2023/2/19

価値の種類

今日考えていた事。
価値について。
何か自分にとって価値がある、価値が無いと感じるのは何なのか考えていた。
価値=刺激の点からも考えていた。
そして気づいた事は、最初に思いついたのは、価値には2つの種類があるのではないかという点。
そして最終的には価値がどのような形態であったとしても、認識する対象としての刺激であるなら、
その価値の種類というのは1つしかないのではないかという点。

最初に思いついた、価値には2種類あるのではないかという点は、
認識する時の刺激であり、その意味の要素でもある価値は、
感覚器官が受け取る刺激に対して設定される価値と、
後天的に人間が社会生活などを効率的に送るために、互いの共有する意味としての価値があるのではないかと考えた。

つまり、人間の生体としての生物として本来持つ感覚が受け取る刺激に対して設定される価値と、
人間が社会的に互いに共有する事になる、後から学ぶことになる価値があるという事である。

感覚器官から受けとる刺激に設定される価値は、本能を参照して設定されることになる価値で、
その価値はこれまで通りの刺激の強さと刺激の意味としての要素について設定される。
これは人間の生物として持つ感覚に対して設定されることになる刺激の価値であり、
後から大きく変化することのない価値となる。
そしてもう1つの後天的な価値は、
本来人間が持って生まれない価値であり、知能が後から学ぶことで設定が可能となる価値である。
この価値はもともと自然界には存在しない。
お金であったり、地位や名誉、そういった生物がもともと持っていない価値である。

人間はこの後天的な価値に対しても、その対象の認識に対して刺激を受け、価値を設定することが出来る。
それを価値ある対象として記憶しているからである。
例えば幼子に金の延べ棒をプレゼントしたとしても、ただのピカピカな重い物体としか認識しないだろう。
まあ本能でピカピカ光る物としては価値を見出すかもしれない。

最初の価値についての種類の思い付きはここまでであった。

そしてその次に、ではこの2種類の価値について認識することになった場合、
その認識の方法に多数の種類が存在することになるのか考えてみた。

しかし、認識の対象の種類が様々であったとしても、その認識自体は、
刺激の再構成体であるために種類は1つである。
そして、神経細胞のネットワークにおいて神経細胞に種類が存在しないのであれば、
その刺激についての種類は多数存在しようがないと考えた。
であれば、刺激=価値という考え方において、価値にもし複数の種類があったとしても、
その認識の際に用いる事になる神経細胞もその神経細胞のネットワークも同じものが使われることになる。
ということは、刺激の種類、価値の種類に関わらず、その認識方法は1つであるという事になる。

ということは、価値の種類が複数あるというよりも、
その刺激の発生する場所によって設定されることになる価値が違うことになるだけであり、
その認識する対象となる刺激や価値には同じ素材が用いられるという事になる。

つまり、感覚器官から受ける刺激を元にして認識する対象となる価値が作られる場合もあり、
後天的に学んだ、自然界には存在しなかった価値を新たな刺激として認識、記憶し、
それらの要素を組み合わせて作り出す価値もあるという事になるが、
認識においてはその刺激や価値としては共通するものであるという事になる。

つまりは、集合として「価値」というものがあった場合、
その要素として、「先天的に持つ価値」と「後天的に持つ価値」があり、
「認識」において対象となるのは「価値」であるという事になる。

それについて言えると、
本能として先天的に価値が設定できる刺激があり、
後天的に学んで価値が設定できる刺激があるということにもなる。

今日はこの辺で。


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