2023/2/6

思考の理解・思考の方法・その1

思考するのにあたって、その演算や論理といった思考を行う認識する対象について、
その思考の実行自体を行う方法について考えてみた。

そもそも、思考がその目的と答えを持った状態で始めて、
その関連を記憶している刺激の情報の要素を思い出しながら、
その答えにとってもっともらしい回答を得る作業であるとすれば、
その思考で用いられる部品は、自分の記憶された刺激となる。

そして、その手持ちの記憶の部品をその目的と答えの関連に
当てはめる事を試行し、最終的にその関連を得る事が思考ということになる。

そして、その関連を得ることが思考であるなら、
その関連となる刺激の要素を試行する際に、
それを選ぶ必要が出てくることになる。

思考をするのにその関連において、まったく関係のない刺激を当てはめる、
というような事は行わないということである。

つまり、思考の関連を作り出す試行においては、
その選択される要素となる刺激についてはある程度の選択が行われるということになる。

知能が用いる事の出来る機能の対象は限定されていて、
さらに思考に用いられるのが想起であるわけだから、
その想起の対象となる刺激の選択においては、
効率的という面からも、一定の選択を行うはずである。

そして、思考において、その目的となる対象の刺激について考えてみると、
その思考を行う方法について何らかの規則があるという事に気づいた。

つまり、今「何らか」と書いたことについてである。

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最初に思いついたキーワードは「ど~」だった。
つまり、どれ、どれを、どこ、どうやって、どういった、という言葉で、
私が頭の中で良く繰り返す用語である。
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思考に何か法則があるのは間違いないと考えられる。
つまり、自分の考えるパターンのようなものは存在していて、
それは、それまで自分が「思考」している時には、
認識や意識されないものだが、確かに考え方のようなものは常に存在している。
考え方の癖のようなものは存在するというわけである。

この時、私が思考する際について考えてみた時、
目的や答えという認識をしないで思考する際、
よく頭の中で繰り返し文章化されるのが「どうやって」「どのように」
「何が」「何を」という言葉である。

数学の公式・数式のように確かな何かがあるわけではないが、
数学の答えのような他に選びようのない回答を得る思考でない場合、
私はその自分の思考においては頻繁にというか、ほとんど必ず、毎回、
この「何か」についてをきっかけとして思考を始めている。

この「何か」について考えてみると、
ある思考についての目的と答えを持ち、その思考を始めた時、
この「何か」が何に当たるのか考えてみると、それが、この、
目的と答えの関連の為の素材という所に当たるモノだという事になった。

つまり、この「何か」を考えている事が、
そのままこの目的と答えの関連の素材を選択している事になるのではないかというわけである。
実際は、選択というよりも、目的と答えに関連しそうな、というか、
その目的や答えにもともと関連して記憶されている刺激について、
その想起を試行して試している状態であると考えられる。

つまり、私は「ど~」という用語を頭の中で繰り返しながら、
その時思考している目的と答えについて、その思考対象としての刺激を励起することで、
その刺激にもともと関連されている様々な要素についての励起を促し、
認識に至るように仕向けているのではないかというわけである。

だから、私が思考していると感じている最中に思い出されるのは、
その思考自体のパターンとしての素材の想起についての働き、それ自体と、
その「ど~」によってその思考の対象となっている問題と答えについて、
あらかじめ関連して持っている記憶の素材ということになる。

つまり、思考の方法自体と、思考対象の目的と答えに関連した要素を想起する事、
それが「思考」になるというわけである。

思考の方法は、そのもの「ど~」「何~」である。
例えば「どれ」「何か」であれば、その思考の目的は、
その目的となる価値に似合う対象を選択する事であり、それが答えとなる。
そこで想起が試行される対象は、その目的か答えに合致するもっともらしい答えであり、価値を持つ対象である。
例えば今何が飲みたいか考えた時、
その目的は「何か」答えは「飲みたいモノ」である。
思考で試行されるのは、今ならその答えに関連した対象を想起することになる。
周囲の環境から、過去の経験から、現在手に入りそうな飲料について想起され、
今の体の感覚や、嗜好から、その飲料の想起は選択されることになる。
インスタントのスティック粉末飲料「カフェオレ」「ミルクティー」、
これは過去の経験から優先された対象である。
すぐに想起されなかったが他にもすぐに手に入りそうな対象もある
「水」「白湯」「ココア」「牛乳」。
ただ、今は食後すぐであり、喉も乾いていないので、
実際に何かを飲もうという行動までにはならなかったが、
仮に飲むとしたらで思考した場合の答えはこういうことになった。

