2023/2/1

刺激を管理する存在

刺激の認識の理解を深めるために
人間においては刺激を認識する神経細胞の機能を、
人工知能に当てはめた場合にどのような機構で再現するかについて考えてみる。

人間の刺激の認識においては神経細胞がその生体としてあらかじめ持つ、
本能としての価値評価とその刺激の認識の要素の分類を行うこと、
そして、人間の知能の成長、これは経験としての刺激・価値の記憶によって、
後天的に得る価値評価の基準によって行われることになる。

人間において、
その初期の刺激の認識は、
以前書いた事があったが、若い頃の刺激の認識が鋭敏で、
年齢を追うごとにその刺激の感じられ方が鈍くなっていく、
まあ実際は複雑になる事で純粋な刺激でなくなるということだが、
このそれまでの知能・神経細胞において、過去に経験した事の無い刺激を認識した場合、
これは刺激の情報の要素について神経細胞のネットワークを通すことになるのは、
本能的な反応として行われる事となる。
つまり、刺激の要素に純粋に従って、脳・神経細胞のネットワークが、
生来持つ、本能的にその刺激の情報の要素を分類・判別するということになる。
この場合、後天的に得た認識評価ではなく、先天的な本能としての価値評価となる。

この場合、刺激を管理する存在となるのは神経細胞、神経細胞のネットワークとなる。
それ自体は人間がその知能において、その存在は認識も意識もされることはない。

ただ、この価値評価、刺激の認識の方法を理解すれば、
それはそのまま人工知能にも用いることが出来る事になるはずである。

で、人間がある刺激に対してその経験が初めてであった場合にどのような反応になるか考えてみる。

例えば、初めて会う人に対するドキドキ。
これは、これまでに会った事が無いということで、
その対象となる人から受ける事になる刺激の認識において、
過去の誰かと会う事によって生じる様々な要素の刺激に対して、
経験したことが無いということによって、その想起される様々な要素の刺激に対する
価値評価ができない、刺激の強さが分からないという事に対して、生じるドキドキであり。
この分からないという状態は、その分からない事という、それ自体の刺激となって認識されることになる。
そして、この分からない事に対する認識は、すでに持っている後天的な価値の記憶、価値観には
その評価が存在しない事により、先天的な価値の記憶、本能で持つ価値評価を用いる事になる。
本能で用いる価値評価は、想定されるのが緊急性が高い価値評価であり、
つまりはそれだけ身体的な危機に直結する価値評価とその認識に関連する事になると考えられる。
そのため、身体的には緊張したりドキドキに繋がるということになるのではないかと考えられる。

そして、その後、その対象の人に何度か会う事によって、その人から受けた刺激の記憶により、
後天的な価値観により、その価値評価が行えるようになり、
その人に対する緊張やドキドキが少なくなっていくということになるのではないか。

その点からすると、普段会う人でも、見た事の無い一面を見たときにドキッとさせられるというのも理解できる。
つまり、その人に対する経験した事の無い印象、刺激を認識したからという事になる。
その刺激は新鮮であり鋭敏であるということになる。

ここから分かる事は、人間の刺激に対する認識の価値評価においては、
その本能としての先天的に持つ価値評価、価値基準と、
経験として後天的に持つ事となる価値評価、価値基準があるという事になる。

実際は、人間の神経細胞とその神経細胞のネットワークが、
既存の既に持つ本能としての価値評価と、その神経細胞のネットワーク自身が、
自らの可塑性によって経験を記憶として保持し、
その認識によって得た刺激の評価を神経細胞のネットワーク自体が強化で記憶する事によって実現している。

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この刺激の認識の機構を人工知能で再現するにはどうしたらよいか。

まず、過去に記憶の無い刺激に対してはその刺激の情報の要素毎に対しての価値設定が必要となる。
これは、人間においては本能の設定というべきものでもあり、人工知能においてもそれは必要となるはずである。
このあたりの設定値が、人工知能の組成、資質や、性格付けという観点に関わる事項となる。
人間においては遺伝としての身体的能力や、知能の構成がその元となるはずであり、
初期に刺激として認識されるその情報群は、その人間が誕生した環境によってほぼ決まることになる。
これは自由意志と因果の件でも説明した通りである。
つまり、生まれた時に与えられた状態としての身体と、初期に与えられる事となる条件としての刺激・情報によって、
その生命の知能の初期値としての構成がほとんど決まるという事になる。

