2023/2/27

感情を構成する要素

まずは前回239で不満は感情とは関係のない状態であると考えたが、
今日考えていた中で、ある認識した刺激に対する反応として感じる感覚、その刺激であるなら、
感情の1つとしても扱っていいのではないかという考えに至り、
これを自分の考え方の変更とともに訂正しておく。

今日考えていた事。
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・感情が、ある認識した刺激に対する反応として生じる刺激であるという事。

個体の内外から突然感情となる刺激が生じるということはなく、
必ず何らかの刺激の認識の後に感情となる刺激が生じるという事。

であれば、感情となる刺激には、必ずそのきっかけとなる刺激を先に認識する必要があるという事。

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・ある刺激に対して生じる刺激であるという事は思考と似た反応なのではないかという事。

これは、思考が目的と結果の関連を作り出す脳内の活動であるという考え方からすると、
この認識した刺激に対して、別の刺激が生じ、その関連、反応として感情の感覚が生じるという事は、
目的となる価値を認識し、結果となる価値を認識した後に、思考としてその関連を作り出すのが思考であるなら、
ある刺激の価値を認識し、その反応としての新たな刺激を認識し、その関連として感情の感覚、刺激が生じるなら、
その構成は似たものなのではないかという事。

実際には、思考する場合には、意識的にその関連を作り出し、その関連となる刺激を認識するのだが、
感情においては、最初の刺激と、後から認識する事になる刺激の間に作り出された関連としての実際の結果が、
その関連の刺激として認識された時に感じる感覚が感情という事になる。

つまり、思考時は、目的と結果の間の関連となる刺激が、
感情時には、最初の刺激と、今後予想されるその最初の刺激に対して起こりうる新たな刺激に対しての関連となる刺激が、
同列に扱われることになるのではないかという事である。

思考:
価値ある目的←(この関連)→価値ある期待される結果

感情:
最初の認識された刺激←(この関連)→最初の刺激に対して起こりうる未来の事象・刺激

つまり、思考が意識的、連続した認識としてその関連した刺激を作り出すことに対して、
感情は、最初の刺激の認識に対して、その価値観による価値評価の結果に対して、
関連して想起された、目的として確定していない結果としてその関連が自発的に作り出される事になる。

これは意識的な思考というよりも、認識した刺激による関連先の刺激の励起によって、
その関連先の刺激の励起によって生じる認識前の価値評価についてである。

ということは、思考というよりも「想起」の一種と考える方が自然になる。
思考がその刺激同士の関連を試行錯誤して作り出すことであるのなら、
感情は刺激と感情の刺激の関連によって、その感情の刺激が想起される事という事になる。

そういう点では、各感情の範疇は人それぞれ、個体によって異なる事になる。
つまり、ある状態を感情であると認識する人もいるし、
同じ状態であっても感情でないと認識する人もいるという事である。
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・感情にはその予測される価値に対する出力先として、対象が必要になるのではないかという事。

つまり、ある刺激を認識した後に、その刺激に関連した自分が価値を設定した未来の価値に対して、
その未来の価値となる刺激の予想に対して、その刺激が作られるであろう対象、例えば人や物などに対して、
その刺激の発生を予測して待つことになる、そして、その刺激の発生する元となる対象が必要となるのではないかという事。

例としては期待と不安。
ある認識した事象の刺激に対して、その自分の知能の反応として、
未来にその事象を元とした変化となる刺激に対して認識し、価値評価を行い、
その価値が良い価値である場合が期待、悪い価値である場合が不安となる。
そして、この場合の対象先は、その未来に起こるであろう事象に対してという事になる。

