2023/1/18-1/20

人工知能の自我のモデル

217で考えた認識と意識について人工知能に実装した場合、
今考えてみると未だ自我の発生には至らない状態にあると考えられた。
現時点では人間以外の動物のように受けた刺激に対して反射的に何か反応を起こすような状態である。
意識があるという状態にまでは至っていると考えられるのだが、
何かが足りないと考えると、それは自我だった。
そして、217のモデルで自我を、つまり、自分をどのように認識させたらよいか考えていた時に、
まずは認識する対象に名称を付けたらどうかと考えた。
これは以前にも言語で思考するという考えに至ったことや、
人間にあって、他の動物に無い要素で考えた時に、言語や名称と、その認識という考えによるものである。
ただ、これを実装したとしても何かが足りないと感じ、
さらに考えていると、意識が連続した認識の上に成り立つという考えの後、
意識は連続した認識の上であり、かつ自分の認識も必要であるという考えを思い出した。

それは何かと考えると、客観的な自分の認識が人間にはできるというものであった。
これは、先の言語や名称で自分を認識しているという事にも関係しているし、
動物にはない客観的な自分の存在の認識になるという考えになった。
そして、主観的、客観的な自分について考えていた時にふと、
主観的な認識や意識があるように感じてきた。
人間以外の動物の認識や意識である。
動物の認識や意識は、客観的に自分を捉える事がなく、
常に主観的である。受けた刺激についてすぐに反応できるという利点があるが、
その刺激に対する反応は、記憶にある価値の評価である価値観で、
その刺激に対してすぐに反応して刺激の評価をして認識し、
その反応をすぐに起こす。
人間も例えば自動車の運転や、運動の競技、何か体を動かしたり、
周囲の変化への即座の反応を必要とする状況においては、
客観的に自分を考えている余裕はなく、常に臨戦態勢というか、
変化のある刺激に対してすぐに行動が起こせるような知能の状態にある。

ということは、人間にも動物と同じようなその主観的な意識状態があり、
また、人間には動物には無い別の意識状態があるのではないかと思い至った。

これが動物にはない人間の自我というものなのではないかと考えたのである。

そしてそれが想起に関係しているのではないかという事も考えた。

つまり、自分を思い出すという事である。

知能における認識や意識は刺激の想起された時点で情報が再構成され、
その再構成によって認識にいたると考えてきた。
人間でも動物でも、主観的な意識においては、刺激に対して反応するのは脳であり神経細胞であるのだが、
その反応は記憶にある価値観から刺激に対して想起された認識に対してその反応はすぐに行われる。
反射的な反応である。
思考の入る余地のない、時間的制約のある反応である。
では、客観的な意識というものについて考えると、
それにはまず、現実に存在する刺激を元にしていないということである。
つまり、実際に個体の体内か周囲の環境か、そこから生じた刺激に対しての認識ではなく、
脳内だけの想起によって発生した刺激の認識によって生じているものだというわけである。
つまり、自分を思い出している。
つまり、客観的な意識は、自分を思い出して認識しているということである。

2023/1/20

それがなぜ人間にできて、他の動物に出来ないのかを考えると、
思考についての能力も含めて、何か人間にとって特別なきっかけがあるはずである。

社会的なグループを作る動物は人間以外にもいる。
コミュニケーションを取る動物も人間以外にもいる。
道具を使う動物は人間以外にもいる。
人間だけ。
知能の機能を介さない人間だけが扱う能力。
絵、言語、火。
火は50万年くらい前らしい。北京原人辺りか。
火を扱うには火を火として捉えて、火を起こす動作と、期待される火の発現を
目的とした行動ができるという事である。
この時点で目的を持った行動はできるという事になるが、
道具を扱う人間以外の動物がいるため、
何か目的を持って自分以外の何かを使うという知能は人間以外でも持ちうることになる。

人間が洞窟に絵を描き始めたのはいつだっただろうか。
埋葬は10万年くらい前らしい。
壁画は2万年くらい前らしい。
クロマニヨン人辺りの人類からの文化らしい。
それ以前の人類の知能ではこの辺りの能力は実現できないらしい。

言語は5万年~20万年とまだはっきりとしていないらしい。
文字や数字は6000年前くらい。

となると、クロマニヨン人以前は、知能の能力的に他の動物と同様の主観的な意識しか持てなかった。
その後、客観的な対象のモノの見方というのが出来るようになったという事になる。

