2022/12/10

認識のあいまいさと許容の幅

210で考えていた後に
認識においてその対象についてどれだけの情報があったら
認識できる対象として脳が判別できるようになるのか考えていた。

そして、逆に
認識に許容度と言えるような幅があって
それで個別の認識をしているのなら、
つまり「あいまいな認識」でも認識の対象として許容できるようになるのではないかとも考えた。

210でも例に挙げていた「ネコ」の認識を考えてみた時に、
もちろん、今例えば目の前に猫がいたとしたらそれはそれで猫の認識はできることになる。

もし、その猫が頭に袋をかぶっていて、その頭部が分からなかったとしても、
その他の体の動く様子を見れば私は猫として認識できるだろう。

おそらく猫が犬の顔のお面をつけていてもその動きで私はそれを猫だと認識するだろう。

ただ、猫の体が見えない状態で、その頭部に袋をかぶっていて動きがなかったら
私はそれが何だか認識できないだろう。何かの袋があるとしか認識できないはず。

これだけの事でも、私が猫を認識するために必要としている情報は、
頭部の位置、頭部の形、体の形、個体の動きやしぐさ、
そういった情報が必要だという事になるが、
その全てが同時に必要ではなく、特徴的な情報さえあれば、
それだけでも私は対象を猫として認識できる。

私が持つ猫に対する認識するための情報としての刺激の関連は
それぞれが最終的に「ネコ」という認識をするために繋がっているが、
私が「ネコ」を認識するためにその関連する刺激の情報の全てが必要ではなく、
最終的に「ネコ」がその想起された刺激で構成された対象が「ネコ」の刺激の想起に
至れば良いという事になる。

神経ネットワークはその関連において細胞の励起による発火がその関連した先の細胞に伝わり、
それが関連した一連の刺激の励起による想起によって対象が頭の中で認識される対象として
再構成される。
そして、その再構成された対象が認識に至って、今私はその対象を認識した対象として見ていることになり、
その対象を知覚した、認識した状態であるということになる。

例えば私が過去に「ネコ」を認識したあらゆる時の刺激の情報が、顔の形だけであったら、
顔を隠した猫を見てもそれが「ネコ」だと認識することはできないはずである。

つまり、私が過去、「ネコ」を認識するに至ったあらゆる経験、つまり、「ネコ」を
認識した時に関連させたあらゆる刺激の情報は、その刺激の認識の記憶として
「ネコ」に全て関連されたままであるという事になる。
それは刺激の認識と記憶、価値観、その辺りの話にもなるが、
そして、「ネコ」を認識するに至ったあらゆるタイミングで、
その「ネコ」に対する新しい関連する刺激があれば、
それはその関連を新しい「ネコ」に対する関連する刺激、情報としての関連として
記憶することになる。

つまり、知能が活動していくとある対象に対する関連する刺激、情報は
その認識の度に新たな刺激や情報があると、それをその関連に付け足していくことになる。

だから、私が対象を「ネコ」として認識するためには、
その「ネコ」という刺激が励起されるだけの関連した刺激の情報が励起される必要があり、
それは「ネコ」に関連した全ての刺激ではなく、その「ネコ」が励起されるために
必要なだけの刺激が励起されれば良いということになる。

つまり、このことが、知能があいまいな情報だけでも対象が何であるか認識できるということになる。

だから、もし私が猫の大きさをした袋から、猫の尾っぽのような動きをするおもちゃが出ていたとして、
それがふりふり動いていたとしたら、私はその袋の中に「ネコ」がいると認識するはずであるが、
実際はそこには「ネコ」はいないということも起こりうる。
しかし、知能の認識ではそれで充分なはずで、今度は私はその経験によって、
次に同じような状況である対象を見たとしたらその尾っぽはおもちゃであって「ネコ」はいないと
認識するかもしれない。

ある対象についての認識は、
その知能が活動している間常に行われていて、
その認識に対する刺激の関連は常に追加と更新、強化が行われている。

商店である対象物に対しての認識を行い、
それをお金を支払って手にした場合、
最初の認識においてはその対象はお店の所有の商品であるという認識であるが、
それを購入した時点で自分が所有する品に変わる事になる。

それが食物であった場合にそれが存在している状態と、
食べてしまった後にその存在が変化する様子であるとか、
久しぶりに会った友人の見た目が変わっている様子であるとか、
知能が認識する対象というのは常に更新が行われている事になる。

ただし、それでも更新されない刺激や情報というのも存在する。

それは認識に至る刺激の再構成された対象である。
つまり、認識することのできる対象として想起された刺激から再構成された対象、
つまり、今回の話であれば「ネコ」である。

つまり、「ネコ」は猫である以上の何かではない。
その対象が誰かの飼い猫であったとしても野良猫であったとしても、
「ネコ」は「ネコ」である。
絵の猫であっても、空想の猫であってもそれは間違いなく「ネコ」である。

つまり、最終的に認識される対象というのは、
その関連する刺激の情報1つ1つの組み合わせがどのようなものであっても、
認識された時の対象としては最終的な何かという事になる。

つまり、ある認識する対象について、
その関連する刺激や情報はあいまいである事はあるが、
その認識されたときの対象があいまいであることは無いということである。
つまり「あいまいなネコ」という認識はないということになる。

もし「あいまいなネコ」を認識する必要があるとしたら、
知能は「ネコ」と「あいまいなネコ」はその認識を異なるものとして認識する事になる。

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つまり、認識のあいまいさというのは、
その認識する対象に関連した刺激や情報がいつも同じではなくても認識に至ることができるという事であり、

認識の許容の幅というのは、
その認識する対象が再構成に至るまでに必要となる刺激や情報の量、
つまり、最終構成対象が想起に至る強さの関連する刺激の励起の量ということになる。
そして、その最終構成対象が想起に至るまでの関連する刺激の励起の量は、
その関連する対象は特定の刺激ではなく、その量が最終構成対象の想起に至れば
その種類や数は関係ないという事になる。

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ということは、認識に至るまでの関連する刺激には、
その関連の強さというのはそれぞれ情報毎に異なる事にもなる。

今のこの話にうってつけの連想という都合の良い言葉があるが、
それはある対象を想起するためにその関連する刺激を励起することによって
目的の対象を想起させようとする事である。

連想ゲームで「ネコ」のお題が出たら何をヒントにするだろうか。
「ヒゲ」「耳」くらいでも十分連想できるだろうか。
大人であれば「まねく」とかも良いヒントになるだろうか。

つまり、ここで出したヒントは今回であれば私が「ネコ」に対して強く関連させている
刺激の情報であり、しばらく考えないとヒントに出てこない「四つ足」とか「野良」とかは
関連しているが弱い刺激や情報であるということになる。

つまり特定の対象を確定的に認識するには、
それが特定して認識できるだけの刺激や情報が必要であるが、
それはあいまいさや許容する幅というのは常にあって、
知能はそれを常に更新する存在であるということになる。

シンプルに考えれば、
認識がはっきりした方がその後の対処法が確定的に行える、
その方が有利であるということになる。
つまり、
変化や対象について正確に認識できた方が、その後の対処が上手く行える、
つまりは生存しやすくなるという事になる。

そのために知能は日々新しい刺激を価値あるものとして認識し、
それを価値観として記憶していくということになるだろうか。

知能の基礎的な機能であるが、
改めて考え直すと新しい発見というのもあるものである。
今日はこの辺で。


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