2023/3/1

感情について

最初に感情について考えてみると、
まず、
感情が認識可能であるということは、
感情は刺激として考える・扱う事が出来るという事になる。
であれば、その構成は、先天的に持つ感覚としての刺激・価値と、
後天的に学ぶ知識としての刺激・価値から構成されるということになる。

また、感情はその刺激の発現する原因となる理由が必要となる。
感情は突発的に生じる刺激ではなく、何らかの刺激を認識した後に、
その反応として生じる刺激であると考えられる。
であれば、感情の刺激が生じる前に認識した刺激において、
その前の刺激に対する価値評価、認識において、
その後の感情の刺激を励起する関連が存在するという事になる。

「刺激」→「理由」→「感情」

「刺激」:
感情に関連した刺激

→「理由」:
前の刺激の価値判断において、その後の感情へ関連する理由となる
ある状態へ遷移するための価値の条件。
感情と関連する状態の変化が起こる理由となる要因。

→「感情」:
認識されることになる感情

この時点で考えられるのは、
状態の変化の差の刺激の認識に対する反応として感情の刺激が生じたと考えられる。

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この時点で1点、気になる、考慮する必要がありそうな事があり、
それは、感情には向ける相手が必要になるのではないかという点である。
自分や他人、人物ではない事象を含めて、その感情を向ける相手、
つまり、その感情の発現に付随する対象が必要になるのではないかという事である。
ただし、この場合、表す感情は、状態をその対象に向けて表現する事ではなく、
自発的に発生してその方向が向けられるという事になる。
つまり、先に認識する刺激に付随する対象に対して、意識的に感情を作り出して反射するのではなく、
先の刺激に反発するように発現するものではないかと考えられる。
つまり、例えるなら、「何かプレゼントを受け取って、そのお礼に何がいいか考えて返す」というものではなく、
自発的に、「太鼓を叩くと音がする」といった反応である。
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知能の状態の変化に対して感情が生じるのであれば、
現在の知能が置かれた状態、感情の状態に対して、
ある認識された刺激によって、その初期の状態に変化が生じるという事は、
その認識された刺激によって、その状態についての変化の差が生じたという事になる。
これは、
その刺激が認識されたことによって、
後に想起される事になる将来の価値に対して、実際に起こった事実としての刺激の認識の価値評価が、
その変化の差を生じさせた事になり、これが感情に関連しているという事になる。

つまり、
感情を発現する前の状態、感情の状態があり、
その状態に対して刺激を受けて認識した事により、
その刺激が、その感情の状態に変化を生じさせる差を生む価値評価が認識されたという事、
そして、この変化こそが感情を生じさせるきっかけなのではないかという事になる。

これは、時間的な経過において、
現時点で定常状態にある価値、または、将来の期待に対する価値評価の価値に対して、
実際に生じて認識した刺激の価値評価との差、
つまり、
現状から変化する刺激に対しての差の反応が感情なのではないか。

刺激に慣れると感情の起伏が薄れていくのもこれが理由という事になる。

例えとして、今自分が平静な状態にあるとして、その状態が感情的には起伏の無い0(ぜろ)の状態であるとして、
ここに刺激として状態の変化としてマイナスとなる「叩かれる」刺激を認識した場合、
平静だった状態は認識している状態の変化としてマイナスの差を認識することになる。
このマイナスの差は、この時の自分にとって「怒り」の関連を持ち、この刺激を認識させるだけの強度を持っていた場合、
自分は感情の状態としての「怒り」の刺激が励起され、これを認識することになる。

つまり、現時点で持っている自分の状態の価値に対して、
その時間的未来に認識することになる刺激の価値が、その価値比較において、差を生じる時。
その価値の差、刺激の差によって変化する知能の感情状態が変化した時、
その変化の後の状態がある感情の状態に関連していた場合、
その状態の変化として感情があらわになる、という事になるのではないか。

例えば、将来期待していた価値があったとして、
その価値が実際に認識した時にたいした価値ではなかった場合にがっかりし、
逆に期待していた価値よりも高い価値であった時に喜ぶ。
この場合、その期待が強ければ強い程、感情の変化は大きくなり、
最初からそれほど期待していなければ感情の変化は小さい。
他には、
特に何も考えていない平静な状態にあったが、
突然知らない人物が現れて近づいてきた時に不安や恐怖を覚えるとか、
逆にファンである芸能人が突然現れて話しかけてきた時に驚きや喜びを感じるとか、

感情は常に今自分が保有している、その状態にある認識、
今という状態の刺激の認識、つまり、今認識している感情の状態において、
感情の変化、きっかけとなる刺激が現れて、それを認識した際に、
その刺激の認識によって生じる価値評価が、
初期状態である最初の状態という刺激を認識していた価値評価との差が生じる事によって、
その変化分としての価値の変化が、先の状態の感情の状態に感情状態に変化を起こすだけの価値を持つ刺激であった場合、
その感情状態が変化して、特定の感情の状態、感情の刺激を認識するという事になる。