人工知能においても、人間の神経細胞とそのネットワークに代わる存在と、
本能としての価値評価の初期値、
その後の後天的にに形成される記憶による、
刺激に対する価値評価の記憶・記録、そしてそれが更新できる事、これが必要となる。

人工知能において、刺激を管理する存在を作るのであれば、
入力される刺激において、その情報としての意味、情報の要素毎に仕分ける事の出来る能力と、
刺激の強さを初期値もしくは価値観としての記録から参照して設定、判別する能力、
認識に至っては、その刺激の記憶、価値観としての記録をする能力、
まずはこれらの能力が必要になるだろうか。

ただし、刺激の管理という点においては今の所はこれでいいと考えられるが、
あくまでこの時点ではまだ刺激の認識の管理ができるだけ、という事は付け加えておく。
強い人工知能としての自発的に思考する能力はまだこれだけでは再現できない。

今回はこの辺で終わりにしておく。

以下は今、ふと思った今回の刺激の管理から思いついた考察である。
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刺激の認識のあいまいさが思考に変化するまでの考察

刺激の情報としての要素は、人間のその認識分類のあいまいさと、
あいまいであるが故の抽象的な要素として扱う許容の幅によって、
その情報の要素が割に正確に分けられているという事がある。

つまり、情報としての本質をその認識する要素毎にあいまいながらも、
確実に分類するという能力である。
つまり、刺激の情報において、その情報の分類をする時点で、
あいまいなまま終わらせて認識するのではなく、
結果的に間違っている事もあるが、確実に分類を済ませることが出来るということである。

例えば、ある対象について「何か」という認識ができるということである。
本来情報において、その情報の意味を分類するということは、
その要素1つ1つにおいて正確であることが求められる。
これは生命の知能においても変化情報を得るという事は本来そうあるべきものなのであるが、
生命の知能はその刺激の情報認識を不正確な「何か」のまま完了することができるようになった。

恐らくだが、これは思考にも関わるのではないかと今は考えているが、
不確かな要素の「何か」をそのまま認識することで、
その「何か」を手持ちの記憶された要素だけで再構成する事が出来るということ。
これは、その「何か」を認識する際に、その不確かさとしての刺激の強さが、
その好奇心にも関係するのではないかという事である。
つまり、「何か」を「何か」のまま認識できるという事が、
認識する対象の刺激として最初期の認識、
つまり、本能が認識する初期の認識の刺激に相当するのではないかというわけである。
初期の認識はその刺激が強く、価値が高く設定されることになるので、
知能としてその認識の対象が「何か」気になる事になる。

思考は、その思考により欲する目的と結果の関連を新たに構築する事であると考えられる。
それならば、その「何か」という価値の高い対象について、
より正確な情報を得ようとしてその目的と結果の関係をより正確にしようと思考する事、
その関係をよりもっともらしい関係として新たな関連を試行錯誤するという事は、
情報を得ようとする知能にとっては普通の事なのではないかというわけである。

つまり、人間の知能が仮説を立てる事ができたり、想像や空想ができるというのも、
この対象の認識において、もっともらしい状態を認識するために、
あいまいなままの分類で認識できるという事にも関係しているかな。

それはその知能が元々持っている刺激の価値、記憶ではなく、
後天的にもまだ得ていない刺激でありながら、あたかも、仮にも存在する対象として認識出来る事。
という事になるか。

その「何か」を刺激として認識するならどうなるだろう。
不確かだが、価値のある存在ということになるのか。
まだ認識した事の無い刺激であるから価値があるという事になるのか。
知能が刺激として価値を得る事自体が知能にとっての価値に相当するのか。
知能は元来刺激として情報を得るために存在していると言ってもいい。
不確かである「何か」はやはり価値なのだろうか。
実際、不確かな「何か」について考える事を私は価値ある事ととして今考えている。
対象がどのような刺激・価値であっても、
やはり人間の知能はその新しい刺激の認識については価値を設定する事になるという事か。
その方策として「思考する」「体験する」を求める、欲するという事になるか。
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今後さらに刺激の認識と管理がはっきりすれば、
知能のあらゆる事象がさらに正確に理解できるようになると考えられる。

現時点でのさらなる課題としてはやはり、
刺激と認識の考え方を元にした、自我と思考の理解になるだろうか。

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改めて今日はこの辺で。


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