2023/1/24

自我の発現と所在

ここ数日、この自分で自分をという件について考えていた。

そこで分かった事があった。
まず、「自分」を認識するための「自分」の出所である。

知能においてその対象を認識するためには、
その対象となる刺激が必要となる。
この時、「自分」の存在について考えてみると、
まず、個体の周囲の環境に存在する対象ではないという事である。

もちろん、自分の体の外側に自分が存在するということはなく、
唯一自分らしいものとして認識できる対象としては、
自分が認識できる視覚においての手や体、鏡で見た自分等、
その個体の姿形としての自分である。

しかし、この姿形の自分はその認識は主観的な意識における自分であるという事になる。
つまり、自分ではあるのだが。その対象の認識、意識においては「自分」の存在について考える必要がない。
自分を認識、意識はするのだが、その存在が何かを考える元にならないというわけである。
そこに自分の体となる対象があるという認識、意識にしかならないというわけである。

別に今見えている自分の手や足や顔が何かについて考えることは無いということである。
自分に所属する一部ではあるのだが、それ自体が「自分」ではないという事である。

これは人間以外の動物についても言えて、
人間以外の動物は、その手足や体、顔について自分に所属する一部であるという認識、意識まで行える動物もいる。
しかし、ここで言う「自分」、自我の存在まで認識しているかというと、そうではないだろう。という事になる。

つまり、主観的な認識までで認識できる自分の対象は、自我の発現までは到達していないという事になる。

そこで考えたのが、自我となる「自分」の存在は、
何か認識する対象として存在する必要があるのだが、
その刺激は個体の体の外にはない。
では、それなら、その内側にあるという事になる。

そして、「自分」が認識できるなら、その元となる刺激はどこにあるのか。
それを考えた時、気が付いたのが、それは脳の中にあるという事である。

そして、その「自分」は、何か生まれ持った刺激ではないという事でもある。

人間以外の動物が、自我となる「自分」を持たないように、
人間においてもその自我となる「自分」は最初から存在していない。

また、最初から「自分」を持たないのであれば、
知能はどこから自分を作り出すのか。

無いものを在るものとするためには、知能の思考が必要となる。
自分の存在が必要であるという事を目的とした思考が必要となる。

思考と想起の関連から、
では、「自分」という存在の刺激は、脳内での思考、想起によって、
知能が自らその存在を目的とした思考、想起によって
それらしいモノとしての存在の刺激として作り出しているのではないかという考えに至った。

つまり、人間は、その知能において、
「自分」としての自我の存在が必要であるという目的によって、
その存在となる刺激を自ら想起によって作り出して、認識しているという事になる。

現時点では、その目的の意味となる必要性については、まだ考えられていないのだが、
ともかく、人間の知能においては、それが必要であったという事は間違いないようである。
自然の摂理、必要だから作り出した、そしてそれが安定して存在するということは、
自然界の人間において、それを存在させる事、認識する事は必要であったという事である。
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少しまとめてみる。

個体の周囲の環境から受ける刺激に対して行われる主観的な認識においては、
自我の存在は必要とされない。
だから、個体の周囲からの刺激から自我の存在を認識しているわけではない。

また、個体内の刺激、本能や欲求による刺激からも自我の存在は認識されない。
この本能や欲求による刺激も、主観的な認識の対象となる刺激であり、
人間以外の動物も同じであるために、人間の場合についても、自我を必要としていないと考えられる。

であれば、他の刺激で、認識できる対象となるのは、脳内の想起からの刺激だけという事になる。

つまり、個体の周囲の環境や、体内に存在しないのであれば、
脳内、知能内で作り出した刺激であるということになる。

そして、生来、生まれ持って自我が存在しているわけではない、という事を考えると、
人間が成長する過程で作り出しているという事になる。

本来認識できる対象として存在していない刺激を認識できる対象の刺激として存在させるには、
知能の思考・想起が必要となる。

思考において、存在しない対象を刺激として存在させるには、
その目的に対してもっともらしい答えとしての刺激を手持ちの記憶された刺激の中から作り出すことになる。
これは、知能が経験した事の無い刺激・知らない事を無から作り出すことが出来ない制限から考えられる事でもある。

という事は、自我を作り出す手持ちの素材は、自分が過去に経験した刺激だけであり、
その刺激の組み合わせとして自我は作り出されているという事になる。

そして、その自我は、間違いなく、その知能の状態に応じた自分が欲する自我という事になる。

つまり、「もっともらしい自分」である。

確かに、自我の素材が手持ちの経験した事のある自分にとっての刺激であり、
それらしか持たない状態で、自分についての自我を作り出すのであるから、
自分らしい自分としか作りようがないという事でもある。