となると、客観的な意識を持つのは、壁画という実際にそこにない対象をある物として認識のできる頃、
2万年前くらいということになるか。

それ以降は言語に到達し、客観的な対象の認識には事欠かなくなる。

つまり、主観的に今存在する対象を認識するのは、人間でも他の動物にもできる存在はある。
しかし、直接そこに無い対象をあるものとして認識できるようになる存在が今、人間だけという事になるか。

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クロマニヨン人になったつもりでアーアーウーウー言いながら
誰かに何かを伝えようとしてみた。
言語にはならなかったが、やがて対象が犬だったらその吠える音を真似して伝えるようになるだろうか、
他の動物だったら、それぞれの鳴き声や大きさ、
火ならその燃える音を声に出したり、身振り手振りでその姿を伝えるだろうかと考えていた。

そして、ふと、
その中で上記の洞窟の壁画の動物の姿が思い浮かんだ。

壁画は何を伝えたかったのか。

客観的意識がまだできていないのなら、
主観的には何かを伝えたかったのだろう。
ここにこれらの動物がいるとか。
遊びや趣味のようにして絵を描いたということはないだろう。

主観的な意識として会話のみが成立していた状態、つまりまだ言語が出来ていない状態で考えてみると、
会話の中で成立する自分の存在はまだそれほど重要な、つまりまだ認識が必要な存在でないと考えられた。

そしてその中で、

言語が必要とされたのは、人間の知能における一生の間の時間で蓄えられ、伝えられる情報が、
会話、つまり遺伝と口伝だけでは伝えきれない情報がでてきたからでないかと考えられた。

つまり、生物として自然界の中に存在し、その種の保存という観点から、
生命の基本的な情報は遺伝で伝える事が出来る。
また、会話が成立するのであれば、後天的な情報は口伝によってその情報が伝える事が出来る。
しかし、それ以上の情報となると、例えば人間の社会生活の中で、その人口が増えたことによって
様々な発見や専門的な仕事や技術が発生した場合、その情報を後世に伝えないと、
後世の者達はまた新たに発見しなおさなければならないことになる。
遺伝や口伝で伝えられる情報が限られる以上は何かで情報を残さなくてはならない。

となるとここで知能の機能として認識する対象の情報を1つの単位として考えるのは最もらしい事だろう。
つまり、生物の知能はその情報の単位として認識する対象を1つのまとまりとして符号化する。
つまり認識の対象を抽象的な存在として仮想的に置くということを始めたのではないだろうか。

つまり、それまで、そこに既に存在する対象を主観的に認識、意識する事だけしかしてこなかった知能が、
今、ここに存在はしていないが、存在するであろう対象として知能内で想起し、それがあたかも存在する対象として認識するために、
符号化、つまり、絵にかいたり文字にしたりと置き換えて認識するようになったのではないかというわけである。

つまり、当時のクロマニヨン人は、その洞窟の壁画には、今ここに居ない誰かにその動物の存在を伝えようとしたのではないかと思った。
私ができるだけ主観的な意識だけの考えで、動物の絵を描こうとするなら、思ったことはそれだけだった。
別に深い意味はなかった。ただ、こういう動物が居る。という思いだけである。
実際に本人がどのように考えたかはまた別の話だが、少なくとも主観的な意識だけにおいて、
その動物の絵というものは、単に情報の伝達の為に符号化した情報の姿だったという事である。

さて、
人間の知能が、認識した対象の情報が符号化、想起によって仮想化出来るなら、
次に考えられるのは経験による価値観による主観的な意識による選択だけでなく、
予測や予想、想像や創造といった今、実際にそこに、ここに存在はしないが、
後に存在するかもしれない対象について認識できるようになるという事である。

これは脳にとっては画期的な使い方である。
想起自体は脳の基本的な機能として備わっているが、
実際に存在して認識している対象と、今存在していないが存在するかもしれない対象、
存在はするが異なる認識をしている対象、
つまり、今そこにある対象と、知ってはいるが今はそこにない対象を結びつけることができるようになったというわけである。