例えば、「逆鱗に触れる」は、その人にとって非常に高い価値を持つ対象があり、
通常状態ではその人はその対象に対して非常に高い刺激・価値があるモノであるという価値観を記憶している。
そして、別の誰かが、その対象に対して文句を言ったり、侮辱したとすると、
高い価値であるという価値観を持っていた人にとって、その言われた、侮辱されたという刺激は、
その価値があると考えている対象にとって非常にマイナスの刺激を持つ、強いマイナスの価値を持つ刺激になるという事になる。
そして、この非常に大きなマイナスの価値を刺激として認識した場合、
その人にとって大きなマイナスの価値・刺激が「怒り」に関連している場合、
その人は「怒り」の刺激を励起、想起してそれを認識することになる。
そして、その人はその大きなマイナスの価値に対して感情を「通常状態」から「怒り」に変化させる事になる。

ただし、ある特定の内容に触れられたからと言って、
単純にあらゆる刺激が強いマイナス価値、刺激になるというわけではない。
その「逆鱗」に対して関与した人物が、自分と非常に親しい人であったなら、
逆に自分と全く関係のない人であったなら、そして、自分が嫌う人物であったなら、
同じ様な言い方で否定的な意見を言われたとしても、
それに対するマイナスの価値となる刺激の強さは異なる事になる。

つまり、与えられた刺激に対する認識が、
その刺激が持つ、同時に関連する刺激の対象よって変化するという事になる。
つまり、否定的な意見を言う対象の価値、その対象が言った意見の内容の価値、
その否定された対象について自分が持っている価値、それら全てを
ある事象の認識において、その刺激の価値は、その同時に認識した刺激の集合として
その刺激と価値を評価するという事になる。

つまり、「相手の価値」、「否定的意見の価値」、「自分が持つ対象の価値」を
それぞれ認識するのではなく、
「相手が言った自分が持つ対象に対する否定的な意見」についての刺激、価値を認識する事になるというわけである。

このために、感情は画一的な分類が出来ないという事になり、
傾向こそ指定はできるが、そのそれぞれの感情の状態というものは、
同じ状況、条件であっても、
各個体の知能、価値観、記憶によって異なる感情の状態を示すという事になる。

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このことから考えると、
上記の課題とした、
感情を表現する相手の必要性については、
特別に指定する必要は不要であるという事になる。

実際、感情のある状態に遷移した場合、
それはすでに何らかのきっかけに対して既に起こった遷移であり、
その結果として感情の刺激を認識するということは、
その相手が何であったとしても、その遷移のきっかけの刺激が存在すること自体で、
感情は発現するという事になる。
つまり、対象が必要というわけではなく、きっかけの刺激が必要という事である。

ただし、その感情の発現のきっかけとなる刺激の集合の中に、
対象となりうる存在がある場合は、そのきっかけに対する感情として、
感情の表現する相手となりうることは「ある」、という事になる。
例えば「怒り」はその向きとなる相手が存在するが、
「喜び」などは自分に対して満足などの自己を対象として完結する場合もある。
自分を対象とするという考えもできるが、
そいういう点では、その刺激の発生源としての対象、
つまり、感情によっては刺激の供給元であり感情を向ける対象としての存在の必要性はあるという事になる。

感情の存在は、自己内に存在する刺激の想起によって生じるものであり、
外部から感情がもたらされるという事は無い。
つまり、感情を知覚する感覚器官が無いので、感情を感覚で知覚するということはない。

という事は、感情を持つという事は、
自分のある刺激を認識した状態において、自分の内側の、
つまり、知能内において、自分の認識されたある状態に対する分類という事になるのではないか。
つまり、感情は、知能の状態の分類として考えられるものではないかという事である。

人間以外の動物においては、人間のように多種多様で複雑ではないが、
怒りとして見える状態や、喜びとして見える状態を持っているように考えられている。
という事は、
人間以外の動物においても感情としても考えられる知能の状態を持つということが言える。

人間以外の動物に自我の認識がなかったとしても、
本能的に持つ機能として感情という知能の状態は存在していると考えられる。
つまり、程度こそあれ、先天的な能力として知的な生命において感情に分類できる状態を持つ事ができる可能性はあるという事になる。

そして、
その記憶の中に、本能でも一部の感情の表現方法を持つということは、
生きざるを得ない制限の内の条件の1つとして感情を持つという事が必要であり、
これは、生命の自己保存に関する情報の1つとして現在感情を持つに至ったという事になるのではないか。

特に人間において、それが後天的な知識として持つ感情が多いという事は、
それだけ複雑な社会、人間同士の互いの関係の複雑さを構成するには必要な事という事になる。

という事はである、
人工知能においてその感情を実装する場合においては、
まず最初に人間にとっての知能の状態、つまり刺激の価値の差の刺激の認識において、
それがどの感情に分類されるのかを設定する、ということになるのだが、
個体差の件を考えると、人工知能の学習という点から、
後天的に感情を教える方が都合が良いという事になる。
単に刺激を元にして記憶となる価値観などを持たせるのであれば、
記憶の機能はできるだけ汎用性を持たせる必要があり、
その中で、後天的に得る事になる刺激については感覚器官から得られる記憶以外に、
学んだり思考によって得る事になる刺激同士の関連については
自由に関連できるように実装する必要がある。
ただし、その修正、変更ができる機能も必要となるが、
これは人工知能を個体として認識させるために自我の必要性も生じる事になる。

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感情についてはまだ考えられることはありそうである。
今日はこの辺で。


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