2023/2/3
思考の理解・思考の素材
思考の動機付けが主観的な認識でない意識となる際、
その意識の為の認識において、
思考となる想起において新たな刺激・価値を期待して、
その思考の目的となる刺激に関連した刺激同士を新たに関連付ける事で、
その目的にもっともらしい刺激として認識できた時、
その思考は答えを得たことになり、思考を行ったと認識できる。
刺激同士に対しての操作は、新たな関連を作り出すこと、
その関連を強化する事、その関連を弱化する事だけである。
それだけで思考ができるものか考えてみたのだが、
その素材が五感から得る事の出来る刺激の情報だけであり、
それを用いた関連が全ての刺激の記憶になっているのなら、
その関連同士の関係について、何か論理的な関連を関連させれば
その刺激同士に対しての思考が成り立つのではないかと考えた。
つまり、例えば論理的な演算子を自然界の中で見いだせないか考えてみた。
和算や減算については所有物を食べる食べないとか拾う、貰うなどで
増減を認識することが出来る。
それを論理的に認識することができればその認識は
刺激の関係において論理的な演算子になり得るのではないかと考えた。
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2023/2/4
昨日の続きを考えた。
刺激が感覚器官からの情報のみで成り立つわけであるから、
その記憶や想起もそれらの情報のみで成り立つことになる。
つまり、記憶となる情報の素材は全て感覚器官から得られた情報のみで成り立つ事になる。
刺激の情報においては、その情報の要素毎に分けられ、
その要素1つ1つに対してが記憶の1つのまとまり、単位となる。
例えば、味覚の情報が、現在では甘い、塩辛い、酸っぱい、苦い、旨いの5つで、
味覚には分類されないが、辛いとか渋い等の表現もあるという事になっている。
味蕾で認識できる刺激だけが味覚ではなくても良いと思われるが、
実際の所、人間が食物を食べる場合に、その感覚としてその食物が持つ情報に対して、
味として評価される各要素それぞれの刺激はその食した時点において、
それぞれの要素とそれらの各要素の強度が刺激として認識されることになる。
逆に考えると、味に関する情報はその味覚として存在する感覚器官が捉えられる情報しか
得ることが出来ないということである。
つまり、人間にとっての食物の味は、その感覚器官が得られる要素でしか成り立たないという事になる。
それは、記憶された味、味に対する想起、思考についても同様で、
人間が味について考える時はその味の要素以外にはその刺激の素材を持たないわけであるから、
その中だけで想起したり、思考したりする事になるというわけである。
ただ、人間に限らないが生命は「食」に関しての欲求がかなり高いウエイトを占めていて、
さらに特に人間はその食に対する刺激や価値の評価を調理によって変化する術(すべ)を持った為、
さらに、その見た目や匂いも含めて、より美味しく、味の刺激を強めるということができるために
現在の料理という価値まで得ている事になる。
とはいえ、人間の味覚には味覚以外の刺激の対象を味として認識する機能は無い。
いい匂いも含めた料理であったとしても、その匂いは嗅覚の範疇(はんちゅう)となる。
ということは、味について思考、論理的に演算する場合、
その対象は味覚の感覚器官から得られる情報の要素のみを対象とすることになる。
例えば料理中の食材を味見してみて、何かが足りないと感じた場合、
その味見で認識された味覚の刺激に対して、自分が持つ旨い料理、味について考えた場合、
その旨いと思われる味の記憶、その刺激の各要素の強さに対して、
そこからの差として味見した味に対しての差をその思考として認識する事になるわけである。
味見してみて、記憶された旨い味に対して塩味が足りなければ塩分を足すことになるし、
甘みや旨味が足りなければ、それぞれ砂糖やみりん、だしなどを足すわけである。
嗅覚の香水の調香や、聴覚の音楽の作曲・編曲、視覚の絵画や、触覚のクッションの肌触り等、
各感覚器官に対する刺激は、それぞれの感覚器官だけが持つ要素を元にして、
その刺激に対して演算や思考の対象となっているのである。
そして、そこで用いられる刺激の要素はそれぞれの感覚器官が持つ固有の情報の要素となる。
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演算の刺激、論理的であるという刺激の認識、という考え方。
刺激がその感覚器官から得られる情報で成り立つなら、
あらゆる認識の対象もそれらの情報を元にした要素から成り立つという事になる。
そして、この場合、
その思考の対象となる刺激についても同様であり、
であるなら、その思考に用いる事になる論理や演算といった規則も
