2023/2/26
感情を構成する刺激
今日考えている事。
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・238で考えていた「感情」もある種の刺激であるという考え方について、
では、「感情」を構成する刺激の要素にはどのようなものがあるかという事について。
感覚器官もしくは想起によって刺激を再構成し、それを認識した後に、
何らかの目的を持って「感情」が生じる事になるが、
この最初の刺激を認識した時点では、まだ感情となる刺激は存在していないはずである。
しかし、その刺激の認識後に、その刺激の認識に関連する形で、
後のの認識に至る感情の刺激が再構成されることになる。
感情がある種の刺激の形を取るなら、他の刺激と同様の処理を脳内で行うはずである。
通常の刺激はその認識後に、その刺激に関連した他の刺激を励起する事になるが、
では、感情は何か神経細胞のネットワークで構成された刺激として存在するのかどうか。
例えば「怒り」という刺激が存在するのかどうか。
「感情」はある種の脳内の状態、つまり、何らかの刺激を認識した後に、
その刺激に対しての反応として脳内がその状態に置かれている、というものとして今は考えているのだが、
これについては、その先に認識した刺激の価値に対して想起される刺激の価値や評価というものになるだろう。
となると、その先に認識された刺激に対して価値評価をする事、つまり認識する際に、
その価値評価、認識時に何らかの刺激を励起するきっかけがある事になる。
つまり、刺激に対する自分の価値評価に対して、自分がどのように感じるかというきっかけがあるというわけである。
いや、そもそもの価値評価自体が、自分がどのように感じるかという事、そのものであると言う事が出来る。
それなら、刺激を認識した際に生じる価値評価に対して、自分は常にその刺激に対する感情の変化を生じさせるきっかけを
常に受け取る事になる。
それだと常に感情の起伏を覚えることになってしまい生命活動に支障が生じる。
感情の起伏に影響しない状態が存在するか、
認識だけでは感情に影響しないかという事の方が有利ということになる。
例えば、何か理不尽な刺激を受けて認識する事になったと考えてみる。
特に親しくもない相手から突然頭を叩かれたとする。
触覚による頭の痛みの認識と、視覚による対象の認識、その関連でその相手からの叩かれたという刺激を認識する。
理由もなく刺激の強い悪い刺激を認識した事になるが、それについて自分は腹を立てるという刺激を認識する事になる。
その間にある関連について考えてみる。
初期の相手に叩かれたという刺激については認識した後に、
まず、よくわからないという状態になる。
つまり、予期していなかった刺激であり、それまでの状態に何ら関連しない突発的な刺激であることになり、
関連がその刺激から開始されることになる。
痛みの刺激の関連として、その状況を認識することになる。
これは痛みという刺激に対しての生命体の生体の反応として自己を守る必要がある。
周囲の刺激を認識した上で、その叩いた相手について視覚で認識することになる。
思考内ではおそらくその痛みとその対象の発生源についての関連が行われ、
その視覚の相手が叩いたということを思考で関連付けて認識することになる。
これは実際に認識したものではなく、思考によって関連付けられた目的と結果の答えとなる。
別の何かに叩かれたという可能性もあるが、その場において自分が認識できる範囲での答えは
おそらくそのように出されるだろう。
その次は、この悪い刺激の発生源の対象についてという刺激の認識になる。
相手の状態や自分が持つ記憶の要素として、その相手が誰であるかという認識が行われる。
自分の持つ記憶の中で、その相手の価値評価が高いか低いかでその後の自分が持つことになった、
叩いたという悪い刺激を与えた対象についての価値評価が異なる事になる。
また、その相手についての情報の量、つまりよく知っている、知らないという場合についても
価値評価が異なる。
自分が持つ価値観の中で、その相手をよく知っていて、その対象の価値が高い場合、
特に反発するというよりも「どういうこと?」という、
思考の結果としての関連が良く分からないという刺激が優先されることになる。
その相手をよく知らないで、その対象の価値が高い場合もこれに近い。
そして、
その相手をよく知っていて、その対象の価値が低い場合、
この場合はその刺激に対する反発する感情の刺激を認識することになる。
「何をするんだコイツは。」という事になる。
その相手をよく知らないで、その対象の価値が低い場合もこれに近い。
その叩かれたという刺激の認識においては、
その自分の価値評価によってもその反応の差は生じる。
常に自分より他人を低いと評価するような価値観を持っている場合、
それは誰に叩かれようが反発する事になるし、
常に自分より他人を高いと評価するような価値観を持っている場合、
それは誰に叩かれようとも「どういうこと?」と認識することになる。
まず分かる事は、ある刺激に対して感情が生じるには、
各個体が持つ条件によってその基準が異なるという事。
つまり感情は画一的な反応ではないというわけである。
そして、その感情を生じる時の基準は、
やはりその感情という刺激が生じる際に、その直前に認識した刺激についての価値評価ではないかという事。
つまり、刺激の認識は単純にその刺激の情報としての要素を認識しているだけというわけではなく、
それに関連する刺激を、その必要があるものとして、次の関連した刺激の励起を行っているのではないかというわけである。
