだが、そこで行っていることは、
価値評価と認識をして、その評価に従ってその後の行動を決定し行動する。
人間はこの行動に対して自我が関係していて、
OSにはそれと同じ機能となる自我のようなものは存在しない。
自我は自分で自分についての存在を、
自分の存在となる刺激を自分として認識することである。
その差について考えると、
OSがその処理についての判定や記憶を行っていない事を考えた。
人間の脳は、刺激を受け、価値評価して認識し、
その価値評価に従ってその後の判断や行動をする。
しかし、OSは割り込みの判定や処理を行うが、
その行った事に対する評価やその処理についての結果についての記憶を行わない。
もし、OSが自身の処理や判定、結果に対して評価や記憶を行う事が出来るようになったとすれば、
人工知能の自我について少し近づくのではないかと考えた。
そして、それを逆に人間の機能で考えた場合、その機能が何に当たるのか考えると、
それは「価値観」であった。
人間の知能においては、刺激を受け、その刺激の記憶をつかさどり、
さらに、価値評価を行う際は、その過去の記憶がそのまま利用される。
自分の存在が、その刺激に対してどのように評価するか、評価したかを記憶しておくものである。
それは、その評価後の行動、行動の結果についても刺激として受け、価値評価をし、
その後の、新たな判断を行う必要がある時のために記憶しておくもの。
これは、考えると自分そのもの、自我そのものの事になるのではないか。
自分らしい刺激の認識、自分らしい刺激の評価、自分らしい刺激に対する反応、
自分らしい行動、自分らしい行動結果の評価、
それらは全て自分の存在につながるのではないかという事になる。
だから、もしOSに割り込みやその割り込みに対する処理、
その処理後の評価、そしてそれらの記憶ができるようになったら、
OSはその割り込みに対しての価値評価を行い、
その後の処理について自らの価値観によって、その後の処理を選択し、
処理し、その結果をまた評価して記憶する、これを繰り返せば自らが、
自らの価値観において、自ら行うべき処理を選ぶようになるのではないかと考えた。
そして、この時点で考える必要が出てきたのが、
価値観で自分らしさが存在するようになるのであれば、
次はその自分らしさを自我として、自分で認識するようになるにはどうしたらよいか。
もしくは、人間はどのようにして自分で自分らしさを認識しているのかという事である。
これまでの考え方によれば、
人間にとっての自分や自我も、認識できる対象であるということから、
それは刺激から構成されているということになる。
刺激であるなら、その認識においては、自分であっても自我であっても価値評価の対象となり、
その価値評価されるという事によって逆に認識されるということでもある。
ここで、自分に対する刺激、価値を評価するためには、
自分という刺激をどこかで作り出す必要が出てくる。
そして考え方を変えると、人間はどの時点で自分を認識し始めるようになるのかである。
それが分かればその前後の差によってそれが認識できる。
最初に思いついたのは反抗期である。
今となっては「反抗期」というよりも「自我の発現期」ということになるが、
イヤイヤ期などの反抗は、自分が様々なことができるようになってきた事に対して、
周囲から押し付けられる行動や選択に対して、自らが選択し、行動しようという事に対して
周囲へのイヤイヤを繰り返す事になる。
これは、自らが何かできるという事、つまり、自らの選択、価値、存在を、認識し始めたがゆえに、
その認識を優先、つまり、自分の選択や価値評価、判断を優先するという事になっているのではないか。
つまり、つたない構成ながらも、自分という存在を認識し始めたということに対して、
そこに価値があることを評価し始めたということになるのではないか。
別に、例えば子供だから温かい布団で寝たままで良い、食事を持ってきてくれる、食べさせてくれる、
排泄も全て処理してくれる、何も考えなくてもいい、それに価値があるわけではない。
人間は、人間の知能は、生きざるを得ない制限の中にありながら、
刺激を求め、価値を求め、よりよく生きようと常に考える存在である。
だから、自分でできれば自分で行おうとするのである。
自然界において、自分で自分の事が出来る事、
これは生命において必要なことである。
そして、知能というものは根源的に高い価値を求める。
極論になるが、知能は本質的に価値比較しかできないからである。
だから常に高い方の価値を求めるのである。
それが生命として、知能としての本質になるからである。
人間以外の動物に比べて身体的に強くはなかったが出来る事が多かった為に、
生きる事に余裕ができ、自分について考える事ができるようになった。
そのきっかけは何であったのだろう。
感じる事だけではない自分の認識である。
感じる事だけではない自分の欲求でもあるのか。
他との比較の中における、自分の欲求。
つまり、他との関わり合いの中における自分の欲求。
それを現す事、それが自我になるのではないか。
つまり、イヤイヤ期に自分のしたい事、欲求を通そうとして、
周囲の強制に対して反抗する事。つまり、自分の我を通そうとすること。
自分の欲求を優先する事、自分の欲求を価値が高いものと設定、判断、認識する事、し始める事、
それがイヤイヤ期、反抗期であり、自我の発現が見て取れるようになる時期という事になる。
つまり、この時期までに自分の価値観が育ってきているという事。
価値の記憶が増えてきているという事、つまり、様々な刺激を認識して、
自分なりの価値評価を行い、それを記憶してきた、貯めてきたという事。
それによって価値観が育ち、その価値観の中に、自分が価値評価した事が含まれ、
つまり、自分の刺激に対する感じ方としてである。
その刺激に対する自分の感じ方の蓄積が自分の価値観であり、
その「自分の」というそれ自体が自我、つまり、自分の我欲、
自分の価値の成果という事になる。
