2023/2/3
思考の理解・思考の動機付け
228で認識の先にある自我としての自分を対象とした認識や、
その自我によって生じる目的や欲求に対して行う必要がある思考について考える。
今回は特に思考について考えたのでそれを書いておく。
思考する対象
思考する対象は決定していない認識対象である。
刺激が新鮮でありうるからその価値も高いものとなる。
だからその対象についての思考を行う事も価値の高い動作として脳が判断する。
思考することは、その分からない何かを分かる対象として認識する事であり、
であれば、それは新しい刺激として価値の高い対象となる。
五感から得られる刺激はその感覚が固定している故にその刺激の情報も固定化されている。
思考による認識対象となる刺激は、その五感では得られない情報の刺激であるため、
感覚器官では慣れていない新しい刺激ということになる。
新しい刺激は、脳の機能として本能として刺激が高いという評価になり、
そのまま強い刺激として扱われ、認識されることになる。
つまり、思考して新しい刺激を知るということは刺激の強い価値の高い認識対象になるというわけである。
つまり、
五感より得られる刺激の情報は、主観的な認識としての刺激として送られることになり、
それらは感覚器官特有の決まった刺激である。
例えば熱い、寒い、痛い、気持ちいい、匂い、音、画像、味、等、
情報の種類は様々であるが、感覚器官から得られる情報は決まっている。
それに対して、
思考による刺激の関連付けは、五感では得られない刺激になることがある。
つまり、想起される対象は全てがその関連付けを行う事の出来る対象となるわけである。
例えば、冷たいと青を関連付けるとか、暖かいと赤を関連付けるとか、
それこそ、特定の人間を好きになったり、動物を家族と思うようになったり、
お金と貨幣価値を等価のモノとして認識したり、学問をライフワークに設定したり、
それら、様々な認識対象をそれぞれが互いに関連付けられる、
思考の結果として認識する対象とすることができるというわけである。
そして、その思考による刺激の関連付けは、新たな刺激であれば、
新鮮な、鋭敏な、刺激の強い、価値の高い刺激となって認識される。
そして、刺激を認識するということは、
脳にとっては価値の高い活動として知覚されることになる。
つまり、
脳が、想起として機能で思考を行うという事は、
主観的な認識対象でない刺激に対して、
その想起された刺激同士を関連付ける事、それ自体によって、
新たな刺激が生じる事、その新たな刺激を認識するということは、
脳自身にとって刺激の強い、価値の高い対象を認識する事と同じ事になる。
つまり、想起による思考はそれ自体によって生じる答え、
新たな刺激に対して高い価値が生じる事になるため、
脳は、その思考自体の活動に対して価値を見出すことになる。
好奇心はその事自体が脳が価値を得ようとする感覚ということになる。
認識そのものは記憶と同じであるので、
脳が何かについて思考したがる、そういう傾向があるというのは、
脳が新たな認識を欲しているということにもなる。
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刺激の価値の性質、要素については。
その刺激の強さと、刺激の情報としての要素の2つが存在する。
刺激の強さは、感覚器官からの入力、または想起による記憶の励起によって生じる刺激が対象となるが、
感覚器官からもたらされる場合はその入力の刺激の強さであり、
想起の場合は、その対象の刺激の記憶の強化度合いによって決まることになる。
刺激の情報としての要素は、
刺激が持つ基本的には感覚器官から得られた情報を元にしているが、
例のあいまいさを許容する要素に分解された各要素の組み合わせとして再構成された刺激であり、
その刺激を認識して記憶した状態の神経細胞のネットワーク構成の状態そのものである。
つまり、「その刺激」として想起、励起されることになるシナプスの結合全体が、
その刺激の持つ情報としての要素の全てとなる。もちろん記憶時も、である。
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思考すること自体が、その結果として価値ある刺激を生じる活動であるなら、
脳はその思考を行う事自体に価値を見出すことになる。
つまり、人間が持つ好奇心、知識欲に繋がるというわけである。
今の私の状態もそれに近いが、
考えて何か新しい結果が得られた時の満足感や充実感というのは、
つまりは脳が新しい刺激を認識した事で、価値を得たという認識を行っているという事になる。