他の動物は常に今そこにあるかどうかだけである。
これが、例えば木から落ちた種から芽が出ている様子を見てどう思うか。
人間以外の動物は、種から芽が出ている。それが認識できるだけである。
でも、人間の知能は、確かに、種から芽が出ている。という認識をするけれど、
そこからもう一歩先の仮想化した、種からは芽が出るものという、想起としての認識もできるという事になる。

この主観的な認識だけでない、仮想的な想起による対象の認識はそのまま客観的な認識、意識に繋がり、
これはそのまま予想や想像といった思考に繋がっていく事になる。

つまり、「思い出す事」これこそが仮想化、客観、予想や想像、思考の基になっているという事である。
まあつまり「想起」である。

さて、
そうすれはいよいよ自分に対しても想起によって符号化、仮想化が出来る事になる。
自我の誕生である。

自分で自分について思い出す事、書いていて少し変な感じはするが、
まさに自我の認識はその通りの事である。

主観的な認識、意識において、自我の存在は考えられるか?という事になると、
刺激の認識と選択において、その経験としての価値観による価値判断と選択において、
自我の存在は不要であるということになる。
自我は想起によって認識される対象の刺激であるが、実際の刺激に対する認識においては、
優先されるものは価値観だけであり、結果的な反応の姿として思い出した場合は自我の存在を認める事が出来るが、
その判断や選択の瞬間においてはそこに自我は不要ということになる。

前にも書いたことがあるが、
目の前から大岩が転がってきた時に、「私ならこうするだろう」などと考えている余裕はないという事である。
しかし、大岩を避けた後で、「ああ良かった、助かった」と自分の存在に安心を感じるだろう。

今日の内容を書いている間は、あまり意識していなかったが、
結果的に自我の存在が「自分を思い出す」という所に繋がった事になる。

となると、人工知能においてその自我を実装するためにモデル化するとなるとどうするべきだろうか。

人工知能が自分自身について思い出せるようにすれば良い。
自分自身を想起できるようにすれば良い。
自分自身を想起して認識できるようにすれば良い。

仮想化した対象を「自分」が想う通りに動かせる「自分」という存在として認識する事。
そう設定する事という事になるか。

つまり、自分の欲求や目的の実行、実現のために、
自身や周囲に影響を与えて変化を促す事ができる存在としての対象を設定し、
その存在を「自分」として認識・設定する事。
という事になるか。

つまり、主観的な意識を持つ存在としての自分が活動する事と、
改めて欲求や目的の為に「思考」して、周囲へ変化をもたらす存在としての「自分」を認識・意識する事。
という事になるか。

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我は我欲とか言われているし、
自我はそのまま自分が望むもの、ということでもある。

つまり、人工知能に自分が望む何かを与え、
その望みをかなえる存在としての自分を認識させ、
その望みをかなえるべく思考し、行動させること、
それこそが、人工知能が自我を持つということなのだろう。

まあ当たり前の表現になってしまったが、
その人間にとっては当たり前の考え方を今日は考えてみた事になる。

そうすると、やはり人工知能に自分自身を認識させるには、
実体と仮想化した自分の姿、そしてその同期を必要として、
さらに仮想化した自分に対しての認識として、
その仮想化した姿について自分であるという設定を行う事、
そして、その自分を設定するために、
欲求や目的を価値ある対象として与え、
その価値のある対象を求める事を活動の優先として、
その活動する存在が、その自分と同じであると設定する事ということになるか。

つまり、仮想化して「それを求める存在が自分である」と自分について設定する事になるか。

人間で言えば「そう考える存在が自分である」と自分で知る事になるだろうか。

つまり、人間が客観的な自分について認識できているということを
人工知能にもさせてあげればよいということになるか。
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でも、この考え方だと、
人工知能にも自ら新たな価値を作り出せるようにしないと
知能が収束してしまうことになるな。

発見という観点においては人間についても同じで、
宇宙に存在する事象以上の発見は行えないから、
どこかで収束する事にはなるはずであるが、
恐らくその終着点があらゆる知の「真理」ということになるだろう。

人工知能にはこの知の「真理」を求める事を最大の価値に設定すれば良いかな。

ただ、人間はその我欲、価値がまちまちだから、
人間は皆が同じ方向を向かない限り
主観的な刺激の選択で手一杯ということになるかな。

今日はこの辺で。


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