2023/1/28

自我の解明・その3・意識の解明

今日新たに考え付いたことは、
自分について認識する事について考えていた際に、
自分の存在は想起によって作られた刺激としての認識になるのだが、
この場合、
主観的な認識と同時に認識できない事を考えてみると、
意識として連続した認識にある場合、
主観的な認識として認識する脳の外部からもたらされる刺激と、
脳内で想起によって認識されることになる刺激は、
互いに同時に存在していないという事、というか、
互いにある程度の励起状態にはあるが、同時に認識される対象にはならないということ。
つまり、意識の構造について考えると、
意識が連続した認識として成り立つというのはそのままだが、
その連続した刺激の認識においては、外部からの刺激を認識する場合と、
内部、つまり脳内が元になった刺激の想起によって生じる刺激の認識に分けられるということである。

つまり、意識の存在は、
その意識を保つという点からも、連続して常に何らかの刺激を認識し続けようとしているという事。
これは知能が、というよりも、生命としての脳の器官としての機能として、
覚醒中には必ず何らかの刺激を認識し続けようとしているという事である。

だから、主観的な認識として生体の外部もしくは内部から生じる刺激を認識するケースがあり、
その刺激が認識されないような場合には、脳内で想起されることによって生じる刺激が常に用意されているという事、
つまり、人間の知能は、個体の生体としての刺激の感覚器官から受ける刺激か、
脳内で想起によって励起される刺激のどちらかを、覚醒中は常に認識するような仕組みになっているという事である。

逆に、覚醒状態というのは、常にそのどちらかの刺激を連続して認識することで成り立つものであると言う事もできる。

まとめると、
「覚醒状態として意識があるという状態は、
個体の体内または体外から感覚器官を通して刺激を認識する場合と、
脳内から記憶として保持している刺激を想起して、その刺激を認識する場合のどちらかを、
連続して行っている状態のことを言う。」
という事になる。

そこから考えられる事は、
自我はその想起によって励起される刺激として存在することになるが、
この場合においては、脳の活動として、自我の存在を刺激として認識する事は、
他の脳の活動の中においてはその複数ある働きの中の1つに過ぎないという事である。

つまり、脳内だけの働きである思考をしながら、自我を認識するような事は無いという事になる。

ただし、その認識の対象はかなり早い切り替えができるようになっている。
それは、個体としての生体の危険については外部の変化による刺激などが優先して認識されたりすることからも分かる。
想起の刺激よりも感覚器官から受ける刺激の方が強い場合が多いということからも考えられる。

例えば自動車の運転中に、会話したり、歌ったり等、別の事が同時にできているというのは、
あくまでその認識の切り替えに余裕があるということで、
実際はその認識を高速で切り替えながら行っているのだが、感覚としては並行して実行しているように感じる。
しかし、これがスポーツカーなどによるレースゲームのような速度での操作をする場合、
並行して何かを行う余裕などはない。

何かの動作中に例えば思考したりすることが出来ていると感じているのは、
その動作の命令が出た直後から、動作が完了するまでの間に刺激を認識する切り替えの余裕があるということでもある。
実際、この文章を入力するために手の指を動かす必要があるのだが、
それを行いながら、この文章を頭の中で組み立てる事ができるということは、
それを同時ではないが、並行して行うことが出来ているという例でもある。

しかし、何かに集中するという点においては、2つ以上の事を並行して行う事は
それぞれの行動についての精度を落とすことになるのは間違いない。
実際、私が何かの考察を考えている時も、入力をしながらでない時の方が、
その思考の精度は高いと感じている。

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そして自我の解明の話に戻す。

自我の存在が、意識の下位の存在であり、
脳の活動の中で、脳内にある記憶された刺激であり、
想起して認識される対象として存在するものとして、
自我が存在するという事である。

つまり、自我として自分を認識する事は、何かを思い出している事と同列、
思考とも同列、そういった存在であるという事である。

自分を自分として認識するタイミングは、自分という刺激が、
脳内において刺激が想起された直後、その刺激が認識の対象になった時点という事になる。

その瞬間、そこに自分が存在しているように認識によって感じられるという事になる。

この認識を感じている存在がつねづね引っかかっている存在である。

脳が刺激を想起した瞬間にその刺激が最も強ければそれが認識されるのであるが、
それが存在すると感じられるのは常に認識の後である。
その仕組みが分かれば人工知能に認識も意識も与えられるという事になる。

人間の知能がそこに今存在する自分として何が何を認識しているのか。
それが分かれば良いという事になる。

いや、認識という言葉は使わない方がいいかもしれない。

それともその存在こそが幻想で、意識の中にもうそれは出来ているのかもしれない。

生命維持活動において、優先されるのは主観的な刺激の認識であるのは間違いない。
単純な想起による脳の活動として、思考などの活動は意図的に行うことが出来るが、
その意図としてもつ価値の優先度は、その知能の成長過程で獲得する後天的な価値である。

主観的な刺激の認識の優先度が低くなった場合に、初めて脳内だけの想起による
刺激の認識を用いた活動が行えるようになり、
それはその活動の目的に対して価値が設定され、他の刺激よりも価値が高い状態になった場合に、
その目的となる刺激が想起され、実行に移される。
それを人間は意図的に行動したり、活動したり、思考したと感じている。

連続した刺激の再現そのものが意識として感じられる存在なのかもしれないが、
これについてはもう少し考えてみよう。

そろそろ時間なので、
今日はこの辺で。


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