2023/2/21

思考の素材としての言語・文字

今日考えていた事。
自我の認識について考えていて、
自分の存在も刺激であるというのはこれまでの通りだったが、
その上で、自分を認識するための情報塊としての意味ある認識の対象を脳内に持っていて、
それを想起することで自我や思考にも対応させているという考えに変わり、
自我は自分の想起であるという事だから、ある程度その考え方の筋道はできているから、
では、まだよくわかっていない思考についてもう一度考え直そうかという事になった。

想起にしろ、思考にしろ、その素材は記憶された刺激である。
感覚器官から入力された刺激をそのまま思考には用いることができない。

ではその思考について用いる素材となる情報塊について、
想起する対象となるその刺激はどのような状態であるのか考えてみた。
基本的に思考は刺激と刺激の関連を新たに作り出して、それを認識することなのだが、
その刺激の情報塊の単位としてどのようにしてその刺激を想起しているのか、
そのきっかけとなるものについて考えてみた。

実際、その事自体を考えながら、自分はどういった刺激の情報塊を
自分の思考で想起しているのか考えながら思考していると、
その情報塊を想起する時、まずは自分の思考で言語を用いている事に気づく。
これは、以前にも思考の際には言語を用いて、文章を作りながら思考していると気づいていたが、
さて、この言語の単語1つ1つ、意味の1つ1つについて想起する対象として考えてみると、
いづれもその情報塊には名称をつけているということに気づいた。

その時、私が
「思考で用いている対象となる刺激、
情報塊についてどのようにして想起しているのか、
その意識的な想起のきっかけとなるものは何か?」
考えていて、それぞれ、「思考」「として」や「用いる」「対象」「となる」「刺激」などなど、
それぞれを脳内で次々に想起しながら思考していたのだが、
これらは全て刺激として、情報塊としてあらかじめ神経細胞のネットワークとして
すでに関連を持っていて、それらが都度、想起されるごとに、
その関連した情報塊の要素として、それぞれが神経細胞のネットワークの関連先として励起されているという事を思い出す。
つまり、「思考」「で」「用いる」「対象」「となる」の「で」や「として」や「用いる」は、
その思考と思考に用いる事について関連付ける意味、その情報塊を持っているという事である。
そして、それは、思考することにおいて最終的に「思考で用いている対象となる」という大きなまとまりとしての
情報塊になっているということである。
つまり、この時、私の脳内では、それぞれの単独の「思考」や「対象」を想起するのと同時に
その思考する順において「で」や「用いている」とか「となる」という言葉を想起しながら、
それらの「思考」や「対象」を関連付けて、「思考で用いている対象となる」という刺激の情報塊を
同時に、並行して励起して、それを1つの刺激として認識していたという事になる。

つまり、私が思考しながら想起する刺激として、その情報塊を次々に想起するのだが、
思考するという点から見た場合、その対象の名称を次々に想起しながら関連付けを行い、
というか、それを1つの情報塊として構成しながら想起を続け、ある意味を持つ事、
ある意味を持つ情報塊にすることが「思考」ということになるのではないかというわけである。

つまり、この時の思考においては、あらかじめ記憶に持っていた
「思考」とか「用いる」とか「対象」とか「刺激」というのは、
すでにあらかじめある程度の関連は持っているはずである。
そして、それをもっともらしい、思考するという事における文章として、
脳内で順に想起しながらその関連の順を作り出しながら想起し、
ある程度の思考の結果としての情報塊になった時点で認識し、
今回は「思考で用いている対象となる」になったのではないかというわけである。

つまり、思考は、自身が持つ情報塊について関連についてその順を作り出すことなのではないか。
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そして今回気づいた点が、
言語や文字は脳内の刺激、記憶の出力の方法、そのきっかけに用いているのではないかという点である。

つまり、言葉をしゃべったり、思考したりというのは、
その情報塊につけられた名称、つまり、単語や接続語などの意味を構文として用いる時に、
それぞれの持つ意味を、その言語や文字によってつけられた名称をその想起の関連のきっかけに用いているというわけである。

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刺激の符号化、認識の対象にするために情報を単位化する。
本来、刺激は感覚器官から入力した状態であり、五感に関する刺激を入力するが、
これを想起に当てはめた場合、何らかの単位化した情報塊にする必要があるのではないかというわけである。
つまり、脳が感覚器官で入力するような特定の決まった情報を持つ刺激として扱えるように、
想起する場合の刺激も、特定の決まった刺激の形にする必要があったのではないか。
そのために刺激の意味としての情報の要素の他に、その刺激に対して言語や文字で名称を付けたのではないか。