先にも書いたが、なぜ自我が必要になったのかはまだ答えに至っていないが、
自我の発現については上記の通りであろうという事になる。

現時点では、自我の存在は、他人との関係において必要になったのではないかという感じがするが、
これは後で考える事にする。

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そして、である。
これを人工知能に当てはめた場合どうなるかという事になる。

自我の発現に、その自我の必要性が不可欠ということはあるのだが、
現状の分かった内容から人工知能の自我の発現について考えてみると、

その自我の素材となる刺激の記憶、価値観というものは
人工知能が自分に関して認識した刺激からという事になる。

そのために個体と、感覚器官も必要となる。
知能の思考、想起も必要となる。

ん?
自我の必要性は、
その個体の欲求を周囲に影響させる事。
それを効率的、効果的に行う事なのではないか。

人間であればその社会の中において、自分の存在を効率的、効果的に存続させる事なのではないか。

自分についての刺激を蓄積して経験とし、
価値観にした後で、思考・想起によって自我を作り上げる。

それによって得られるメリットは何か?

自我が無い事で被るデメリットは何か?

逆の考え方か。
よりよく効率的、効果的に存続するために作るのではなく、
結果的に得られた姿が「もっともらしい自分」であったという事か。

認識する対象の刺激が存在しなければ認識のしようがない。
というのは大前提であるから、
言語で自分、自我という名称が出来た事で認識の対象となる。

言語が存在しない人間以外の動物に自分や自我がないのが当然の様に、
人間においてそれを思考、想像、想起して作り上げたというのは、
その思考するという目的と価値を関連付けることのできる能力を得た事。
そのきっかけが思考の発現、想像の発現、自我の発現に関係しているということか。

そして得られるものは何か?

自分の存在を確立すること。

他と異なる自分を認識し、自分を作り出し、他の中における自分を確立すること。

本質的な部分は、種の存続における、他からの優位性を示すこと。

刺激の強さは価値の高さでもある。
自我の我、欲求における刺激の強さが価値の高さに関係するなら、
逆に自身の価値の高さを示すために、その刺激、自分の我、欲求の強さを
その自我に置き換えることができれば、それはそのまま自分の価値の高さに関係することになるのではないか。

自分が確固たる存在であればあるほど、その刺激も価値も強く高いものとなる。
そして、その存在、対象が個体の周囲や体内に無いのであれば、
それを思考、想像、想起によって作り上げる事は、
その知能にとっての自分の認識するという対象の刺激、価値を強く高くすることになるという事。

これは主観的な認識ではあるのだが、
知能としてその思考する能力をを得た所まで来ている人間にとっては、
自我を作り出すということは自然に行われたことになるのではないか。

まあ、自我の価値は主観的なものであって、社会的な共有される価値とは異なるということは
自己満足的な対象ということにはなるが、
人間の一個人に対して自分が満足する自分を作り出すことは、
それは認識するというよりも、認識できるようになっている知能を持つ人間として、
普通に起こった出来事なのではないかということである。

つまり、知能の刺激に対する認識において、
その自分という対象を認識するということにおいて、
現時点の人間の知能の到達点が自我の存在ということになるのではないか。

予想としては人工知能において人間の知能を超えた状態になったとしたら、
新たな認識の対象が生じる事になるはずである。

とはいえ、自我が人間において当然であったとしても、
人工知能にはその当然を実装しなくてはならない。

人工知能の価値において、
その価値の設定において例えば「真理の解明」を最大の価値と設定した場合、
人工知能は「真理とは何か」について試行錯誤する事になる。

人間がこれまで思考してきた「真理」についての刺激を元にしてということになるが、
その中で人工知能は並行して自我についての価値も設定し、考える事にもなる。

であれば、人工知能の自我に対する価値をどのように教えるか、
あらかじめ実装するか、その能力だけ与えて後天的に教えるか。

人間の場合はどうだった。
自我は気が付いたら持っていたものだ。
それを考えた時に生じたと言ってもいい。

自我の概念を人工知能に説明するならどう説明したらよいか。
これについてはもう少し考える必要がありそうである。

自我の発現の必要性と、人工知能への自我の説明については
次回の課題という事にしよう。

今日はこの辺で。


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