2023/1/29

認識について

223で意識についてさらに考察が進んだが、
では、その意識の手前、認識についてふと考えた時に、
認識は言葉の通りの意味で、自分自身は「認識」していたのだが、
では「認識」とは?と考えた時に、さて、正確な定義ができていない事に気づいた。

これまで認識は
「ある瞬間における最も強い刺激を知覚する事」
と考えていたのだが、
この223の最後に気になったその知覚の瞬間にその刺激を
存在する対象としてそこに「ある」と決めている存在は何なのであろうかと
考えた時に、まだ正確な定義ができていないということに気が付いた。

今回はその刺激を存在するモノとして決めている「何か」について考えてみる。

刺激はその生命体の個体にとって、周囲の環境や、自身の個体の変化を情報をとして得るために
感覚器官からその差異を情報として得るためのモノであるが、
その情報を確定している存在について考えてみると、それが正確に捉えられていない。

感覚器官が刺激を情報として受けた場合、
末端で1対1で反応するのは神経細胞のネットワークである。
刺激によってある一定範囲のネットワークが励起されることになるが、
その際に想起と同じ形でその情報がその瞬間で最も強い刺激となった場合に、
認識に至り、その刺激がそこにあるものとして感じられる事になる。

認識は、現時点では
「ある瞬間における最も強く励起された神経細胞のネットワークの集合が、
その情報の意味として形作られる刺激の種類から得られる情報塊について、
その知能が存在する対象としてその存在を確認することができた事」
という事になる。

この場合、
認識は常にある瞬間の連続にあって、
その瞬間に最も強い刺激に対して認識が行われることになる。
そして、
それは覚醒中には意識の存在として考えられ、
意識はその連続した認識として説明できることになる。

223でも考えた、
覚醒中の脳の活動においても、
意識を保つために常に認識することができる程度の励起された刺激を受け続ける必要があり、
脳はそれを準備したままの状態にあると考えられる。

これは、以前の意識や認識の考察の所でも考えた事があるが、
脳が覚醒状態にあるということは、常に、連続して刺激を認識し続ける必要があり、
そのためにある瞬間毎に特定の刺激を励起するのではなく、
神経細胞のネットワークは、ある程度の準備状態、つまりプレヒート、予熱状態にしてあり、
その時点で次に認識されることになる刺激がある程度収束されているのではないかという事である。

つまり、一度励起された神経細胞は、Na+:K+のイオン交換がその励起に関して
電位差として捉えられるというものであったが、この励起された状態が、
通常状態まで復帰する間にある程度の時間差が必要となるが、
その際に、一度励起されて認識、意識された特定の状態というのは、
その後も一定時間その状態が保たれることになるのではないかというわけである。

そうでないと、例えば私が今何かを考えている間に他の刺激の認識で思考状態が中断された場合、
その復帰が出来ない事になってしまう。
実際にそうならないのは、私が思考状態を思い出す、復帰するために再度その思考状態を思い出しているから、
ということになるが、それならば、その思考状態として励起されたある状態は、
他の刺激による中断にも関わらず、まだ完全に忘れ去られた状態ではなかったという事になる。

そして、刺激の励起状態は、
その刺激の強さ、つまりその刺激の価値によって順位が決められ、
そのある瞬間においてはその最上位の最も強い刺激が常に知能に知覚された時に
認識となり、それ以外の刺激は、存在しないわけではなく、
その最上位の下にその刺激の価値の大小によって延々と連なっているという事になる。

刺激は、その強さとしての強度と、
その情報の意味としてのベクトルに分けられる。

刺激の強度は、そのままの意味での神経細胞のネットワークの関連の強化度であり、
シナプスの結合度ということになる。
刺激のベクトルは、その刺激の感覚器官から得られる情報について、
その生命体にとっての良い意味を持つか、悪い意味を持つかという評価基準であり、
それがどちらに向いているかという意味になる。

これは、感覚器官の感覚としての情報が、その強さと、
その生命体にとっての刺激の意味として、有利なものであるか、不利なものであるかという意味を持ち、
これまで何度か書いてきた記憶としての価値観から価値としての意味を持つものとして設定されるものとなる。

そして、この刺激の情報としてのベクトルの向き、
その知能体にとっての良し悪しの刺激の意味が、
何を基にして決められているか考えた時に考えた至った対象が感情だった。
正確には、感情の元となる生命体にとっての刺激に対する反応である。

つまり、その刺激が元となり、その刺激の価値が設定されることになるが、
その刺激の価値にはその強さと意味としてのベクトルを設定することになるが、
強さは単純に感覚器官による刺激の入力の強さなのだが、
その価値としての意味についてはその個体にとっての重要度という程度しか理解していなかった。

しかし、今回の考えで、どうもこの価値の意味について考えた所、
その個体にとっての刺激の良し悪しというのは、もう少し生命の本質的な、
先天的に持っている基準を元にしているのではないかと思い至ったのである。

つまり、
感情はその刺激情報の良し悪しの評価基準として本能としての
生命の基本的な設定情報となっているのではないかと考えたわけである。

これがどういうことかというと、
人間以外の動物において感情があるかという問題にもなるが、
感情という状態に至る前、その刺激に対して良いか悪いかという設定については、
人間であってもたの動物であってもその刺激に対しての評価、価値の設定は行われている。

人間についてはその刺激の価値の設定に対して最終的にその刺激に対しての反応として、
感情にまで発展しているわけであるが、
別にそれ以前の刺激を受けて価値を評価している、という状態については、
人間であっても他の動物であっても行われているはずである。

これは、刺激に対する価値の評価が、その生命体にとっての意味ある存在として
価値を設定している事なのであるが、
その基準となっているものについて考えた場合、
最終的に行き着く評価は、その生命にとってのその刺激が良い情報であるか、
悪い情報であるかという事だけなのである。

刺激に対する生体反応というのは、その刺激の情報に対して行われる評価とも言えるのだが、
その意味というものは、生命体が持ちうる評価基準として最終的に良いか悪いかだけしかないのである。

そういう点から考えると人間の感情というものも、その価値とその本質的な評価基準の
中間層に存在するもので、その刺激の集合としての意味の中でのある認識できる状態としての
刺激の複合体という事もできる。

ちょっとまとまらないが、
そろそろ時間なので
これについては後でさらに考えるとして、
今日はこの辺で。


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