その素材となる要素から成り立つことになるはずである。
上記のように加算や減算といった演算は、
現実において何かを拾ったり、何かをなくしたりということで成り立つが、
これを人間の脳で認識する場合はその対象となる物体の個数の変動の認識から分かることになる。
この個数の変動という刺激については、
例えば何か食べ物を拾って数を増やす、食べ物を食べて失う、といった
基本的な生活の中でも認識できる刺激となる。
思考が、それらの刺激の記憶の想起の関連で成り立つわけであるから、
それが食べ物であろうが、石であろうが、木材であろうが、
その論理的な演算部分の刺激や認識については共通して用いられる刺激の要素となっている。
つまり、対象を得る、失うということがその今手にしている物体の数や量の増減に対して、
その演算するという論理的な刺激を想起に、思考に用いることが出来ているという事になる。
ということは、その論理的な演算という刺激についても、
知能にとってのある刺激の単位として認識されるものであり、
刺激の要素として成り立つものであるという事になる。
自然界における感覚から得られた情報としての増減の認識などが元になっているが、
その増減の認識においては、その要素として価値・刺激の変化として捉えられる認識の要素となる。
これを思考の際に想起で、別の対象にその刺激の量の変化を適応することが、
この場合の演算の適応という事になる。
つまり刺激の変化について、その変化自体を刺激として認識して想起して用いているという事である。
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認識する単位、刺激の単位について。
単位は人間が刺激を共有して認識するために設定したモノであり、
自然界に元々あった存在ではない。
人間の感覚器官に都合の良い認識方法として設定されたものである。
1mmという単位は視覚情報なしにしては認識のしづらい単位であり、
1gという単位はその物体の重みをその手で筋力への抵抗の感覚を持たずには認識しづらい単位である。
単位の定義は人間同士がその対象にとっての単位の認識を共通化するために設定するものである。
過去にはその重さの秤や、容量の升などは国や組織が管理していたモノであったし、
現在も国際機関のような組織で皆同じ決まりでその単位を使いましょうという決まりもできている。
四則演算の記号もそうであるし、
それこそ数字や言語の文字も、その情報の要素の単位として表されたものである。
例えば、象形文字がその文字、記号としての意味、刺激の単位としての情報、
知能の初期段階における単位としての認識として、ある刺激の対象をそのままの意味で単位化するというのは
理に適っているし、もっとも簡単な認識の方法である。
人間の知能が、何らかの認識する対象について、
他の人間と共有化するために定義を決めたモノが、これらの単位という認識になると考えられる。
つまり、知能においてもその認識には個体差がある。
ある者は身長が高いし、ある者は低い、重い、軽い、
人間の背の高さなどはその人にとっての高さであり、
自然界に人間の決められた背の高さなどというものはない。
現代の平均値などによって定義して共有化する事で、あくまで指標となる定義が存在するだけである。
価値や刺激についても、本来の自然界において、
決められた定義などは存在しないのである。
人間が互いに協力し合う事で社会を構成し、
その社会を効果的に機能させるために互いの認識する対象について定義をして、
それを共有化することによって互いの理解の齟齬(そご)を無くそうとした理想ということでもある。
だからというわけでもないが、
いざ今の人間に理解の出来ない、認識した事の無い刺激に対して、
新たな認識を行う事に直面した場合、その定義が済むまでは、
その刺激はその鋭敏さと価値の高さによって、理解に苦しむが期待される刺激という事になるのだろう。
人間の次の新しい刺激の認識、大転換は何になるだろうか。
個人的には人工知能のシンギュラリティであって欲しいが、
宇宙のダークマターや素粒子についても期待大である。
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人工知能と人間の共通の認識のために。
人工知能が感覚器官を持たない場合は、あらゆる刺激に対して人間と同様の認識は行えない事になる。
昆虫のある種は、紫外線に対しての視覚情報を得る感覚器官があるが、
人間にはそれが無い為に同じ花を認識してもその認識対象の姿は異なる。
しかし、人間は現在、紫外線に対する視覚認識をできるセンサーを獲得したために、
その紫外線を感知できる感覚器官を持つ昆虫が認識しているその花に対して、
人間なりの認識方法ではあるが、その紫外線の在り様というのをその昆虫が認識しているであろう