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出力するための共通名。
感覚器官から入力される刺激に関しては、それは五感としての感覚として、
必要な情報や要素は決められている。
しかし、想起によって発現する刺激に関しては、特定の刺激の識別ができない。
つまり、想起しただけではその刺激が何なのであるかは自身の感覚でしか表現できないことになる。
つまり、自分自身はその刺激の認識に対して、何らかの意味を知覚することはできるのだが、
それを表現する術(すべ)がない。
それは、自分自身に対しても、想起して、こういう感じがするのだが、それが何かを表す事が出来ない。
そこで名称を付けたのではないか。

これは、脳内で言語や文字を使わずに思考しようとすると良く分かる。
数字も使えない、自問自答もできない、文章も作れない、
この状態で思考に用いようとする事が出来るのは五感の感覚の記憶の想起だけであり、
結局それでは何一つとして思考することはできない。

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言語を持たない生物が、その持ちうる知能においてどれだけの思考ができるのかについて考えてみると、
その言語や文字を持たないという想起の制限から、
ほとんど思考はしていないのではないかと考えられる。
思考していないというよりも、思考できない脳であるということになるか。
犬が飼い主を見分ける事ができるのは、飼い主を想起して認識しているのではなくて、
匂いや声や見た目などでその瞬間において飼い主を知覚しているに過ぎないのではないか。
つまり、飼い主であるという対象の刺激は確かに識別出来て、その刺激は記憶できている。
近くにいれば、懐いているようにも見える。
しかし、犬は飼い主の居ない時に飼い主を思い出すことは無いのではないかというわけである。
もちろん、飼い主と離されて別の場所に隔離されれば吠えて呼ぶような動作はするが、
別にそれは飼い主を思ったり、思い出して吠えているわけではなくて、
その仲間と離された状態に対して不安などから吠えているのではないかというわけである。

犬の飼い主が倒れた時に、その犬が別の誰かを呼びに行くというような話がある。
この場合はどうなるのか。
別の場所に移動した場合に、飼い主を想起しないことには別の誰かを呼ぶことはできないのではないか。
飼い主という認識はなくても、世話をしてくれる仲間のような認識はあるということになるか。
元々犬も狼を辿れば、まったく単独で生活していたわけではなく、どちらかというと群れの生活をしていた。
であれば、本能として仲間という認識はできるだけの知能は持っているということになるか。

となると、犬は飼い主に対して何らかの対象として認識し、それについて想起する能力は持っているという事になる。
ただ、それを別の対象に表現する術は持たないということになるか。
訓練を受けた場合の犬については、その飼い主に対する助けを呼びに行くという行動を教えるらしいが、
これは思考でというよりも、経験として飼い主の不調に対して家族を呼ぶというような行動になるらしい。
つまり、犬は理由としての価値があって、その行動を記憶しているというよりも、
その行動に価値があると教えられてそれを記憶しており、それをその状況の刺激に対して想起を起こし、
行動しているということになる。
ただし、その行動においては、例えば飼い主が不調になる場所は決まっていないし、
その対処という行動においては状況はまちまちであるため、
それに対して犬自身の行動は適時、必要な思考を行う必要性は生じる事になる。
となると、犬もある程度の思考は行っているということになる。
そして、それが訓練によって学んだ事だとしても、
それを実行するだけの記憶と想起、状況に応じた思考は出来る能力は持っているという事になる。

ただ、訓練を受けていない犬が、主人の救出の為に何かができるかという事については、
その救出するということ自体を経験していないため、その記憶がないため、
その行動を自ら思考して想起し、実行することができる、という事にはならないと考えられる。
これは人間ほどの知能があっても同じである。
例えば倒れた人がいて、AED装置が横にあったとしても、その知識や説明書なしにAEDの装置が使えるか?と問われれば、
誰もAEDを使える人はいないだろうという事になる。
出来るのは知識や記憶で持っている救急活動、または別の誰かを呼ぶということになるだろう。
救急活動も知らない、人を呼ぶ事もしたことが無い、そういう年齢であるとすれば、出来ることは無い。

しかし、例えば古代、言葉を持つ前の人間において、同類の人間が倒れていたとして、
それを見つけた人間はどのように振舞うかについて考えてみると、恐らくその倒れた人間の様子を見るだろうということは分かる。
その倒れた人が苦しそうにしていれば、言葉ではなく感覚、という共感という刺激によって、
その倒れた人間に対して心配をするだろうという事までは想像できる。

これは別に言語を必要とせず、その状況の刺激において、自分で受けた刺激について認識し、
その認識に対して知覚した感覚ということになる。
その後、どうするかという所が「思考」であり、それはその知能の経験や記憶から関連された想起として
何か行動に移るのかという事になる。

つまり、ある状況の刺激に対して、自分が感じる事になる刺激と、
その刺激に対しての目的としての結果を設定し、その関連を作り出せるのかが、
この場合においての「思考」ができるかどうかという事になる。