他の例としては、ある人に何かを依頼し、その結果について感情が生じる場合、
この例の対象先というのはその「ある人」という事になる。

他の例としては、何らかのやっかいな仕事が数日から数か月の間に発生することが分かっているが、
それがいつになるか分からない場合に不安を覚えるという場合は、
この例の対象先というのは、その「やっかいな仕事」という事になる。
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・ある刺激を認識し、その刺激の認識に対して行った価値評価は、自分の持つ価値観による価値評価である。
そして、その認識後、その刺激となった事象に対して、関連する励起として自身が持つ、
未来に予想される、期待される刺激、これを出力して表現し、
その認識に対して、時間が経過後に実際に起こった事象、その刺激に対して認識する事になり、
その価値評価を行う事に対して、実際に評価された価値に対して自分がどのように感じたか、
つまり、その結果に対して自分がどのような価値を評価したか、それに対して生じる感覚、刺激が感情なのではないか。
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・想起した未来の価値に対して、実際に起こった事実としての刺激の価値評価、この反応が感情なのではないかという事。

つまり今認識した刺激に対して、関連して想起された刺激が、
実際に未来に起こった刺激に対しての価値の比較において、どのような差があったか、
予想より高ければ良い刺激であった事になるし、予想より低ければ悪い刺激であったという事になる。
その差についての価値評価が感情に関係しているのではないかという事。

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・価値を失う事に対する反応としての感情

未来に認識することになる刺激についての価値評価という事。
これは上記の通り。
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・赤子が何らかの現状の状態の不満に対して泣くのは、
未来を予測した価値に対して泣いているのではないという事。
今認識している不快の刺激に対しての表現であるが、
これは哀しみや怒りではない別の刺激であるという事。

例えば赤子がおむつが濡れている状態の不快であるという刺激や、空腹であるという刺激に対して、
ただそれを表現するために泣くという行動を実行するが、
これはこの先もこの状態が続いていくことに対する予想をして不安などで泣いているわけではないという事。
この場合に考えられるのは、この不快である刺激に対する反応は感情ではないがそれに似た刺激なのではないか。

自分ではどうにもできない不快な刺激に対して泣くという行動を取っている事になる。

これは大人であっても、自分ではどうにもできない悪い刺激に対して泣くということはあり得るが、
これは感情というよりは、自分ではどうにもできない事に対する我慢という悪い刺激に対しての反応という事になる。

ただし、
我慢することによって哀しみの刺激が生じて認識するのであれば、
それは先に認識した刺激と、現状の不満に対して、
我慢するという関連によって哀しみの刺激が生じたと考える事もできる。
つまり、結果的に感情に繋がる、その刺激に関連した刺激としてその我慢するという状態の刺激がある事になる。

であれば、これも感情としての刺激の認識に対応・関連するということになるだろう。

ただ、我慢による苦痛の刺激に対しての反応として、その状態の表現として泣くという行動を取る場合、
これが感情であるのなら、やはり、先の刺激が存在し、その先の刺激を認識した後に、
その刺激から関連して励起され、想起されようとしている関連した刺激が発現し、再構成され、
その状態を表現したものが感情のある状態という事、その刺激の構成であるという事になる。

ということは、
感情の特定の状態というものは、その状態の刺激というものが存在し、
その状態が励起され、認識に至る事で、その感情の状態が認識されると考えることが出来る。

ただし、泣いているから哀しい、怒っている、というわけではなくて、
その状態に至る関連した刺激が存在する事が最低限、感情を発現するきっかけとして必要となる。

しかし、泣くことで関連した感情の刺激が励起され、哀しくなるという事は当然起こりうる。
もちろん、昔から楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいという事も言えるが、
当然、楽しい刺激を認識したから笑うということも、互いに関連する刺激同士である場合は当然起こるという事になる。

という事は、人間が持つ感情には、それぞれの感情に関連した刺激が存在する事でその感情が現れるという事になる。
つまり、人間が笑うためには、その笑う状態となる刺激を励起するために必要となる刺激が存在する事が条件となり、
その条件となる刺激が励起される事によって、その関連されている笑う状態が励起されるという事になる。