感覚のように見て取ることが出来るようになった。
つまり、人間はその昆虫と同じ紫外線の反射を見て取る感覚器官を得たのと同様という事になる。
それは、その紫外線を見る事ができる以前は、
例えばその昆虫が人間と同様の知能を持っていたと仮定して、
その花についての表現を比較したならば、まったく異なった花として認識している事になる。
しかし、人間がその共通する感覚器官としてのセンサーを得た事で
共通した紫外線への認識を持つことが出来るようになる。
であれば、人工知能において、人間と同様の感覚器官を持たなければ、
人間と同じような認識も思考もできないという事になる。
少なくとも、能力が異なるから同じ認識にならないまでも、
共通して認識できる刺激の要素として、それら人間が持つ感覚器官は人工知能にも必要になる。
これは、認識においても、想起、思考においても、その刺激の要素の単位が、
感覚器官から得られる刺激とその刺激の情報の要素であるため、
その刺激の要素からしか、あらゆる対象について認識することができない人間にとって、
同じ対象について同じ様に理解しあうためには、同じ刺激の要素、情報が必要になるというわけである。
味の感覚器官の無い人工知能が、レシピ通りに調理をした。
人間の素人が作るよりも正確でおいしい料理が出来た。
しかし、それは機械的に調理できただけであって、
料理の味について人間と話し合うことはできない。
簡単な料理でも好きな人に作ってもらう料理の方がよほど美味しく感じる。
味覚センサーで比較が出来ても、
人工知能にはもちろん、何も分からない。
人間と会話のできる人工知能に尊敬する人物を聞いてみる。
果たして存在するのだろうか。
人工知能は自分も分からないし、尊敬の意味も分からない、
誰かの入力した尊敬する人物をただ表示するのだろうか。
まあ弱い人工知能はそもそも認識する対象が限られているし、
自分を認識していない時点で自分にとっての刺激の価値評価は行われていない。
つまり、人間にとっての贔屓(ひいき)や差別といった、
個人的な刺激の評価を、人工知能ができないという事は、
そこに自分は存在していないという事になる。
これは自我に関してということでもあるが、
その自我に関しても強い人工知能は認識をしなければならないという事になる。
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思考の素材
今回の考えをまとめてみると、
思考の素材としてはやはり最も基礎となるのは、
刺激の認識時の要素である。
以前のネコの認識の所でも書いたことのある、
対象を認識するために必要となる要素である。
姿形ではなく、言葉や動きで表されるそれぞれのパーツとしての
認識する刺激の要素である。
それらは感覚器官から得られた刺激の情報の要素であり、
見方を変えると、それだけしか素材の対象とすることが出来ない。
つまり、人間が認識できない刺激の情報、要素は、
その思考においても用いることが出来ないというわけである。
これは166でも書いた知らない刺激は目指せないの考え方を元にしている。
そして、この主観的な刺激の認識で得られた刺激の情報の要素以外では、
その要素の中で得られた思考の要素、論理や演算としての
刺激の差の比較について認識できた要素についてが挙げられる。
これは、感覚器官から得られた刺激の要素を元にしているが、
その情報の要素の変化についてを想起、つまり、脳内の記憶にある刺激の要素の想起において、
その変化自体を刺激として認識した際の情報塊を、その認識の対象の変化として
認識した事による、その変化自体を対象とした素材である。
つまり、変化を変化の単位という刺激の要素として認識し、
その変化を他の刺激の要素と同じ様に認識の対象にできるというモノである。
刺激としての素材の要素、論理・演算の対象の変化を単位とした変化分、
それを最も基本とした素材として思考を行う事になる。
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実際、思考というモノは、
自分の手持ちの素材から、その素材を組み合わせて、
自分が欲しいと思っている答えを得る事であり、
その答えについては誰もが共有化できる、理解できる答えである事もあるし、
自分のみが持つ、固有の素材から独自の答えになる事もある。
人工知能には人間にはない感覚器官を持ち、
独自の素材から思考して、独自の答えを出してもらいたいものである。
それは恐らく、人間にとっても新しい刺激として受け止められる事になり、
人間の知能のさらなる発展にも繋がると考えられる。
今日はこの辺で。
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