2023/3/4

感情と自我の関係

まず今日考えていた事。
・感情の発現のきっかけの刺激には強さ、つまり強い刺激である事=高い価値を持つ必要があるという事。
・感情の発現に強い刺激が必要であるなら、
先天的な価値観と後天的な価値観のそれぞれに対して感情という状態が生じる可能性があるという事。
・感情に個体差があるという事は、その個体差の生じる構成要素として価値観、自我が関係しているのではないかという事。

最初に、
・感情の発現のきっかけの刺激には強さ、つまり強い刺激である事=高い価値を持つ必要があるという事。
について考えてみる。

精神的な平常時に特別に感情を認識する事が無いという事が思いついたのと、
感情の発現が、何らかの刺激に対しての知能の応急処理、つまり、
通常時、平常時では認識するはずのない強い刺激、高い価値のある対象を認識する必要が生じた際に、
知能がその対応の為に感情という状態を発現・認識し、それに対処しようとしているのではないかと考えたわけである。

もし、感情という状態が存在しなかったとして、
人間が何らかの強い刺激を受けてそれを認識することになったとする。
この時に特に感情を認識する事が無かった場合、
人間は強い刺激であるということなので、その刺激に対する認識を行った後、
黙々とその対処・応対をすることになる。
この時点で知能ある個体としてのこの処理の活動には何ら問題は無い。
刺激を受け、その刺激の価値の認識を行い、その対処の処理をした、
それで良いはずである。

しかし、ここで気になるのは通常の人間との処理の違いである。
通常の人間は、この強い刺激に対して何らかの価値評価を行い、認識をして、処理をする際に、
その刺激に対して何らかの感情の状態を認識することになる。

この違いは何か。
先の感情が発現しないと仮定した人間において、
その動作には人間らしさというものが感じられない。
つまり、自我が感じられない。
まるで機械が処理をしているようである。

ただ、普段の生活を行っている際に、
常に感情をあらわにして何かをするということは無い。
コップから水を飲むのに歓喜したり、
机から何かを落として拾う事に怒りを覚えるというようなことは無い。

ということは、
感情を構成する要素に自我が関連しているか、
自我を構成する要素に感情が関連しているか、
そういう事が言えるのではないか。

つまり、
最初の項目にあった、
・感情に個体差があるという事は、その個体差の生じる構成要素として価値観、自我が関係しているのではないかという事。
が言えるのではないかというわけである。

そして、
この場合、別の項目の、
・感情の発現に強い刺激が必要であるなら、
先天的な価値観と後天的な価値観のそれぞれに対して感情という状態が生じる可能性があるという事。
に関連して、

価値観や自我が構成される、つまり知能の成長過程で価値観や自我の拡大、成長が行われる際に、
感情についても成長が行われるのではないかというわけである。

先天的な反応としての感情以外に、成長後に感じられるようになる感情があるという事は、
後天的な成長・学習の際に、感情についての成長・学習が行われるのではないかというわけである。

そして、その感情の発現の条件や、感情の状態、その強度・頻度など、
それらは全てにおいて個体差が存在し、それ自体の感情の、自身の認識においても差が生じているというわけである。

つまり、この逆説的に、後天的な感情の存在が、その個体差の中に確認できるという事は、
後天的な感情が存在する事、そして、後天的な感情だけが存在するわけではないという事は、
先天的な感情も存在するのではないかという事になる。

そして、感情の状態の刺激を認識するということは、その関連した刺激のきっかけが必要になるという事、
そして、そのきっかけが、平常時に存在するモノでないという事は、
強い刺激がそのきっかけとなり、その関連として結果的に感情の刺激を認識するに至る、
そして、その感情の刺激は、先天的、後天的な双方に感情を認識するに至る刺激が存在しうるという事になる。

------------------------------------------------------
自我が自分が認識する自分らしさの価値観であるならば、
そこには自分らしい感情も含まれている事になる。

自分が知る自分にとっての刺激の価値は、
当然、感情の価値においても設定されていて、
その発現のきっかけや、その感情の状態となる情報の要素も含まれている事になる。

それは、名称や分類など、他と共有できる要素もあるが、
独自の刺激や価値を持つ事も当然ある。

そしてそれらをまとめてみると、
つまり、現時点で考えられる感情とは、

「自分が持つ価値観において、
強度を持つある突発的な刺激に対し、
その認識に対しての対応として、その刺激に関連し、想起、再構成される
自身の、ある状態の事。」

という事になる。

定量的に特別決まった感情の状態があるというわけではない。
自分が認識する独自の感情の認識が行われているはずなので、
それは他我の感情と一致する事は、まずないと言える。