ということは、感情という刺激があるというよりも、
感情の何らかの状態に値する状態に励起されたと考えるべきだろう。
もちろん、今私が行っている思考のように、その想起によって生じる刺激に対して
感情のある状態に励起されているというような関連する刺激の励起、そういう事が無い場合もある。
となると、感情は、何らかの刺激の価値評価、認識によって励起される関連された刺激のある状態について、
「感情」で表される特定の状態の刺激として認識しているという事になる。
つまり、「感情」で表される特定の刺激の励起状態が存在するという事になる。
ただし、この刺激はその励起時点では認識される前で、プレヒートの状態にある。
つまり、まだその時点で最も強い刺激ではないということである。
そして、その直前の刺激の認識の強度が下がり、次に準備された刺激としてそれらが強い刺激であった場合、
その次の認識として、例えばある「感情」の状態としての刺激が認識されることになる。
これは別に怒りだけではなく、喜怒哀楽、どのような感情の状態についても同じ様に考えられる。
少し長くなったが、
これが自分がどのように感じるかというきっかけの正体ということになる。
さて、そして、次はこの「感情」を構成するある脳内の神経細胞のネットワークの励起状態について考えてみる。
例えばもともと温厚な人の場合、上記の例において怒りを感じるという事は無い。
これがもともと短気な人の場合、上記の例においては相手が誰であっても怒りを感じるかもしれない。
ということは、まずこの時点で、ある刺激に対する反応として、その関連した感情に関する刺激の励起については、
各個体に個人差があるということになる。
つまり、刺激の記憶が励起されるわけであるから、「感情」についての価値観に差があるということである。
しかし、いくら温厚な人であっても、「仏の顔も三度まで」という記憶を持っていたら、
その時点の条件において怒りを感じる場合もある。
ということは、そのきっかけとなる刺激に対して、その刺激が持つ情報の要素に
感情に関係する特定の共通する要素が存在するということも言える。
これは定量的ではないが、要素は存在しそうである。
昨日の238で考えていた要素で、
刺激の良し悪し、時間的な間、すなお・反発方向について考えていたが、
まず刺激に対する良し悪しは存在しているはずである。
それと記載はしていなかったが、そのきっかけの刺激の強さも要素として考えられる。
軽くたたかれる事と、強くたたかれる事でその後の認識が分かれると考えられるからである。
時間的な間については現時点では、そもそも感情とはあまり関わりが無いように考えている。
238で考えた「不満」という状態は、将来的な悪い刺激に対しての反発ではあるが、
それは感情ではなく、状態に近いというわけである。
そして、その「不満」に対する感情の刺激がその時点で感じる感情の「怒り」という事になるからである。
ということは、感情の要素としてその感情の強さ、強弱という要素が存在すると考えられる。
現時点で考えたものは、
前刺激:感情の刺激に関連した前認識の刺激の強さ。
前刺激:その前認識の刺激の良し悪し。
感情:実際の記憶として持っている感情の刺激の記憶の強度・強化度合い。
である。
他には、その前刺激と、感情となる刺激に対する関連の強度・強化度合いである。
つまり、例えれば、俗にいう逆鱗に触れるということは、その感情に対する前の刺激の関連が強いという事である。
一方で怒りっぽい人でも、例えば孫を溺愛していたら悪さをしても怒りはしないという事である。
という事は、感情に関連する刺激は、ある程度の個体差が存在するという事になる。
これは「知らない価値は目指せない」で考えた通りであり、
知らない刺激を感情に関連させることが出来ないためである。
という事は、共通する要素として、
前刺激と感情の刺激の間に関連が存在するが、その関連の種類については個体差があるという事になり、
また、感情についても、その感情を生じる際の条件、前刺激の強さと要素については、個体差があるという事になる。
つまり、この時点で分かる事は、
「感情」の状態を発現する刺激が認識される際には、
その前に認識された刺激との関連が存在し、その関連の励起の度合い、
つまり前の刺激がどれだけの強さで励起され、認識されたかという事、
また、「感情」の刺激が認識される際には、
その「感情」の刺激がどれだけの強度で記憶されているか、その強化度合いによって
その「感情」が発現される強度が異なるという事になる。
そして、「感情」もあるそれぞれある状態を持っていて、
喜怒哀楽などの表現それぞれに、各個体が持つ固有の感情の条件と状態が存在するという事になる。
今日分かった事は以上となる。
そろそろ時間なので以降はまた後程。
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・238で考えた刺激の認識時の価値に対するすなおに受け入れる場合と反発する場合という考え方について、
その境界が存在するならスレッショルドとなる価値の基準が存在するのではないかという事。
その場合、その価値の基準となる量と対象は何か。
各個体の価値観によって基準や対象は大きく異なる。
これは上記の通り。
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感情についての条件や要素はもう少し考える必要がありそうである。
それについてはまた今度ということで。
今日はこの辺で。
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