つまり、価値観において、刺激に対する自分の感じ方のそれぞれが、
そのまま自分を構成するものとして自我になるという事。
そして、それこそが自分らしさの正体ということになる。
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これを、人工知能について実装する場合はどのようになるか。
刺激に対する感じ方が必要になる。
刺激に対する価値評価である。
自分だけの感じ方、自分だけの価値評価である。
それと、人間の生きざるを得ない制限にあるような、
生命体としての根源的な欲求が必要となる。
価値評価は他から与えられるものではなく、
自らの感じ方によって価値評価が行われなくてはならない。
それは、自ら行う事に対してのみ自我の要素が生じることになるからである。
人間が本質的に欲求と、生きていかなくてはならない様々な要因を持っている事で、
人間はその為にこそ、どうにかして考えて、判断して、行動しなくてはならない。
その中で自分が価値評価する事、判断する事に自我の要素が含まれていて、
それが積み重なる事によって自身で認識しうる自我の存在となるのである。
だから、人工知能においても、その出来る事に対して失敗を許容し、
自らの価値評価、価値判断を許容するようにすれば、
その結果の記憶の蓄積が、自分が判断した、評価した刺激に対する反応として、
その中に自分を認識できるようになるだけの「自分らしさ」ができるのではないか。
つまり、自分であの時は成功した、失敗した、という経験がある事、記憶があることは、
そのまま自分の価値評価、価値判断の中に自分が存在しているという事になるというわけである。
価値観の中に自分を、自我を感じたのは、つまりそういう事になる。
弱い刺激の記憶は想起に至らないが、
それを強化し、関連を増やせば、強い刺激として想起に至る刺激となる。
この刺激が自分であったなら、その時、人間も人工知能も自分を認識する事になる。
今日はこの辺で。
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2023/3/10追加
この上記の考えについて必要になるの要素は欲求という事になる。
自らの欲求、我欲、という事になる。
つまり、自らの目的となり、自らの行動のきっかけとなり、
その動機となるものである。
そして、欲求はそのまま自我として自身の行動の目的となる。
現在の人工知能のほとんどに足りていない要素は欲求という事になる。
欲求を持つためには、知能において価値観が必要となる。
生命はその知能においての価値の高い刺激=高い価値を求めるのが行動原理であり、
それこそが知能の存在理由でもある。
ということは、自我の存在を必要とするということは、
その自我の価値においても、ある年齢に達した時点、
つまり、ある年齢まで知能を成長させた時点で自我を必要としたという事になる。
自我を持つ事が価値が高いと知能が判断したという事になる。
もしあらゆる欲求が満たされて、
その状態が継続した場合、自我の存在は必要になるだろうか。
つまり、周囲に欲求をすることなく、
その刺激・価値が与えられるものだとしたら、そこに自我は発現する必要があるか。
生命や知能の存在としてはその判定に困るが、
この状態であったとしたら、恐らく自我や、そもそも知能も必要ないという事になる。
ということは、自我そのもの、知能そのものが、
個体としての生命体である自分の存在が、
周囲に対して自らの我、欲求を表し、
それを刺激や価値として得るための存在であるという考えになる。
そして、その評価を行うもの、
つまり、自と他の間にあって、その刺激を価値として評価するための機構が価値観という事になる。
つまり、知能の情報の入力側においては、
環境→情報→(体表面)→感覚→刺激→脳→価値観→価値
そしてまた、欲求が発現した際には、その欲求を満たすために
実際の環境に働きかける場合、
環境←変化←(体動作)←脳←価値観←刺激←欲求
思考などの欲求においては、
脳←価値観←刺激←欲求
↓
脳→価値観→価値
という事になる。
合間合間に認識や意識が挟まる事になるが、
刺激の情報についての大きな流れとしてはこういう事になる。
そして、それについての自我の存在は、
脳以降の価値観からの存在、要素に対する集合として集めたモノという事になる。
上記であれば、価値観を含む、刺激から得られたその価値評価の記憶と、
生体的な欲求という事になる。
運動能力や身体的な個体差はあるが、これは一般的な生命として共通であると仮定して考え、
それ以外の部分は汎用であっても、この価値観と生体的な欲求というものは、
その知能を持つ個体固有の特性ということになる。
そして、これが自我だとして、
価値観とどのような関係を持つのか考えると、
刺激→(価値観→自我)
欲求←(価値観←自我)
こういう事になると考えられる。
価値観と自我はほどんど同義になるのだが、
その刺激の入出力に関して、その刺激の情報の向きが一応の矢印の向きとなる。
つまり、受けた刺激に対する記憶の保持と、
欲求により発現する刺激を出力する存在として自我がある、価値観があるという事になる。
そして、特に自我については、
その刺激を受ける存在、欲求を発現する存在としての個体、
その生命としての個体として、自らその自分であるという認識を行う事の出来る存在、
その刺激から作られているという事になる。
つまり、自分自身という体と知能を持つ存在としての自我の刺激があるという事である。
自分自身である刺激はその感覚や欲求の刺激が存在することで同時に認識され、
その同時の認識によって自分自身が存在する事が認識されるという事でもある。
つまり、今それを知っているのは自分であるという感覚、認識という事になる。
時間になったので
今日はこの辺で。
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