目的は結果に対して価値を生じることでもあるので、
その結果としての価値を記憶として持っているかということがその目的を作ることができるかの鍵となる。

となると、話しの最初の言語を持たない生物がどれだけの「思考」ができるのか、
例とした犬が飼い主の不調に対して「思考」して助ける事が出来るかという問いについては、
その犬がその助ける経験を持っている場合に限り、その記憶の想起によって「思考」し、
その救助を実行できるという答えになる。

つまり、「思考」するためにはその「思考」するための材料となる記憶が必要という事になる。

人間が経験もしたことのない行動を実行するために、
その経験の代わりに先の例にも挙げた例えのAEDにおいて、
もし説明書があればという状況であれば、AEDを使用する事が出来るようになる。

これは、説明書に書かれた実際の経験でない図や説明において、
それを見たり読んだりした人間が、その図や文章に対しての認識において、
あたかもそれを経験したかのように認識、記憶できるということである。

実際には学習という事になるが、
実際に行っているのは対象となる図や文章を感覚器官から入力し、
それを刺激として価値設定し、脳内で想起、再構成する事によってそれを認識、意識して記憶することである。

その後、一度記憶とした事で改めて思考し、目的と結果の価値を設定する事によって
状況によってそれを実行することができるようになるというわけである。

この時の学習に際して、この思考としての素材としての記憶を得る対象は図や文章となる。
どちらも視覚から得る事になることになるだろうが、
特に何らかの操作においてはその文章となる説明文から情報を得る事になる。

操作手順にしても、数字の順番にしても、その対象は言語、文字である。

それが最も効率的で人間の脳、知能に理解しやすい対象であるからである。
もし、もっと効率的、効果的な説明があるのなら、説明書にはそれを用いて書いてあるはずである。

ということはである、
人間の知能が、その知識や経験、その思考において、
最も効率的、効果的である素材が言語や文字であるということになるのではないだろうか。
少なくとも現代の人間においてではあるが、
その生物として人間一人の本能では知識継承できなくなった量の知識や経験という刺激を、
外部に出力して保管し、その後の後輩、次世代の為に残すための方法として、
言語や文字を用いることになったのではないか。

それは知能が「思考」する時に用いる素材としての刺激の単位でもあり、
実際、その刺激をそのまま「思考」に用いることができる単位でもあるということである。

ただし、思考において言語や文字をその素材として用いる場合に必要な条件があり、
それは、その言語や文字が対象となる刺激については、その思考を行う知能を保有する個体が、
その個体が持つ感覚器官でその刺激に対して入力し、記憶、認識する必要があるという事である。
つまり、思考する前に、あらかじめその刺激を経験、認識しておかなくてはならないという事である。

つまり、言葉や文字だけを知っていても、それに関連する刺激の情報塊、刺激の情報の要素が含まれていないため、
思考においてその目的や結果の価値が設定できないということになるからである。

これは強い人工知能における思考について言える事となる。
文章の理解、その言語や文字においての入出力ができて、
それが人間にも分かる内容だったとしても、
その人工知能が、その文章に対して、その言語や文字に対して認識を行ったことが無いのであれば、
その言語や文字に対して関連付けられた刺激が存在しないのであれば、
それは「思考」された結果ではない。
強い人工知能においては、その言語や文字の学習の時点で、
その言語や文字の対象となる刺激を関連付けて認識させ、
その言葉についての出力に際しては、その言葉に対する想起が行われるようでなくてはならない。
逆に言えば、その出力に対して想起が行われ、自身がその出力に関して認識できるようになれば、
その人工知能は強い人工知能であると言えるということになる。
つまり、自身の出力に関して、自身で「価値評価ができる」=「認識ができる」という事である。

自身で自身の出力に対して価値評価ができるという事、=認識が出来る事、
それこそが「知能」の真実ということになるだろうか。

簡単に言うと、
自分の考えている事が考えながら、自分で理解できている事、
自分で今、考えている事が正しいか間違っているか、価値があるかないか、が分かる事。

この点についてはまた考える事にして、
今日はこの辺で。
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おまけ
短期記憶のマジカルナンバーと呼ばれるものがあり、
これは人間の短期記憶では平均して7つまで(正確には7+-2の5~9)の要素に関しては
普通に覚えられるというものである。

この情報は人間の認識の対象の上限として、
一度に関連付けられる要素の数なのではないかという事になる。

つまり、文章や文節において、そこに含まれる意味の情報塊が7つ程度までなら
普通に理解できるということであり、
それ以上の意味が含まれると理解に苦しむということになる。

これは、ある刺激に対しての関連についても同様の事が言えるのではないかと考えられる。
つまり、想起において一度に思い出せる刺激の関連要素の数は
このマジカルナンバー内に収まるのではないかということである。

ただし、これは人間において、という条件であり、
これが人工知能であれば、という条件にした場合、
この上限を撤廃する事によって、人間よりも複雑な認識や思考ができることになるはずである。


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