実際、思考というモノは、同じ目的と答えだったとしても、
その場、その状態、その置かれた環境によってまず条件が異なり、
その思考する知能、個体、記憶や価値、経験によって、
その思考される結果の関連はいつも同じとは限らない、
むしろ、様々な条件によって、その思考とその結果が同じになることは少ないと考えられる。
しかし、人間の知能、その個体の経験、活動範囲、置かれた環境は、
ある程度の条件の収束が行われている為、
条件を合わせれば合わせるほどその結果としての関連は同じものに似通っていくという事になる。
つまり、それ以外が選べないという事になっていくというわけである。

最終的に人間の脳の機能が同じであるなら、その刺激の材料の量、つまり経験などには違いがあって、
思考の結果は異なる事にもなるが、その思考、それ自体の方法については、
その脳の機能の制限により、決まった方法があると言えるという事になる。

例えば、自転車に乗っていて前方に歩行者が同じ向きで歩いていたとする。
つまり、自分の自転車はその歩行者を追い抜く形になる。
そして現在その道路はセンターラインの無い幅であり、やや右にカーブした道路に差し掛かっていて、
その道路のさらに前方はカーブの先が見えない状況にあるとする。
歩行者は道路の端に寄っているとしても、
追い抜く際には歩行者の安全の為、道路の反対車線側へ膨らむ必要がある。

特に何か考えなくても、普通に自転車がカーブに差し掛かった時点で速度を落とし、
前方の歩行者の位置と、そのカーブの先にある道路の状況として、
対向車の有無を確認することになる。
そして対向車がいなければ歩行者を追い抜く形になり、
対向車がいれば、速度を落としたまま対向車をやり過ごし、
その後で再び対向車の有無を確認して歩行者を追い越すことになる。

2023/2/7

この時に何を思考しているのか。
自分自身の目的の把握、
まず自分の活動の目的の把握がある。
これは自分が移動中であるということからも、
この道路の先へ自分が移動するという目的を持って、
現在その行動中であるという認識がある。

周囲の状況・環境の把握、
自分の位置、歩行者の位置、道路の形状、
自分と歩行者の移動速度などの認識がある。

自分自身の状況・状態の把握、
自分の位置と移動している速度、自転車を漕ぐ移動の認識。

危険から逃れる予想される過去の経験の想起。
これは現実に存在していない刺激であり、
過去の同様の状況や、道路上であるという事で、
対向車の存在の予想の認識。

自分自身の時間経過後の変化の予想。
これも現実にはまだ存在していない状況であり、
自分がこれから移動するであろう、行動するであろう、
次の活動目的ということになる。
今回はこれから歩行者をやりすごしてその先に移動する事となる。

全体的に見ると、今自分の置かれた状況、その空間的な配置を認識して、
その自分の目的の行動に対して、自身と周囲の環境の予想される変化への対応を想像して準備しておき、
それに対して実際に試行・実行することになる。

という事になる。

今回の例においては、基本的にどのような人であっても同じような思考と実行をするはずである。
わざわざ歩行者に衝突する必要はないし、対向車の予想は誰しもがすることになる。
つまり、ある状況・状態において、人間の知能はその知能の構造や似たような経験・記憶をすることにおいて、
同じような思考をするということ、思考について何らかのパターンが存在するということになる。

知能において、その思考に、その何らかの傾向が存在する事ということについて考えると、
人間の知能が経験できる刺激において、その感覚器官が共通するということ、
そして、その思考において、用いる事になる刺激、
それが何らかの共通点を持つという事になる。

そして考えてみると思い当たるのが「文字」「言語」「感覚」であった。
何らかの対象について認識するには、その刺激の情報を認識すれば良い。
それはこれまで通りである。
しかし、それを想起した際に、刺激を知覚する様に感覚で感じるという事はできるが、
この場合、その刺激は思考の対象になっていない。
これは、思考がある目的と答えの関連付けであるという点において、
思考する目的のない想起は単なる思い出しに過ぎないという所にある。
思い出すこと自体が目的ではあるのだが、それは思考ではない。
そして、思考とは何が違うかについて考えた時に、
自分の頭の中で思考についての文章を組み立てていることを思い出した。

