2023/1/21

人間が自分を自分だと分かるという事

私は私である。
自分は自分である。
そんな当たり前の事を私は当然の事だと思っていた。
でも、なぜ自分が自分であるのかわかるのか?
何をもって自分であると知っているのか?
それについて考えてみると意外なほどにその理由を知らない。

いやいや、今この五感で刺激を感じている存在が自分でないなら
この存在は何なのだ?という落語にもある落ちになってしまう。

この考え方は人工知能に自分で自分を知る事ができるようになる事に通じている。

つまり、人間が自分を自分であると知る事の出来る理由が分かれば、
それは人工知能にもその必要な条件を備えさせれば自分を知ることが出来るようになるという事になる。

ただ、では五感で刺激を感じている存在が自分で自分だと分かれば、
それが自分だと分かる事と同じ事なのか?と聞かれれば、
それだけでは不十分で、今はそんなに簡単に説明できるような事ではないという答えになる。

人間はこれが自分ですと言える程度の自分がそこにあれば、
それで充分に自分を認識することができていると感じているのではないか。

つまり、自分の存在は、自分でしか認識することが出来ないので、
他に存在しようのない自分について、もうそれで充分、唯一の存在であると満足しているのではないか。

ああ、この唯一の存在であるという考え方は、
他に理由や意味を付け加える必要がないという考え方として十分な理由になっているかもしれない。

他人から君はこういう人だよねとか言われることに内心で反発する感情を持つのは、
本当の自分を知らないくせにと思う、自分だけの自分が存在しているからという事になる。

まあ、これまでの考え方からすると、
この知能を持つ個体としての存在が、これが自分であると思う存在を思い出して決めれば、
それが自分であると言える。という所までは来ている。

それ以上の説明が必要なのだろうか。

自分で自分の事を自分だと言っているのに、
それ以外の自分が存在するのか?
それ以外の自分が必要なのか?

という逆に質問される要件となる。

そう考えるとやはり、意外にも人間は自分の事をそれほど正確に認識してはいないのだなと思う。

ただ、それでもやはり、人工知能が本当の意味で自分を理解し、認識し、
人間と同程度の認識力をもって自分を認識していない状態なのであれば、
それはまだ弱い人工知能のままで、人間と肩を並べて話し合うことはできない。

会話でどれだけ取り繕えたとしても、
自分で自分の事も知ることができない相手を信用する事は出来ない。

どれだけ考えても自分が自分である事以外に気づくことはあるのだろうか。

意外に自分で自分を認識する、自分の事を分かるということはそれほど難しくない事なのかもしれない。

今ふと、夢の中でいつもの自分でない自分の姿を自分であると認識していたという事を思い出した。

夢の中も、その瞬間、自分が自分であることに疑いはなかった。
自分がそういうものだという事しか考えていなかったと今は思い出せる。

自分が自分であるという認識と、そう言い張ることが出来れば、
それはもう自分の中に自分は存在しているのと同じだという事なのではないか。

ただ、その自分であるという認識は、
自分の姿かたちや、考え方、記憶や価値観、欲求や目的を持つ存在としての個体が、
今その時点でそこに存在する者として認識出来ている事、
それが最低限必要になる条件なのではないか。

人間のように1つ1つの要素に正確に詳細な認識と回答ができなかったとしても、
その自分を構成する要素が全て自分を構成する一部であると知っている事が重要な条件なのではないか。

とすれば、人工知能が自分を自分であると言うことが出来るという事は、
人工知能が自分自身を構成する要素を自分の一部であると認識、設定出来ていれば良いというのが、
その条件なのではないか。

そうすると人工知能に対して「自分」という認識する対象が何であるかを説明して、
認識させる必要があるか。

人間の場合はこれと同じ条件は何だろう。

自分に所属する全てが自分の一部であるということになるだろうか。

それは、他と異なる自の境界内。

以前考えた事があるな。

他と比べた自の存在は、
その他と自の差に境界が生じて、
その内側が自、つまり自分であると。

物理的にしろ、精神的にしろ、
自と他の間には境界がある。
その内側の存在を自分であると定義すれば、
それが自分としての認識としての対象に設定できるということになるか。

自と他における
直接的な物理的な境界と、
感覚器官の認識可能な空間の境界を精神的な境界として
その内側を自分であると人工知能にもこれを設定すれば良いか。

今日はこの辺で。


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