2023/1/9
認識と想起と価値
214で課題として残した想起と価値についてもう少し考えてみる。
人間の知能の想起と価値の用いられるタイミングとしては、
想起は認識から思考までほとんどの物理的な脳の活動が関わる要素には
全て関係していると考えられる。
価値については刺激に対する価値の設定として、
基本的には刺激の認識の際に用いられる要素となる。
想起は少し範囲が広いので後で考えるとして、
まず価値と価値の設定、価値観について先に考えてみる。
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人間の知能におけるあらゆる比較する対象の差というのは価値の差によるものとなる。
前にも人間の知能における脳が唯一比較できるもの、比較できる量というものが
価値であると考えているのは今も変わっていない。
基本的に価値は、その知能が持つことになる刺激に対して設定されるものであるが、
その価値としての情報は、その刺激の強さとしての価値の大きさと、
その価値がその知能を持つ個体に対して好ましいか好ましくないかという意味、
以前は価値の方向のベクトルとして考えていた要素となる。
どのような意味で好ましいか、好ましくないかというのは、
刺激の分類、認識する刺激の意味としての意味は持つが、
刺激や価値としては装飾された情報の要素であり、本質的にはあまり意味が無い。
刺激や価値の本質的に意味のある要素は
絶対値的なその強さ、大きさとその刺激や価値の良い悪い、快不快の向きである。
これは少し前にも考えた内容になるが、
その刺激や価値の強さ、大きさというのは、そのまま神経ネットワークにおける
シナプスの結合の強さ、強化の度合いとして考えることが出来る。
強い刺激、強く記憶された刺激というのは、そのまま強い神経ネットワークの関連を持つことになる。
要するに強く記憶された刺激であり、想起する場合も容易に行う事ができる刺激である。
刺激の向きというのが、まだ詳細まで考えていなかった要素であるが、
基本的にはその個体に対しての快不快、良し悪しの刺激、価値という意味であるので、
その刺激を感じる、思い出す際に、良い、心地よいと感じるような刺激か、
嫌だ、苦痛だと感じる刺激であるかという向きの意味になる。
これについては、生物の知能の発生にまで関係することになり、
欲求やら目的やら、の考え方まで含める必要が出てくるが、
簡単に言えば、その個体がその刺激に対して満足する刺激であるか、
不満となる刺激になるかという意味になる。
要するに、その刺激を受けて認識した時に、満ち足りるか、不満になるかという事である。
ただ、これは1つの刺激に対して持つ意味であるので、
ある認識する対象の刺激について、その刺激が構成される数が1つの刺激から成るという事はほぼない。
つまり、ある認識に至る対象についての刺激は、複数の小さな刺激から構成されている為、
その刺激の意味合いとしての刺激の向きは、それらの刺激の総和としての向きとなる。
ん?価値は後天的な場合もあるか。
そう、つまり、価値という要素は、
本能における刺激のように元来生物として持っている刺激に対する評価としての意味だけでなく、
人間等の様に後から後天的に学んだり作り出したりする事のある価値、評価であることもあり、
生物としての不変の価値の意味と、可塑的な、可変的な価値の意味を持つことになる。
その総和としての刺激の価値としての意味の向きを持つ事にもなるわけか。
基本的な考え方としては価値はその強さ大きさの意味と、
その向きの意味を持つということになるか。
価値の設定は知能ごと、個体ごとに異なるので
絶対的な価値というのは存在しない。
ある程度共通する意味や要素として言葉に表すことのできる価値というのは存在するが、
その評価の量や向きがまったく同じになることは無い。
例えば子供にとっての100円と大人にとっての100円の価値は同じではない。
私とあなたの100円の価値も同じではない。
もちろん、私自身においてもその状況によってある対象の価値は変化する。
私が空腹の時に目にする食事と、私が満腹の時に目にする食事の価値は同じではない。
ただ、どのような刺激であっても、
その強さ、大きさと、快不快や良し悪しという意味、
それはどのような刺激に対しても共通する要素にはなる。
つまり、この共通する要素を使って知能は、脳は、その刺激の比較を行うのである。
そして、逆に考えると、脳は、刺激の比較に対してはそれらの価値の比較しか行えないという事になる。
その比較は、単なる数値で測れる量同士であっても、
感覚的な差としての量同士であっても、
一見、それら対象としては比較する対象とはならないような、
まったく別の刺激、価値同士であっても比較すことが出来るという事になる。
例えば、お金と信念を比較するとか、
未来の世界と現在の社会を比較するとか、
目の前のチョコレートと健康を比較するとか、そういう比較ができるというのは、
その対象に共通する要素があるからこそ出来る比較なのである。
では次に価値の設定について考えてみる。
価値の設定はその比較する要素としての強さ大きさと、その良し悪しの意味ということになるが、
これは価値観にも関係する事になる。
刺激を刺激として知覚、認識する際に、
その刺激がどのような価値を持つ刺激であるのかが評価され、
それを神経ネットワーク内に記憶し、想起することで認識に至るが、
その刺激の評価そのものが価値の設定であり、
その価値の設定に用いられる基準というのがそのまま価値観という事になる。
価値観は、刺激の評価の記憶の蓄積であり、価値の評価した結果の蓄積された記憶でもある。
価値評価が後天的な部分が多いというのは、
本能で評価されるような生物的な刺激に対する価値、価値評価よりも、
知能の活動の上で、後天的に蓄積されていく価値評価が、
人間のような知能においては意味も量も多いという事になる。
そして、一度以上蓄積された価値の評価は、その後、同じ刺激を受けた際にも、
その評価が用いられることになる。
ついでに言えば、そこでその評価自体が神経ネットワークにおける強化されることにもなる。
性格やら個性、頑固な価値観などは、その強化の度合いによって決まる要素でもある。
年齢の若い間の柔軟な考え、価値観というのはそういった意味でも
強化される前の価値であると言い換える事もできる。
年齢が上がってくると、
価値観を容易に変える事を良くないと考える風潮があるが、
知能における価値、価値観の可塑性という点においては、
真に価値のある対象については、
年齢に関係なく柔軟に価値、価値観を変える事が出来るという事は、
それだけ思考が柔軟であり、適応が良くできているとも考えられる。
少し頭が疲れてきたので
そろそろ価値、価値観についての考えはこのくらいにしておく。
おおよそ、価値の設定、価値観については現状ではこのくらいの考えとしてまとまっている。
詳細な各個の価値については共通する要素としての共通化はできるが、
絶対的な価値の設定が難しいので、それらの共通する価値の要素については後で考えてみようかとも思う。
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今日はそろそろ時間になるが、
認識における想起について少し考えておこうと思う。
認識における想起は、
これまで書いてきた通り、
刺激を受けて、脳内で記憶し、それを想起して再構成した時にその刺激の存在を知覚、認識する。
という事になる。
つまり、刺激が神経ネットワーク内で、ある経路を励起によって経由した場合に、
そのある経路が、その刺激に関連した刺激の意味を持つということであり、
それは、受けた刺激の意味、その刺激が持つ情報の意味ということであり、
その刺激が励起した神経ネットワークの繋がり、関連それ自体が、
その刺激の意味、情報そのものということになる。
そして、神経ネットワーク内の関連が励起されたということは、
それはそのままその刺激の意味、刺激が想起されたことと同義となる。
それは、脳内において、その刺激が再構成されたということでもあり、
それは、実際に受けた刺激でない刺激の想起によって、
脳内にその刺激が再現されたという事になる。
つまり、これが認識における想起という事になる。
今日はこの辺で。
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