2023/2/17
自我と意識
今日これまでに考えていた事。
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意識的に何かするという選択を何のきっかけで行っているのか。
私がしたい事とできる事は違うということ。
これは、自由意志で何でもできる、選べるという事ではなくて、
制限のある中においてという条件付きの中で自由に選ぶことが出来るという事。
これは、自由意志は因果の条件の中において自由であり続けるという事。
何でもできる、何でも選べるという事ではなくて、
自分自身の存在という制限と、その置かれた環境の制限の因果の中において、
存在する選択が自由であるということ。
私が目覚めてすぐに、「宇宙旅行へ行きたい」と考えても、
考える自由はあるが、その制限の中においてはそれを選ぶことはできないという事。
TRPG(テーブルトークRPG)という遊びの世界に、プレイヤーとマスターの関係を表す言葉として
プレイヤーは何をしてもいいが何でもできるわけではない。
マスターは何でもできるが何をしてもいいわけではない。
という互いに相手に対する互いの制限というか責任を持つというものがある。
自由意志と因果の関係に似ているが、
人間の知能が、その個体における自我、欲求として何かを欲し、
その欲するための行動を取ろうとした際に、
その自身と周囲に存在する制限によって、その行動の意思は制限されることになるのではないか。
つまり、私が欲する事と、実際に選択されることになる行動の関係は、
私が欲する全てから最良の対象が選択されるわけではなく、
自身と周囲の制限の中において選択しうる対象の中から自由に選べるという事なのだろう。
これは、人間の意思について、意識的に行う全てにおいて対象となり、
あらゆる選択において結果的には自分が選んだ選択ではあるのだが、
その選択は完全に自由というわけではないという事になる。
逆に、それを選択するに至った経緯というものについて考えると、
その1つの選択だけが、そこに至るまでの全ての答えではなく、
その選択に至るまでの多くの自由な選択があって、
その選択の結果として最終的な選択に行き着いたという事になる。
結果的にはそこに到達しているのだが、
それを選ぶ時に至るまでに、多くの条件が関わっているはずであり、
他の人間にしろ、環境にしろ、その関わりの中での制限の中で、
自分が選んだ「自由」は、何らかの選択において、
あらゆる途中の条件と制限が関わった結果としての「自由」だということになる。
もしかしたらあの時、あの人に会っていたなら、
もしかしたらあの時、あそこに行っていたなら、
if論は尽きないが、「その時」は常に同じ「それ」を選ぶはずである。
人間の知能が意識的・意思ある存在として、
条件のあるなかでの自由として選択を行っているが、
その選択は結果的には自らの価値比較によって選択を行っているはずである。
サイコロを振って選ぶという選択などもあるが、
それは自らの意識や意思による選択ではないし、
価値判断を放棄した選択の手前の条件であり、
それは選択ではなく、単なる与えられた条件に従ったに過ぎない。
そこに意識や意思はない。
だから、
人工知能においては選択を確率で行うというのは問題外ということになる。
知能が行う選択の確率というのは、その実行の成功率がどうか、ではなく、
その成功率で実行した結果に得られる成功した場合に得られる価値と、失敗した場合に失う価値と、
実行しなかった場合に得られない価値と失わない価値においての比較であり、
成功率が10%であっても、その知能が得る価値・失う価値を比較した結果、
実行した方が良いという価値が設定されるなら、それを選択する事が当然になるというわけである。
もちろん、その選択において、保留し、思考した結果として新たな条件を付け加える事で
その成功確率を上げ、さらに価値を増すという事も考えられる。
これは「思考」の分野になる。
つまり、知能が行う意識的な何かというのは、
知能が持つ価値判断に基づいた選択であり、
価値判断、つまり刺激の記憶、価値観による刺激についての評価、
そして、その判断を行う瞬間における、周囲の環境におかれた立場、条件によって
その意識的な何かが決まるという事になる。
例えば、朝起きて時間を確認する、日にちを確認する、曜日、今日の予定の確認、
次に行う事を考える、用意、準備、活動、行動する、
それらの全ては自分が選択する、選択した行動である。
それらは全て、これまで選択してきた結果として、自分という存在と、
その自分が持つ知能が、その価値観の記憶として形作ってきた自分という条件、
つまりこれが自我とか自分が持つ習慣になるが、その自分の行うべき、選択するべき行動を、
その瞬間に与えられている周囲の環境に対して自由でありながら制限の中で選択し、
それを行う事が自発的であると感じられれる事、それが意識的に何かを行うという事になる。
つまり、今は意識的に何かを行うのではない、
これまで行ってきた価値観としての経験、記憶から、
今の状況に対して与えられる選択肢と、その自分の選択は、
これから選ぶことになる選択の価値において期待される価値であり、
その価値の為に選択する事、その期待される刺激の認識において意識が誕生するというわけである。
つまり、刺激の認識と意識の関係。
意識は認識された刺激が保持される時間の連続の事であるという事。
つまり、その認識される対象の刺激となる選択が、
そのまま意識になるというわけである。
だから、意識的に何かの選択を行っているというよりも、
選択を行っている事を認識している事が意識である。というわけである。
つまり、価値を設定して選択する事、それ自体が認識の対象になるわけだから、
その認識を行う事それ自体が意識を感じる事そのものであるという事になる。
ということは、