そして、この条件となる刺激は、人間同士で共通する刺激も存在するが、
個体によって独自の関連を持つ場合もある。

独自の例で言えば、笑うツボが人それぞれ異なるというのは、簡単で最たる例という事になる。

共通する刺激については、感覚器官から入力される刺激についての反応は
その刺激の情報の要素に個体差が少ない為、共通する刺激であると考えられるが、
これについても価値設定に個体差があるため、その情報の要素は同じであっても、
価値評価は異なる事になる。

例としては、痛みであっても、好きな人に叩かれるのと、嫌いな人に叩かれるのでは、
その痛みの刺激の価値評価が異なるというわけである。
そして、この好きな人と嫌いな人が逆の人がいれば、その痛みの刺激の価値評価はまったく逆となるはずである。

感情が発現するには、
感情のある状態の刺激が励起され認識に至るまでに、
その関連した刺激が励起されることが条件になるが、
その関連した刺激が持つ情報、要素については、
どのような刺激であっても基礎は変わらない。

生体の本能として持つ刺激の良し悪し、刺激の強さ、という要素と、
感覚器官から受けた刺激が持つ情報とその要素が基礎となる。

つまり、先天的に持つ刺激の情報と、後天的に学ぶ刺激の情報である。

これは感情に限らず、あらゆる刺激の要素として考えられるものである。

ということは、例えば「楽しい」は、
その人間の社会においてひとくくりに「楽しい」として皆が認識していると考えているが、
その「楽しい」には個人差があるという事を知っておく必要があるという事になる。
つまり、人間の全てに共通する「楽しい」は存在せず、
その互いの「楽しい」の全てを集合によって集めた場合に、
もし、全員に共通する「楽しい」が存在する場合においてのみ、
その「楽しい」の感情を構成する要素として決めることができるが、
もし一人でも共通しないのであれば、それは「楽しい」の絶対的な要素、
「楽しい」の真理としては決めることが出来ないという事になる。

普通に考えて、人類の全てが共通する価値を持っているとは考えられないので、
人間の感情を構成するための、共通する要素は決めることが出来ないという事になる。

味覚にしても100人が100人、美味しいという料理はできないと言われているし、
そういう点からも、感情を構成する要素として画一的な要素は決定できないという事になる。

ただし、感情が刺激から構成されるなら、
その要素として普遍的に考えられるのは、刺激を構成する要素、それ自体を、
感情を構成する要素として考えても良いはずである。

刺激の強さ、良し悪し、他我と共有している刺激の要素の種類、
このくらいは緩い共有ではあるが、要素としては共通していると考えても良いはずである。

受けた刺激が痛ければ反発して怒ったり、悲しんだりするし、
受けた刺激が心地よければ、楽しかったり、嬉しかったりする、
他我と共通する刺激という点では、価値あるお金を手にすれば嬉しいし、
価値あるお金を失えば哀しい、
好きな人と一緒に居れば嬉しいし、嫌いな人と一緒に居れば苦痛である。
そういう観点においては、絶対ではないが共通する要素が存在すると考えることが出来る。

当然という事になるが、人工知能においても、その感情の実装においては、
その感情毎の刺激の関連と価値評価については可変である必要がある。

人工知能の笑いのツボが皆同じではつまらない事になる。

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今回のまとめ。
感情には決まった要素というものは存在せず、
ある程度の傾向として共通する要素を持つ事があるという緩い集合であるという事になる。

ただし、人間同士がその感情という言葉として共有する認識は、
それぞれの個体が個別に各感情についての認識を持っているものであるが、
互いに理解しあえる程度には、共通した要素を持っていると言えるものである。

ということになる。

そしてその感情について共有する要素としては、
感情という刺激についての強さ、良し悪し、先天的に持つ刺激の情報と、後天的に学んだ刺激の要素が存在し、
これらは互いに共有し、互いに認識、理解しあえる要素であるという事になる。

今日はこの辺で。


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