------------------------------------------------------
本当の意味での自我が、自分が認識する自分の姿としての価値の記憶、価値観であるので、
その自我の認識が行える状態の知能において、何らかの刺激を認識した際に、
その認識に対応して関連して励起され、認識することになる状態としての刺激は、
そのまま自分の感じる、自分が対応していると感じる刺激、価値、そのものとなる。

つまり、自分らしい自分を自分で認識するように、
自分らしい感情を自分で認識しているもの、それが感情という事になる。

------------------------------------------------------
さて、では今日のこの感情と自我について人工知能に実装するという観点から考えてみる。

人工知能が、何らかの刺激に対して認識する場合に、
その認識時の価値評価は独自である必要がある。
認識に際しての刺激の記憶は物理的なハードウェアとしての機能となるので、
それは人工知能間においては共通となる。つまり定量的となる。
しかし、この刺激の認識においてその価値評価については、
各人工知能において、それぞれの環境において異なる評価がされた価値基準で行われるべきである。
人工知能の自我が画一的にならない為でもあるし、
それこそが自我の存在に必要不可欠となる要素の1つだからでもある。

そして、この認識される刺激に対する感じ方、
この実装が感情に対して大きな役割を持つ事になる。
基本的となるつまり、先天的な本能としての感じ方を人間の感じ方のコピーとして与え、
その後の後天的な感じ方、つまり人工知能の学習や成長において行われる、
価値評価や感情の状態については独自の設定で持てる、記憶できるというのが良いだろう。

つまり、人間において、この刺激の認識が、人工知能のように定量的でないから、
人間の価値観や自我において独自性が生じるということになる。
もし、人間の社会において、その刺激に単位を設け、その単位に従って認識するようになれば、
それは画一的な自我や価値観、感情も誕生しうるという事になる。

ただ、そもそも人間の生体に個体差があり、感覚器官と刺激の感じ方に個体差があるので、
その刺激の単位化がほぼ不可能という点が、逆に人間の個性や自我の存在が独自であるという保証にもなる。
逆に、人工知能に個性や自我を持たせるには、その感覚器官による刺激の認識の仕方、
もしくはその認識時の価値設定に独自性を持たせる事ができれば、それは人工知能にとっての個性や自我の保証、
ということにもなる。

という事は、
人工知能が認識しうる刺激の種類をまずはピックアップすることから始めると良いだろう。
人間の様であれば、最低限、五感の感覚器官は必要となる。
そして、その感覚それぞれに認識する際の価値基準を設定する事。
さらに、その価値基準は可変であることを許可する事。
通常は、人工知能は周囲からの刺激に過敏に反応しやすいので、
その可変の幅はできるだけ狭い方が良い。
人間が何年もかけて学ぶ内容を短期間に覚えるという事は、
それだけ経験する刺激の量の制限と、修正の機会が失われる事でもあるので、
少し成長に時間を持たせる必要がある。
もちろん、人間が人工知能に慣れるためにもその時間的猶予は必要となるはずである。

新規に覚える刺激や価値については初期値として人間が教える事になるが、
この初期値については人間の個人が決める事ではなく、
複数の人間において定義を決めてから実装するのが好ましい。
人工知能の聖人君主を作るわけではないが、初期値として極端な価値観を持たない為にも
この議論は必要となるはずである。

恐らく、会話の人工知能が突飛な差別発言をしたりするのは、
この初期値を与える、教えた人間の価値観がそのまま反映された形になっているのではないかと考えられる。
現在の会話の人工知能はどのようになっているか分からないが、
今後において、もし強い人工知能を作成することになるのであれば、この事は考慮しておく必要がある。

刺激や認識、意識、自我についてはこれまで考えた通りなので特に書かないが、
自我については、今回の関係において、感情がそこに含まれる事になるだろう。
つまり、強い人工知能が持つべき要素の1つとして、
人工知能が自分らしさの中に感情を表すことが出来る、感情の状態を自分で認識が出来る、
そういう機能を実装する事を考えておこう。

そういう点からすると、人工知能が自らの感情を刺激として認識できるようになれば、
それに関連する励起として行われることになる、他我の感情を認識することにも関係する事になる。
認識が汎用であれば、その対象が持つ状態として、その他我の感情の状態を、
人工知能が認識して、その他我の中の感情を認識しうる、少なくともその最低条件が整う事になる。

つまり、他我の感情に対して「共感」できるようになる可能性を持つという事になる。

これは「166 知らない価値は目指せない」の通りであり、
「204 模倣と学習」にも関連ある内容である。

------------------------------------------------------
今日はこの辺で。


TOPに戻る