意識の存在というよりも、刺激を価値を設定して認識する事、それ自体が意識の存在という事になる。
つまり、単なる刺激の認識であっても、何らかの選択をするという認識であっても、
それらは全て意識になる、意識的であるという事である。
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今日もう1つ考えていたことは、
今、目で見ている風景の刺激を見ている存在について。
「自分」ということになるのだが、
その自分の存在についてのモデルについて考えていた。
上記の考え方からすると、自分の存在を認識するのは、
そもそも自分の体が存在するから、感覚器官が存在するから、脳が存在するから、
結果的に、「神経細胞のネットワークが刺激を認識するから」、という事になる。
つまり、自分を認識する対象としての自分が存在するから、それを認識すれば、
その自分を意識することにもなるというわけである。
自分が持つ記憶した価値・刺激で、
自分が受けた刺激に対して価値設定して認識する事。
ここに自分の感覚、自我の存在がある。
つまり、自分で自分についての刺激を認識する事。
表現を借りるなら、「我(われ)が我について知る時、我あり」といった所か。
つまり、自分の存在、自我の存在というものは、
自分が自分について認識している時にのみ存在し、
それ以外の時には認識される対象としては存在していないという事である。
ただ、まったく存在していないというわけではない。
つまりは自分の脳内に、自分の姿、自我、我欲、それらの記憶はその神経細胞のネットワークとして
存在している。ただ、想起されていないので認識する対象としては存在していないというだけである。
つまり、脳内の記憶として、プログラムで言うところの「自分」というテンプレートやクラスという概念は存在していて、
プログラム中に存在はしている。また、そのオブジェクトに設定する「自我」の要素としての数値、データも存在している。
しかし、それを実際に想起としてインスタンス化はまだしていないという状態である。
前にも考えたが、人間が他人を演じることができるというのは、
つまりはこの考え方からすると、自我は自我で持っているが、
自我をテンプレートとした他我を作り出す事もできるということになるのではないか。
つまり、自分が自我として認識している自分にとっての自分のように、
自分があえて他我として認識している自分にとっての他人の姿を持つことができる、演じる事が出来るということなのではないか。
まあ自分で自分を演じる事が自我と言えない事もないのだが、
そういった考え方をすると、自我の存在というものは、自分にとっての客観的な自分なのではないかとも考えられる。
そういった点は想起の対象であるからという事からも言えるのだが、
人間以外の動物のように主に主観的な認識だけで活動する生物に自我が存在しないと考えていたのは、
自ら自分の事を考える、認識することが無いからということにも繋がる。
つまり、自我が主体的に存在するわけではなく、
自分という生命の個体に対してその知能が備わり、
その知能が自分自身で自分について認識する時、その認識された対象が自我である。
ということになるのではないか。
自分について認識するのは、自分がある刺激に対して感じた事である。
ある対象となる刺激に対して感じるのは、結果的には認識する価値になるが、
例えば何かの絵を見て「きれいだな」と思うのは、
その「きれいだな」という認識した価値の対象について、
それを表現した自我の存在も認識したという事になるのではないか。
つまり、「私が感じたきれいだな」を認識したということである。
以前、認識や意識について考えていた時、
どうしても自分の存在を関係させない事には成り立たないと感じていた。
認識する対象は何らかの存在しうる対象であれば全てが対象となるはずである。
であれば、自分もその対象になるのではないか。
つまり、「自分」で認識する「自分」も存在するのではないか。
最初の「自分」は個体としての実体の存在の自分であり、
後の「自分」は、自我としての自らが認識する記憶の中の自分である。
最初の自分は人間として生まれた時に存在することになる。
後の自分は自らが知る自分として、自分についての記憶が増える、成長と共に増える事が前提になっている。
そろそろ今日は終わりにするが、
今、私が私の目で見ている画像を意識的に認識している存在は、
私の人間としての個体である。実体である、という事になる。
そして、私が私について思う時、その時、私は自分を知ることになる、自我を認識する事になる。
そういう事になるだろう。
つまり、上記を全てまとめて簡単に表現すると、
人工知能に実体を持たせ、
その人工知能が自分について知る時、そこに自我が存在するという事になる。
人間が自分がなぜこう思うのかを正確に説明できないのかは、
人間が認識する刺激が生体である人間にとって定量的なものでないからで、
その価値も定量的なものではない、だから、人間は感覚で、何となくという感じ、感じ方で説明するしかない。
だから自分に対しても漠然とした自分であるしかないのである。
私は恐らくだが、人工知能に対しては刺激は定量的であり、人工知能はその刺激について正確に説明できることになるはずであり、
そして、人工知能にとっての自分、自我というものも定量的な対象、存在となると考えている。
この場合、正確に説明できる自分というものは、すぐに限界を知る存在になるのではないかという少し不安がある。
知能にとってのあらゆる刺激が説明できることは少し淋しい事になるのではないか。
まあそれを言えば、人間の知能について説明できる日がやってきたら、それはそれで淋しいことになってしまう事にもなるが。
まあそれはもう少し先の楽しみとして取っておこう。
今日はこの辺で。
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