客観的にそれを認識しようが、生体の器官である脳がそのように認識しているのであるから、
価値を得て嬉しいという感覚は人間にとっては別にして分けることはできない。
人工知能であったら、その思考と結果について、
その答えが客観的にその時に間違っていたとしても価値を得たと認識できるようにするべきだろう。
人工知能も思考して間違っている事もあり得るということになる。
人間の知能の次の段階が人工知能であるなら、間違いもあり、その間違いを正すこともできる、
そういう機能が必要になるだろう。
あと、客観的に間違いという点において、
絶対的な真理において間違いがあったとしても、
間違いを許容して、間違いのまま認識が出来るということは知能にとっては重要な機能であると考えている。
それは、刺激の対象となる情報の要素について、
その関連に規則性が絶対的に必要とはならないからである。
つまり、人間においてその想像における芸術や文化といった要素については、
その組み合わせが真理の対象にならないという事である。
つまり、
有限な刺激の要素と有限な刺激の要素を組み合わせたとしても有限にはなるが、
その要素1つ1つの情報の確かさと、要素の組み合わせの可否については関係がないという事である。
つまり、
間違いも含めての真理であるなら、もうこれは人工知能に対しても有限で良いが、
そうでないなら、その想像された結果の刺激はあらゆる認識能力を超えたほぼ無限となるという事である。
例えば、私が書いてきたこれらの考察は、
その文字の組み合わせとしては有限と有限を掛け合わせた組み合わせの羅列である。
何らかのパターンが存在するはずであるから、その産物は有限の1つであると考えられる。
しかし、私が組み合わせた正しいか間違っているか分からない考え方、そのものの表現は、
他の何かが同じ様に作り上げる事ができないはずである。
つまり、私自身や私の知識や記憶、その置かれた環境を含めて、今後同じ状況は存在しないと考えられるためである。
少し哲学的な表現になってしまったが、
実際に言いたいことは、
人間が知を求めるよう思考するように、
人工知能も知を求めるて思考するように作るべきであるという事である。
簡単に言えば、人工知能が思考する事が楽しい、価値があると感じられるようにするべきであるという事である。
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今回は思考の中でも、特に、
その思考行うきっかけとなる動機付けということになるか。
つまり、
思考によって行われるのは、刺激で認識、記憶された情報の要素について、
新たな関連、つまりシナプスの結合を作り出すこと。
新たな関連は、新たな刺激であり、脳にとっては鋭敏な刺激であり価値が高く評価されるということ。
価値を得る事、価値を認識、記憶するということは脳にとってはその価値を得た事として、
良い評価として感じられる事。
そういう事になるか。
ちなみに、痛いとか、嫌いとか、まずい、苦い、うるさい、臭い、眩しい、
といった否定的な情報の刺激に対しても脳の認識は一律、価値の高い刺激として扱う事になる。
別に刺激の情報の要素が違っていてもその刺激が鋭敏であるならその評価として、
その刺激の価値は高いものとして扱われる。
ただし、この否定的な情報の刺激が異なるのは、肯定的な価値ではなく、
嫌悪としての否定的な価値としてのベクトルを持つという事である。
これは以前何度か書いたことのある刺激の持つ2つの要素、価値としての絶対値と、
その情報としての好き・嫌いのベクトルがあるという事を元にしている。
思考と言っても想起の機能の1種類という考え方には今の所、変わりがない。
誰かを好きになるのは、その対象の人が自分にとっての肯定的な価値において、
その刺激が一定の強さを持った事になる。
そして、好きな対象の人の好みは自分にとっての価値ある対象として認識される。
そうすると百年の恋も冷めるという事象は、
何かその対象の人に対して、自分が持つ否定的な刺激が関連付けられて認識されたことによるということになるか。
好きな対象の認識の関連が、他のより強い刺激を持つ対象に関連付けられた場合、
好きな対象が変わるということも説明できるか。
心変わりする事自体を価値の低い事と関連して認識している場合は、
そもそもその新たな関連付けを行わないということにもなる。
そろそろ時間なので、
思考についてはまた考える事にして、
今日はこの辺で。
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