つまり、

そして今日気づいたのは、
・刺激の表現のために文章を作っているという事。
・変化を文字・文章で表現できるようになったから思考できるという事。
・思考は刺激の変化について、文字・文章・記号・符号で表現するようになったのではないかという事。
・私の多用する「つまり」は前記を表現し直して表現するという事。
・表現はある脳の状態を記号化する事であり、文字は、その表現そのものの考えを表す方法であるという事。

2023/2/11

つまり、
人間の知能において、その機能や構造が決まっているという事は、
それを用いた思考の方法には何らかの規則・制約が働いていて、
パターン化しているということ。

つまり、思考そのものが今の人間の脳に都合の良いシステムになっているという事。

知能が、脳が、思考を必要としたために、脳が持っている機能でそれを再現しようとした場合、
逆に考えると、思考を再現するために脳が持っている機能で作り上げるしかないという事になる。
どちらが先か、という話にもなるが、
結果的にはその機能を持ったが故に、今の人間の繁栄まで行き着いたという事になる。

そして、それを再現するために用いた認識が「仮想化」というものではないかという事になる。
まあ、つまり、「想起」の機能である。

私が頭の中で文章を作りながら思考しているというのも、
認識して保持している目的と期待する結果についての関連を作り出す方策としてであるし、
それらは全て「想起」が起点になっている。

思考のそれは「想起」の能力そのものなのではないか。

人間が特段、思考能力が高いのは、想起の能力が高いということになるのではないか。
そして、それは、そのまま刺激の記憶能力の高さ、認識能力の高さ、という事にもなる。

刺激を情報の要素で抽象的に記憶しておける能力。
そして、その要素を互いに関連させることができる能力。

人間がパターン化して何かを考えるというのは、
それはそのまま過去に経験した思考の記憶を想起している事になる。
つまり、前に使って上手くいった考え方を今回も使おうという事である。
もし、前に使って上手くいかなかったら、今回は別の考え方にしようという事にもなる。
もし、過去にその状況に即した考え方をした経験がなかったのなら、
似たような考え方、もしくは、新しい考え方を思い出そう、使おう、という事になる。

人間が成長過程で初めて思考する事について考えてみると良いか。
最初は主観的な認識だけであり、刺激の認識においてもその要素毎に分けるというようなことはせず、
ただ単に刺激を認識して記憶するということに留まる。
その後、自分の目的や欲求を持つようになり、それを周囲へ表現するようになる。
この時点では基本的に周囲の環境が、この自分の目的や欲求に一方的に従ってくれることになる。
その後、状況に応じて自分の目的や欲求が周囲に認められない場合が出てくる。
感覚としては、この時期に「思考」の始まりが訪れると考えられる。

つまり、自分の目的や欲求の表現が、周囲の状況の制限によって、
一方的に通じない、通らないという状況が訪れる、その時、という事になる。

自分の目的や欲求が通らないなら、何とかして自分の目的や欲求を実現するようにしなくてはならない。
ではどうするか。となる。
であれば、人間の脳は、過去の記憶から以前上手くいった方策、方法を思い出して、
それを再現する事が最も容易で、最も実現の可能性が高い事になる。
それは、過去に経験した上手くいった価値の高い記憶だからということになる。

今ふと思い出した子供の「イヤイヤ期」
自分の都合が周囲に認められない為に反発するのだが、
これはさらに幼い時期には全てぐずっていれば周囲が認めて何かしてくれたという記憶があるからなのではないか。
他に方法の記憶もないし、それならば過去に上手くいった「ぐずり」を再現すれば良いのではないかと思うのではないか。

つまり、思考の経験を仮想的な思考する方法として記憶し、
その記憶を想起によってパターン化、つまり、刺激の要素として用いることで、
思考に用いているのではないかということである。

今回3日に渡ったので
考えが途切れ途切れになっているが、
表題の内容が大きいので、とりあえず「その1」としてまとめておく。
その2は次回に改めて考える事にする。
今日はこの辺で。


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