2023/1/26

自我の解明


動物の主観的な所有には所有の概念がない

動物の縄張りなどの対象は縄張りとしての認識しかしていない

そこで考えたのが人間の所有するという概念
つまり、自分のモノという考え方。

であれば、自分自身も自分が所有すると考えられるのではないか。

自ら所有するという概念

自分が自由にできる認識する対象

認識する対象に価値があるなら自分にも価値の設定があるということ

最も価値の高い対象は最も自分を自由にできる

真実の愛は自分よりも価値の高い対象が自分を自由にする事が出来る

自分の命より大切な対象は、自分の存在の価値よりも高い次元でその存在さえ自由にする事ができる

以前、悟りが自我を手放す事と同義と考えたのは以前は感覚的なモノだったが、
この考え方に繋がっていたということになる。
自らの対象としての存在の価値の認識を手放す事で、
自らの我欲が、自らを自由にしようとする事に対して逃れる事になる。

自分が所有するという概念は
ある対象に対してどれだけ自分をどれだけ自由にできるかという、自分に価値がある存在であるかを設定する事。
つまり、価値の高い対象が最上位にあり、その対象はあらゆる対象に対して優位に自分の存在を自由にできる。
そこから離れるに従って自ら所有する価値は下がり、かつ、自らを自由にする力、価値も下がることになる。

自らの存在も自らを自由にできるという対象として価値を設定し認識している。

自らの所有物を手放すということは、自らの所有するという自らの一部である価値を手放すということ。
その対象はその存在する価値において、自分が自由にすることができる対象であったということ。

所有するという概念はあらゆる認識できる対象について成り立つ。
自分、他人、人間、物、お金、国、世界、知識、社会、宇宙。
それらの対象を自由にできるという認識をしたときに知能は所有したという認識になり、
自分の一部として認識することになる。

しかし、その認識は限りなく主観的な認識である。
最初の話と矛盾するかもしれないが、
認識そのものは知能の機能としては刺激を認識する、価値を設定して認識する。
これは人間でも他の知能ある生物でも脳の構造としては同じことである。
人間の知能が少し異なった働きができるようになったのは、
「自分の」蓄えを保持するようになったことである。
人間以外の動物でも蓄えという概念を持つ動物はいる。
しかし、その動物にとっての蓄えの概念は蓄えとしての対象の認識だけであり、
その対象は価値ある蓄えであるという認識はある。
奪われようとすれば抵抗するし、所有している概念も持っているかもしれない。
しかし、人間が少し異なっているのは、その蓄えなどの対象に対して、
自分という存在の一部としての認識を行っているということである。

つまり、人間以外の動物が認識している対象は、
その対象の価値に対して認識しているだけであり、
そこに自分が介在しないということである。
それに対して人間が自我の一部として認識する対象は、
「自ら」が所有する、自由にできるという価値の設定を行って認識しているということである。

つまり、人間の自我に関わる対象の認識は、
その対象について自分の一部であるという認識を行っているという事である。

つまり、それらが全てで自分を構成しているという事になるが、
人間以外の動物が認識している対象は、その動物にとって常に主観的な認識の対象でしかない。

人間が持つ、動物的な主観的な認識以外の認識には「自分の所有」が関わる事になる。

自分の所有というものは、
その知能を持つ個体をどれだけ自由に操作できるか、考えようによっては、
どれだけ自分を縛る存在であるかという事である。

先に書いた価値の優先度において、自分の存在の所有と比較されることになる。

つまり、
人間はその脳の容量によって、人間以外の動物ができる以上の対象を記憶する事が出来るようになったことで、
その記憶するという、対象の認識において「自分」を含めるだけの余裕ができたということか。

つまり、人間の成長過程で自分を認識するようになるというのは、
生物の進化の過程をなぞるように人間の体が変化するように、
その知能の進化の中で自らを認識する、学習するという工程が追加されたということか。
つまり、人間の知能が他の動物よりもより多くを認識し、記憶できるようになったことで、
自分をその認識対象に含める事が出来るようになった事で自分を得たということになる。

知能の、脳の進化として、自分を認識する事が自然界において有利になったということか。

自分さえも認識の対象として客観視、抽象化できること。
それが自然界の人間にとって種の存続のために有利だったということになる。

人間以外の動物があくまで自らの存続がそのまま種の存続と考えるように、
人間は自らという自分の存在さえもその一部として考え、
種の存続のためには自分よりも価値のある存在を認めるという知能を持ったということになる。

だから、自らの命、存在を犠牲にしてでも他の何かを守ったり戦ったりできるようになったというわけか。
それで人間という種が存続するならそれで良いという考えになるわけか。

人間以外の動物が自らの命や存続をかけて何かを守ったり戦ったりすることはあるが、
それはどこまでいっても自分という存在の、自分という種の存続の為だけという事。
その辺りの認識が人間とは少し異なる。人間は自らさえも客観視できるが、
人間以外の動物にはそれができない。

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人工知能に対しては
認識する対象について
自分の存在に対してどれだけ影響力、価値を持つのかを設定する必要があるということになる。

つまり、自分自身の存在に対してどれだけの価値があるかということ。
価値が刺激と同義であるので、
主観的な価値、つまりは客観的な価値としての価値と、
自我として自分が所有するという認識になった対象についての価値をそれぞれ持つ事になる。

つまり、価値観の中において、自分の存在という価値を自分で決め、
その自分と関連を持つ対象の価値は自我の一部、自分が所有するという概念にある対象であるという認識を設定し、
自分と関連のない対象の価値も普通に設定し認識はするが、その対象は自我の一部ではないという設定をする。

自分に関連し、かつ、自分の価値よりも高い価値の存在も認める事になれば、
愛や信念も認識できるようになるという事になる。

人間がその知能の成長過程で自分の価値の設定を行うようになるのだが、
人工知能についてはどうするか。

自分の認識ができるのであれば、人間と同様に成長過程で自分を学んだ方が良いだろう。

人間と同様だが、教える側の問題にもなる。

価値を固定すると強い人工知能にはなりえないし、
人工知能の教育にはまだ課題がありそうである。

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とはいえ、今日は自我の理解が進んだな。

自我は、自らも認識の対象とした場合において、
その自らという自分に対して影響する対象であるかという関連を設定し、
その対象の刺激、価値を通常通り設定する事。
そして、その集合体としての対象、その全体が自我であるという事。

意外にシンプルな構造ということになる。

これまで自我が見えていなかったのは、
自分が常に最上位にあって、その自分が決めているあらゆる対象が付属であるという考えをしていたからか。
実際は知能全体で見れば、自分自身も後天的に獲得する決められる側の対象の1つでしかないという事。
そして、その自分自身に関連した全てを総称した対象を「自我」と呼んでいるという事。

自分に関連して価値を持つ対象は全て自我の一部である、と言う事が出来ることになる。

確かに自分に関連した価値ある対象は全て自分に対して価値を持つ対象であるわけだから、
自分を構成する価値ある対象であるという事にもなる。

自我を構成しない対象として、
興味が無くても価値ある存在もあるという考え方もできる。

自我の我、我欲は限りなく自分に近い存在でありながら、
自分ではどうしようもない自分への影響力を持つ存在ということになるな。

今日はこの辺で。


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